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秘密の恋愛
大島聡一はバイセクシャルである。そのことを知っているのは、学生時代の友人達とかつての遊び相手の数人くらいだ。教職に就くにあたって、遊び相手とは切れた。職場ではそんな素振りは見せずに、真面目な数学教師をやっている。背も高く均整の取れた体つき、顔面偏差値も高い聡一は、はっきり言ってモテる。声をかけてくる人間は多かったが、聡一が応えることはなかった。別段、心を入れ替えて真面目に恋愛をしたいとか、そう言うつもりはなくて、ただただ面倒くさくなったのだった。
そんな聡一が、よりによって男子生徒に惹かれるなんて晴天の霹靂であった。それまで、聡一の好みは遊び慣れた年上の男女だったのだ。
その男子生徒は入学式で新入生代表を務めた優等生である。黒髪のストレート、やや長めの前髪、黒縁眼鏡で、まるで漫画から抜け出してきたような容姿で、背は高いが痩せ気味で、聡一はなぜそんなに彼が気になるのか自分でも不思議に思う。彼、野仲陸は、真面目だが無愛想で、笑顔の一つも見せたことはない。ただ、誰よりも姿勢が良くて、まっすぐな後ろ姿がとても綺麗だと思ったのだ。
陸が俺を見てる、と聡一は直ぐに気付いた。聡一自身がそうなる様に仕向けたのだ。
季節は巡って、もうすぐ春休みもやってくる。陸を知ってから、1年近くが経とうとしていた。
プリントの束に挟まれた1枚の便箋。几帳面で大人びた文字で、陸の心情が綴られていた。最初から聡一が応えるとは思っていなさそうな文面は、どこか諦めを感じさせて切なくなる。
本当は、陸の卒業まで待つ予定だったのだ。聡一は自嘲する。そんな悠長に待てそうにない。恋をした陸はどこか危うい色気があって、聡一は気が急いていた。
陸からの初めての電話は、ちょうど聡一の誕生日の夜に掛かってきた。
そうして、聡一と陸の秘密の恋愛が始まった。
春休みである。
聡一と陸の初めてのデート先は、陸の希望で某市の中央図書館だった。学校からは随分離れた場所だから、他の生徒や学校の職員に会う危険性も少ないと判断して、聡一は了承した。私服の陸は普段よりも幼い印象で、きっと誰も恋人同士などとは思わないだろうと聡一は考える。
「俺、変じゃない?」
陸が不安げに俯いた。
「かわいいよ、陸。そんな固くなるなよ。俺まで緊張がうつりそうだ」
聡一は陸の頭をわしわしと撫ぜて、笑顔を見せた。こんな健全なデートなんて中学生以来である。そのことが聡一は妙に擽ったくて、内心は浮き足立っていた。
結論から言うと、その日のデートは失敗だった。どうしてこうなった、と、聡一は頭を抱えた。自室のベランダで大して好きでもないタバコを燻らせる。
図書館では問題なく、楽しく2人で過ごせた。古い映画のDVDを2人で一緒に観たり、好きな小説を勧めあったりした。問題があったのは帰り際に2人で入った洋食屋さんでのこと。学生時代の友達とも呼べない知り合いと偶然に鉢合わせしてしまったのだ。そいつはお喋りで、聞いてもないのにベラベラと聡一の学生時代の逸話を陸に話して聞かせた。面白おかしく脚色までして。
陸の表情が抜け落ちて、聡一を冷ややかな目で見て、消え入りそうな声で先に帰ると言って店を飛び出してしまった。
はぁ、何度目かも分からない溜め息を吐いて、聡一はスマホを手に取った。
あの後、もちろんすぐに追いかけたのだが、陸は何故か見つからず、電源を切っているのか、電話も全く繋がらなかった。何度も送ったメッセージも未読のままだ。
聡一は過去を隠すつもりはない。だが、あんな風に他人から面白おかしく暴露させるつもりなんて微塵もなかった。自業自得ではあるのだけれど、やり切れない。名前もあやふやなあいつを殴りつけてやりたかったが、職業柄、暴力に訴えたら最悪なことは目に見えていた。
翌日、学生は春休みだが、教職員には普通の平日である。職員室で書類の整理をしている時、ポケットの中のスマホが震えた。「ごめんなさい。聡一、会いたいです」短いメッセージに、迂闊にも涙が出そうになる。陸のことを手放すなんて、自分には出来ない。陸が自分から離れたら、聡一は自分でも何をするか分からない。狂気にも似た感情に、聡一はその時初めて気付いたのだ。
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