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散椿が願ひ・弐
「従重様に……お寂しい思いはさせたくない」
そう呟いてからの紘子には、微塵の逡巡もなかった。
今にも雪が降り出しそうな空の下、雪の先導で左山藩邸に急ぐ。往来の人々の歩みにさえまるで追いつかない速さでも、紘子は懸命に杖で地面を突きながら前に足を出した。
「奥様っ!」
急ぐあまり足を縺れさせた紘子が地面に膝を打つ。咄嗟に付いた手のひらが擦って血を滲ませた。それでも紘子は立ち上がり、再び進む。
どれほど走り、何度転んだだろうか。着物の裾は泥に塗れ、手のひらも血と土に汚れ、それでも紘子はようやく左山藩邸を眼前に捉えた。
左山藩邸の門前では、門番をしている左山藩の用人がただならぬ形相で近寄ってくる紘子に気付き、六尺棒を構える。
「何奴!」
門番に棒を突きつけられても、紘子は怯むことなく勢いのまま門番の前に崩れるようにして膝を着き、頭を下げた。
「お頼み申し上げます! 佐野瀬見守様がご子息、田辺親房様ゆかりの者にございます、留守居様に何とぞお目通りを!」
額を地に擦るほどに深く頭を垂れる紘子の肩を、門番は容赦なく六尺棒で押さえつける。今日は邸内で武士が一人腹を切るらしく、邸の内外で一切の騒ぎが起きぬよう、起こさぬようと門番は厳しく言いつけられていた。そのような日に限って、何やら騒動の種にも思えるただならぬ様子の来訪者とあれば、不審に思わずにはいられない。
しかし、彼女の斜め後ろでは同じように雪が土下座しており、更に紘子の口から武貫を指す言葉と親房の名が出てきたこともあり、門番は警戒を解かぬものの二人の様子をまじまじと窺った。はたしてこの娘は何者か、女中らしき女を連れ、佇まいも武家の娘そのものだが、杖をつき頭巾を被るような身の上とは一体……と。
門番は紘子の肩に棒を当てたまま、
「妙な女が来た。田辺様と縁があると言うが、真か分からぬ。お伺いを立ててくれ」
と、門の内側で控える用人に言伝を頼んだ。
一方、左山の江戸藩邸内ではごく限られた者たちのみで「その場」が粛々と整えられていく。
ただし、この場は単なる詰腹とは違う異例のものだった。
白の小袖に浅葱色の裃姿となった従重が座した背後には介錯人が立ち、従重の前には立会人が座る。立会人は、従重の切腹に結果的に加担することとなった親房が務めるが、彼の隣には……重実もいた。切腹人の肉親が立ち会うのは異例と言えるが、峰澤藩主として、清平家当主としての立場を理由に現左山藩主に許されたのだ。
それだけではない。介錯人とは、本来切腹人の身許を預かる家から剣の腕の立つ者が選出されるもので、今回ならば左山藩から出すべきところだ。だが、従重の背後で刀を清めて待つのは……小平次だ。
峰澤側の、しかもまだ元服前の者が介錯人を務めることもまた、異例中の異例だ。
「左山佐野殿には、従重の望みを何から何まで叶えて頂き、かたじけない限りです」
重実は、儀式に則り黙って杯を口にする従重を見つめながら、親房にそう囁く。
重実の立ち会いも、小平次の介錯も、全ては従重の希望だ。
それは、従重が左山藩邸に身柄を置く前の晩、重実と兄弟初めて酒を酌み交わした夜のことだった――
「小平次を介錯人にだと!? 馬鹿を言うな、あれはまだ――」
「小童だと? ええ、確かに小童です。されど、兄上はゆくゆくはあれに峰澤の剣術師範を任せたいのでしょう?」
重実の反対を遮るようにしてそう言うと、従重は杯の酒を呷り、話を続ける。
