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歯車は動き出す・参
「……田辺様のお屋敷に、ですか?」
とうに七草も明け、正月の気配が随分と遠のいた頃。この日、紘子は峰澤を訪れた親房を交えての夕餉の席で、彼の誘いに目をしばたたいた。
「急な話であるのは承知の上なのだが、生憎佐野の父の容態も芳しくなく……。話のできるうちに紘子殿にもう一度会いたいと父にせがまれてな。……父はもう、恐らくひと月ももつまい。故に、できれば数日は当家に逗留し、父と言葉を交してもらいたい」
「瀬見守様のご容態がそれほどお辛いとは……ですが、そのようなお体で何故江戸の田辺様のお屋敷に身を寄せていらっしゃるのですか? 何かありました時に家督を継がれた当主様がお側にいらした方がよろしいのでは……」
(参ったな……そう来たか)
想定外の質問が来たことに親房は内心焦る。
(私に対し不信感は抱いておらずとも、話の流れに些かでも引っ掛かるものがあると見逃さない。さすがは八束殿の忘れ形見とでも言うべきか……情に訴えるだけでは誤魔化せないか。だが、何としても悟られるわけにはいかん)
親房は苦笑を浮かべて本心を隠した。
「父曰く、私の屋敷が最も落ち着けるのだそうだ。家督を継いだ長兄の元では大殿としてつい口を出したくなり気が休まらず、他家に養子として入った兄たちは、左山からも藩邸がある江戸からも大層遠方にいる。旗本の家に婿養子に入り江戸暮らしをしている末息子の私には気を揉むこともなく、心穏やかに過ごせると。父の我儘には呆れるものの、この先短いと思うと大抵のことは叶えてやりたい、心残りのないようにしたいと思ってしまってな」
「そうでしたか。田辺様のようなお方にそこまで想われる瀬見守様は、やはり偉大なお方ですね。私のような者がお目通りなど恐れ多いことですが、瀬見守様がお望みとあらば、喜んで。よろしいでしょうか、重実様?」
親房の話にそれ以上の疑問を持たなかったらしく、紘子は納得した様子で上座の重実に許しを請う。
「よろしいも何も……」
重実はふっと笑みを浮かべて箸を置いた。
「瀬見守様はそれを望んでいる、お前も心からそうしてやりたいと願っている、ならば俺が横槍を入れていいものじゃないだろう。確か、瀬見守様にはご子息ばかりでご息女はいなかったかと。瀬見守様はお前のような娘がほしかったのかもしれんしな……ねぇ、田辺殿?」
「ご名答。男所帯で後継ぎには困らずとも華やかさがなかった故、佐野の父は菜緒や義姉上らをとかく甘やかす。娘が欲しかったのは間違いなかろう」
親房もまた笑顔を見せ重実にそう答えると、紘子に向き直る。
「父の願いを聞き届けてくれること、恩に着る。明日の朝には江戸の左山藩邸から駕籠が来る手筈になっている。それに乗れば私の屋敷まで行ける」
「明日の朝ですかっ……田辺様、私や重実様がこのお話をお断りしないと踏んで既にお駕籠の手配をされていましたね?」
困り顔で追及する紘子に、親房は
「さすがは紘子殿、何もかもお見通しか」
とおどけてみせた。
突如藩校を一旦休講とし、江戸に発つこととなった紘子は、イネと雪の手を借りながら急いで旅支度をする。
「何だってまた明日だなんて、しかも身重の奥様に何日も逗留してほしいなど。田辺様はそんな無鉄砲な方ではないと思っていましたけどねぇ」
「お相手の瀬見守様が明日をも知れぬ御身となれば、急くのも致し方ないのでしょうなぁ。雪、姫様を頼みましたよ。今の姫様はお一人の体ではございませんからな」
明日の江戸行きには、紘子の身の回りの世話をする女中として急きょ雪も同行することとなった。
「そりゃもちろんですけど……頼まれましても奥様は大抵のことはご自分でなさってしまいますからね。私はせいぜい寝床と茶の用意くらいしかお役目はございませんて」
イネに紘子を託された雪は謙遜からかそう言って手を振るが、
「話し相手にはなってくれぬのか?」
と紘子が首を傾げわざとらしく尋ねると、振っていた手を持て余し、その手でこめかみを掻く。
「ああもうっ、いくらでもお相手させて頂きますよ!」
「ほほほっ。雪や、姫様の話し相手は骨が折れますぞ? 姫様はこう見えて大層話し好きですからなぁ」
「それはもうこのお城に来てものの数日でよぉく分かりましたよ」
