歯車は動き出す・弐

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歯車は動き出す・弐

 新年を迎えて三日目、この日は朝から峰澤の空に雪が舞った。  まだ三が日だというのに、小平次は城内の小道に積もった雪を除け、厩で枇杷丸ら馬たちの世話をする。 「小平次殿、体が冷えましたでしょう? 餅が焼けましたから、ご一緒に如何ですか」  女中の雪に傘を差してもらいながら小平次の様子を見にきた紘子が声を掛けた。 「ありがとうございます!」  ちょうど全ての馬に飼葉を与え終えた小平次は、赤くなった鼻の頭を手の甲で擦りながら元気に答える。 「小平次殿が道の雪を除けて下さったので、明日年始の挨拶に登城される方々や藩校の子たちも難儀せずに済みます。まことにかたじけのうございます」 「そ、そんな大したことではありませんよ。これは鍛錬……そう、鍛錬です、腕や足腰の!」  紘子に礼を言われて、小平次は照れ笑いを浮かべた。  熱々の餅を頬張った小平次が幸せそうな顔をして帰る頃には、城の勝手場も夕餉の支度に取りかかっていた。  明日には公儀も動き出し、峰澤の城も家臣らが登城し藩主の重実を筆頭に皆が仕事を始める。夕餉に正月気分を盛り込むのも、今宵が最後だ。  普段より少し贅沢な煮炊きの匂いを感じながら、従重は紘子の部屋を訪ねた。 「紘子、体の具合は如何か」 「従重様、お心遣いありがとうございます。今日は調子が良うございます」  確かに、紘子の顔色も表情も悪くない。従重は口元に軽く笑みを浮かべると、 「それは重畳。では、お前の敦盛最期を聞かせてもらえるか?」  と言いながら彼女の前に胡座をかく。 「はい、喜んで」  紘子は微笑み頷くと、深呼吸ひとつの後に「いくさやぶれにければ――」と敦盛最期を語り始めた。  最後の一節を聞き終えた従重は、閉じていた瞼を上げるなり 「やはり良い。お前の敦盛最期には潔さと侘しさがあり、いつ聞いても俺の心を揺さぶる」  と感慨深げに言う。 「お褒めにあずかり光栄です」  頭を下げた紘子に、従重は 「紘子、明日もまたお前の敦盛最期を聞きたい。無論、お前の具合が良ければだが」  と、彼にしては控えめにねだった。 「もちろんです」 「そうか……楽しみにしておる」  紘子の快諾に嬉しそうな笑みを浮かべ、従重は彼女の部屋を出る。 「従重様はまこと姫様の敦盛最期がお好きなのでございますなぁ」 「それにしたって、少々度を超えてはいませんかね? 大晦日の少し前から、ほぼ毎日ではございませんか」  にこやかなイネに対し、雪は従重の最近の行動が気になるのか些か怪訝な顔をしながら茶を淹れる。 「確かに……こうも請われることはこれまでなかった。何かお悩みでも抱えていらっしゃるのだろうか?」 「どうでしょう? 悩まれているような風には見えませんけれど……ああ、あれに似ていますよ、器の中に残った最後の菓子を名残惜しそうに眺める童に」 「その例えはどうかと思うが……確かに、名残惜しさに似たようなものは感じられるのう」  イネは雪にやんわりと釘を刺しながらも、その洞察力には納得している様子だ。 「名残惜しさ……従重様は、一体何に名残をお感じなのだろうか」 「それは奥様に決まってるじゃございませんか。奥様がお殿様と祝言を挙げてしまったらそれこそおいそれと敦盛最期を聞かせてくれとは頼めなくなるお立場になるんですから」 「そういうものだろうか……。従重様は、生まれる子の叔父になるのだと大層嬉しそうであった。故に、たとえ立場の上下が生まれてしまうとしてもそれは大名家としての形ばかりのことで、心は城下の人々と何も変わらず家族として接して下さるものとばかり思っていたが……」  そう呟いて考え込む紘子をイネは微笑ましく見つめ、 「八束の旦那様もそうしたお考えの方でございましたなぁ。表向きはご当主としての振るまいをなさりながらも、お屋敷の中では陪臣の子らにも自ら菓子を配り書物を貸し与えるお方でございました。姫様には、しかと旦那様の教えと生き様が根付いておられるのですなぁ……」  と亡き秀郷に重ねた。 「……と仰りましても、従重様は生粋の大名家のご子息でございますからね、私たちとは違ってしきたりやら体裁やらに拘る一面もあるのかもしれませんよ」 「確かに、従重様は筋の通らぬことはお嫌いだ。雪、其方はまこと良く人を見ているのだな。つくづく、ここで再び其方との縁に恵まれたことを有り難く思う」  イネのみならず紘子もまた雪の洞察力に感心すると、 「まこと、雪は頼りになりますなぁ。雪が居れば、この婆はいつでも心置きなく黄泉の旅路に出られます」  と、イネも冗談を言いながら雪に温かな笑みを向ける。 「お二人とも私をからかうのは止して下さいな!」  褒められ慣れていないのだろうか、雪は珍しく顔を赤らめて声を上ずらせた。  翌四日は登城した藩士や藩校に通う子供たちと新年の挨拶を交わし、一日は慌ただしく過ぎていった。  そして、更にその翌日、従重は朝早くから馬を連れて江戸に向かう。行き先は田辺邸だ。  挨拶もそこそこに、従重は親房の案内で部屋に入ると、昨年旅籠でそうしていたように膝を突き合わせた。 「伊豆守様は何と?」  腰を下ろすなり、従重は単刀直入に親房に問う。親房は、脇に置いてあった書状を従重の前に差し出しながら口を開いた。 「『子細、甚だ許し難し』と。だが……」  親房は何かを憂うように瞼を伏せる。 「……全てお前の思惑通りに運んだ。あとは、私が機を見てこの伊豆守様からの書状を峰澤に届けるだけだ」 「さすがは老中付きの幕臣、上手くやってくれましたな」 「伊豆守様はとかく筋の通らぬことがお嫌いだ。故に陰では生真面目どころか頭が固いと揶揄される。だが、筋を通す者には情をかける。そうした伊豆守様の性根をお前は上手く手玉に取ったのだ」  親房は俯きがちなままでそう返した。故に、この時従重が何とも言えない寂しい微笑を浮かべていたことには気付かない。 「して、『決行』の日取りは?」 「……九日後。場所は、江戸左山藩邸を借りることとなった。藩邸に在す佐野の父には、明日から暫くの間当家にてご療養頂く運びとした。父はもう殆ど食事も摂れず、自力で立ち上がることもできんが、『最期の大仕事だ』と張り切っておられた。此度の件が片付くまでにはどうにか持ちこたえるだろうが、恐らくその後藩邸に戻られる力は残らぬだろう。やがてはそのまま当家で父を看取ることになるのではと思っている」  淡々と尋ねる従重とは対照的に、答える親房の声は小さく震えている。 「田辺殿、機を逸してはなりませぬぞ。ここまで来て策が潰れれば、飛ぶ首は一つでは済みますまい。お互い、守りたき者がおるのならば尚更」 「……分かっている」 「ならば結構。では、失敬」  暇を告げ田辺家を後にした従重は、ひとり峰澤への帰路に就いた。  紘子の「敦盛最期」を何度も何度も耳の奥で繰り返しながら。
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