靴を磨く男

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 九時になって、鈴木は店を出た。  施錠を二回ほど確認する。ウィンドーに視線を留めた。秋の新製品が飾ってあった。背広を着たマネキンが四体。いずれもニ十万はくだらない代物だ。    そして、鈴木は同じ物を着ている。 茶の梳毛(そもう)の上下。  家から一歩出たら仕事のスイッチを入れる。残暑でも冬の装いだった。  鈴木は梅田駅に向かって歩いた。行き交うビジネスマン、コンパの大学生が居酒屋の前でたむろしていた。  駅の高架下に靴磨きの男が座っていた。少し前から見かけたが、いつもお客が待っていた。  今時、靴磨きとは珍しい。それも磨いているのは今時の若者だった。まぁ靴好きが、半分道楽でやっているんだろうと鈴木は思った。  俺の靴がまさか二十年ものの名品とは判るまい。  若い靴磨きの実力がいったいどんなものか試してやろうと、鈴木はさっき磨いたばかりの靴で試してみることにした。   「いらっしゃい」  若い男は笑顔で挨拶をした。  鈴木は椅子に座ると台に右足を乗せた。 「へーこりゃ凄い」若者は顔を輝かせた。「世界中で質のよい革が減っていますからね、これは凄いな、なかなかの逸品です」 「ありがとう」  若者はあっさり見破ってきた。 「メンテナンスもしっかりしているみたいですね。因みに購入は何年前に?」 「だいぶ古いけど何年くらい前に買ったか判るかな?」鈴木はわざと聞いた。 「何年前ーーー。えーっ、十年、いや十五年くらい前っすかね?」    鈴木は二十年だと言った。 「そんな前でこの状態は、お客さん、もしや、阪急デパートで働いていますか?」 「ハズレ」 「ハズレましたか。まだ、暑いのにびっちりスーツを着ているから、てっきりデパートのお人かと」 「いや、路面のスーツ屋だ」  若者はなるほどという表情をすると、さっそくブラシをかける。 「店は売れています?」 「厳しいね」 「でも、メンズは床屋商売って言うんでしょう? 男性の買い物って、最初から買う場所を決めていませんか?」 「確かにそうだね。でもやっぱり父親の買い物なんか、家族の中では最後だもん。なかなか厳しいよ」 「なるほど、確かに。この辺りのメシ屋もワンコインランチとかありますもんね」  若い靴磨きは手際よく靴クリームまで仕上げた。  なかなかやるじゃないかと鈴木は思った。 「君は、なぜこの仕事を?」 「お客さんはどうして服屋を?」  若者は会話を楽しむように聞いてきた。 「服が好きだったーーー」 「同じ理由です。僕は磨くのが好きです。ーーーでも、お客さん好きだったとは?」 「今はつまらないよ」  鈴木は正直な気持ちを言った。 「つまらないとは、飽きたってことですか?」 「三十年以上同じことをしているからね」 「それなら、一国一城の城主になる気は?」  独立するには資金もなければ勇気もない。結局は雇われのままだった。 鈴木は顔を横にふった。 「今の子は何かと希薄だ、そんな中で君は偉いよ。自分の城を持っているのだから」 「靴は好きですから。でも、もっと好きなのはこうしてお客さんと話すことですかね」  鈴木はふわりと昔の自分を思い出した。 「ーーー昔は僕らが若いころは、新人が掃除機をかけるんだ。一日でも入社が早ければ掃除機を卒業できる。その瞬間から先輩だ。そして、掃除をしたり、たたみ、ブラッシング、そうすることで見る目を養う。もし売り物に傷があったら売らなくて済むし、お客に迷惑をかけないで済む。ーーーだが、今の若い子らはやりたがらないんだなぁ。店のパソコン、タブレットばかりをいじって、商品を見ようとしない。だから、いざサイズが欠品していても気づかないから余計な時間をもらわなきゃならないだろう? それに、客の取り合い、売り上げの取り合いがメインだ。お客さんが金にしか見えていないんだよなぁ……。今さぁ、店の掃除機かけてんの俺だよ? あと五年で定年を迎える俺なんだからさ、まいるよね」 「それだけのキャリアだったら、なぜ店長にならないんです?」 「おれのやり方が古いからさ。パソコンどころかタブレットだぜ。そこにきてマニュアルとやらがあって、その通りにしなきゃならない。面白くないね。だいたい若い子が俺についてこない。次、リストラがあったら真っ先に切られるの俺だもん」    話をしているうちに靴磨きは終わっていた。鈴木は胸の内に悶々とあったものがすっかり吐き出されていた。 「さぁ、終わりました。でも、終わったというより、お客さんの靴は最初からとんでもなく綺麗でしたからね。僕の仕事は何もなかったです」  若者はなんともいえない爽やかな笑みを浮かべた。 「お代は二千円になります」  鈴木は一万出した。 「お釣りはいらない」  若者は驚いた顔をした。 「靴磨きも良かったけど、話を聞いてもらえて、すっきりしたよ。これは俺のつまらない話の代金だ」 「ダメです。お釣りはお返しします」  若者は断固として言った。その代わりに、また来て欲しいと言った。 「一万なんかもらったら、それっきりになる。だったら五回来てもらえた方がいいです」  若者はまた話に来てくださいと頭を下げた。  鈴木は梅田駅のプラットフォームにいた。  俺は一介の販売員をやってきたに過ぎない。日々歯を食いしばり、一人、顧客満足を追求してきた。けっして、売り上げだけがすべてじゃない。  けれど、今日、あの靴磨きの若者に出会って、彼なら素直に負けてもいいと思った。  いや、彼は同士だ。  もう少し仲良くなったら、飲みに誘おう。あの若者となら熱い議論が交わせるはずだ。  
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