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「ん? どうかしましたか?」
純人が伊師崎の視線に気付いて問い掛ける。
伊師崎と目が合うと、ウェイターは近寄って来ようとしたが、すぐに伊師崎が右手を上げて押し止めた。
それに気付いた純人も振り返り、状況を飲み込んで、ばつの悪そうな顔で頭を下げる。
「大声を出して、すみませんでした」
伊師崎に向き直り謝罪の言葉を口にしたが、伊師崎は無表情なまま、意識を再び原稿へと集中させた。目の前の純人のことを気にも留めていない。
「ところで──質問は何だったかな?」
やっぱり聞いていないじゃないか──純人は胸の内で小さくぼやいた。
「だからぁ、僕の小説の出版が差し止められたっていう話じゃないですか。理由も教えて貰えないことについて、どう思うかと訊いたんです」
「ああ、そうだったね──続きをどうぞ」
伊師崎は原稿を捲っては左隣に裏返し、きちんと四隅を合わせて積み重ねていた。視線は動かさずじっと原稿の中心を凝視して、一度だけ瞬きをすると次のページへ。それの繰り返し。まるで写真を撮っているかのようだ。
「いいですか? きちんと聞いてくださいよ。今まではコンテストに応募したり、直接持ち込んだりして出版に漕ぎ着けていたんですけどね、今回は出版社からの依頼で書き始めたんです。テーマも好きに決めていいっていうから、前から書いてみたかったサスペンスとミステリーが混ざったような感じにして、パンクバンドが国際的な陰謀に巻き込まれる話にしたんです」
「もうあらかた読み終えたからストーリーの説明は不要だよ」
「え? もう読んだんですか?」
裏返っていない原稿は数枚しか残っていない。純人は腕時計で時間を確認した。あと数分で午後11時になるところ。入店してから、まだ30分も経っていない。
「と、とにかく──出版社の担当者も僕の最高傑作じゃないかって、とても褒めてくれていたんです」
「ほう──それは良かったじゃないか。それで?」
「必要な打ち合わせも全て済んでいたし、発売日まで決まっていた。そして、これが最後の推敲を終わらせた決定稿で、編集長に確認して貰って──」
「編集長?」
伊師崎は最後の一枚を裏返して原稿の山に重ねかけたところで手を止めた。顔は動かさない。
「ええ、数日前に最後の手直しをして渡しました。編集長の確認が終わって、今日の午後から契約書を交わす予定だったんです。そしたら、今朝になって急にですよ。担当者から、出版の話は無かったことに──って。契約書を交わす前だったから、僕には一銭も入ってきません。申し訳ないと謝ってはくれましたけど、理由を訊いても何一つ教えてくれない。そんなこと、あります?」
「何か心当たりは?」
伊師崎は最後の一枚を原稿の山に重ね、両手で丁寧に整えながら尋ねた。
「いや、心当たりなんて無いから、こうして相談してるんじゃないですか」
「しかし、そこまで準備が整った出版を取り止めるのなら、君自身か作品自体に出版出来なくなった理由が存在するに決まっている」
「そんなこと断言されても、本当に何も無いですよ」
「犯罪や非道徳的な行いをしたか──出版社の悪口を触れ回ったりしたんじゃないのか?」
「そんなことする筈がないですよ!」
「では、作品に原因がある。最後の推敲で変更した箇所はないのか? そのせいで──例えば、君の新作を出版すると、会社が潰れかねないような厄災がもたらされる恐れがある──とか」
純人は悟った。相談する相手を間違えていることを。
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