「この先時代は泰平の世が続く。戦なき世は尊いが、それが続けば武士はやがて武士の本分を忘れる。命のやり取りをせねば、人の命の重みを知らぬ愚かな武士が増える。愚かな武士は領国の民を民と思わず斬り捨てることもあろう。泰平の世とは、実にくだらぬ道理で人の命が奪われる世と表裏一体。武士の本分とは、主を守ること。主の本分は国と民を守ること。即ち、主を守るは主の本分を守るに等しく、それは人の命の重みを知ってこそ為せるもの。この先、泰平の世を生き、峰澤の士に剣術を授け育てる立場になる者が、命の重みを知らぬ愚か者であってはならぬ……と、まあ偉そうに言いましたが、今更戦を起こし人を斬ることを覚えさせるのは無理でしょう。ならば、せめて己の手で人の首に刃を立てる感触を俺の介錯をすることで味わってほしいのですよ。人を斬るとは、命を終わらせるとは、どれほど重きことか。ただただ、それを身を以て学び、糧としてほしいのです。とはいえ、その後北脇の末息子を正しく導けるかどうかは兄上次第ですが」
「結局後始末は俺か、勝手な奴め」
重実は悪態を吐きながら、従重の杯に酒を注いだ。
「……左山の殿にどこまで聞き入れてもらえるか分からんが、お前の頼みだ、この頭の一つ二つくらい下げてやるよ」
「それは有り難く。では、ついでにもう一つ頭を下げてはもらえませぬか」
「まだ何かあるのか」
そう言いつつも従重の言葉を待つように酒を喉に流して沈黙する重実に、従重はぽつりと零す。
「俺の死に目に立ち会ってもらいたいのです……兄上に。俺と血の繋がったただ一人の……肉親に」
従重の背後に立つ小平次は、何度も刀の柄を左右の手に持ち替えては袴で手のひらの汗を拭う。いくら仕える主君の弟たっての望みとはいえ、その首を斬るなど到底平常心で受け止められるものではない。極度の緊張で口の中はすっかり乾き、顔色も土気色だ。
「無理もないか。あの子はまだ元服前だろう? 武士としての覚悟など、できていなくて当然だ」
親房は憐れむような眼差しを小平次に向けた。親房は、小平次にはこの役目は荷が重いだろうと考え、隣の間に代わりの介錯人を二名控えさせている。万一、小平次がしくじった時のためだ。
「北脇の末息子」
杯を置き、従重が僅かに小平次の方を振り向く。
「良く聞け。お前はこれから人を殺めるのではない。武士としての俺の誇りを守るためにその刀を振るうのだ。俺の心を生かすために振るうのだ。刀とは、そうして振るうべきものなのだということを、努忘れるな。命が消えることなど、所詮は目先のこと。お前が真に悟らねばならぬのは、武士が何故刀を振るうのか、武士が決して忘れてはならぬことは何か、そして、その刀の重みは何か、だ。お前の腕、信じておるぞ」
「よ、従重様……」
乾いた口で声を掠れさせながら小平次は従重の名を呼んだ。そして、無理やり唾を一つ飲み込むと、
「――はい」
と、短く返事をする。その返事以降、小平次が手のひらの汗を拭くことはなかった。
従重が短刀に紙を巻き始めた時だ。
「田辺様、急ぎお知らせしたき義が」
藩邸の用人が切腹の間に入る手前で跪き、親房を呼ぶ。
「今を何と心得る。切腹の大事だぞ」
親房は声を潜めて用人に退出するよう促すが、用人は
「承知しております。ただ、田辺様ゆかりの者だと訴える足の悪い若い女が、供を連れ門前に押しかけておりまして……」
と用件を口にした。
「……なに?」
親房は咄嗟に重実の方を見る。重実にも聞こえていたのか、二人は顔を見合わせた。
「よもや……」
「このような機に田辺殿の名を出して押しかけてくる『足の悪い若い女』など、一人しかいないでしょう。ひろはえらく勘の鋭いところがあります。気付いたとしてもおかしくはありません……」
親房はちらりと従重を見る。従重はまだ短刀の支度を終えていない。
「駄目だ、いくら何でも会わせるわけには……」
「俺が行ってきます」
重実は立ち上がろうとしたが、
「何を言う! 立ち会うと従重と約束したのだろう!」
と親房が止める。唇を噛み数瞬思い悩んだ親房は、
「目通りは叶わぬとその女に伝えよ」
と用人に命じた。
※留守居……諸藩の江戸藩邸にて幕府との交渉事に当たったり、国許と幕府間の連絡を取り持ったりする傍ら、江戸藩邸の警備なども担当していたとされる役職。
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