イネと雪がそうして賑やかに会話をしていると、
「紘子はおるか」
と、廊下から従重の声がした。
「おや、姫様。従重様でございますよ」
「ここ何日かいらっしゃらないと思っていたら、こんな遅い時分に。奥様、今宵はさすがにお断りしましょうか?」
声を潜めて伺う雪に、紘子は首を横に振る。
「相手は従重様だ、何かわけがあってのことに違いない。お通ししましょう」
紘子は雪にそう答えると、従重に返事をして彼を招き入れた。
「夜分におなごの部屋を訪ねるものではないとは承知の上だが……明日、田辺殿の屋敷に行くと先程聞いてな。体は大事ないか」
上座に案内された従重は、そう言いながら紘子を見た。
「時折食が進まぬこともありますが、そこまで辛くはありません。雪も付いてきてくれることになっておりますし、数日ならば江戸暮らしも何とかなりましょう。明日は駕籠に酔わぬかと、そればかりが気掛かりです」
「左様か」
従重は口元を緩めて一言返したきり、その穏やかな表情のまま黙って紘子を見つめている。
「……従重様?」
「あ、いや」
名を呼ばれて、従重ははっとしたように紘子から視線を逸らした。そして、
「すまぬ、暫し紘子と二人で話したい。そう長くはならぬ」
と、イネと雪に願い出る。
「では、私たちは勝手場にお邪魔しましょうか。雪や、今ならばまだ釜の焦げを握り飯にしてもらえるかもしれませんぞ」
「そういえば菜っ葉漬けが余っているのを見ましたよ。田辺殿の江戸土産を差し出せばありつけますよ、きっと」
「そうですなぁ、京の宇治の茶など、江戸のお城に通われる田辺殿でなくばそう容易く手には入りませんからなぁ」
二人はそんな言葉を交すと、従重に一礼して部屋を出た。
(従重様がここにいらっしゃるのは、決まって敦盛最期をお聞きになる時だ。しかし、従重様はこれまで人払いなどなさったことはない。一体如何されたのだろうか? 思い詰めておられる様子ではないが……そこまでに至らずとも、何かお悩みなのだろうか?)
何かがいつもの彼と違う。紘子は何となくそう感じたものの、その理由が分からない。
(江戸に発つ私の身を案じて来て下さったのは嘘ではなかろう。だが、それだけには見えない……)
「従重様、何かあったのですか?」
「……何故、そう思う」
「従重様のご様子が、いつもと違うように見えましたので。それに、敦盛最期をお聞かせする時はこれまで人払いなどなさりませんでした。イネや雪に聞かせられぬこととは、一体何かと……」
気遣わしげな紘子の視線に、従重の胸は締めつけられる。
(お前のことだ、俺が何か思い悩んでいるのではないかと案じているのだろうな。お前のその優しさが、清い心が、これまでどれ程俺を癒してくれたことか……だが、それも今宵で最期か)
従重は息を一つ吐くと、
「昨晩、夢を見た」
と言って微笑んだ。
「夢……ですか」
きょとんとする紘子の反応が面白かったのか、従重の笑みが深まる。
「ああ。お前が大小の童どもに取り囲まれ、傍らで兄上が難儀しておるのだ。何やら、童どもが邪魔で兄上はお前に近寄れぬとむくれておってな、それを童どもに揶揄われておるのよ。あの兄上が童どもにやり込められる様はなかなかに滑稽であった」
「まあっ」
従重が面白おかしく話すので、紘子もつられて笑い声を漏らした。
「……童どもはこぞってお前を『母上』と呼んでいた。その中に一等背の高い童がおった。あれがきっと今お前の腹に居る子であろう」
夢の続きを聞いた紘子の息が止まる。
「何を驚く?」
小首を傾げた従重に、紘子は言いにくそうにしながら
「一度は子を望めぬとまで言われた身ゆえ、そのような光景はとても思い浮かばず……」
と答えた。
「子を望めぬと言われておきながら今は違うではないか。俺の夢はよく当たると昔から言われてきた。今はなかなか兄上との婚儀がまとまらず気を揉んでおるやもしれぬが、案ずるな。お前には、俺が夢に見た明るき日々が待っておるのだ」
そう語る従重の双眸には、有無を言わせぬ不思議な説得力がある。それもまた、紘子がこれまで見たことのない目つきであった。
「そういえば、夢の中ではお前の傍らにもう一人……」
「それは、従重様ですか?」
「馬鹿者。夢を見ている当人がいるわけがなかろう」
紘子の他愛ない問いに苦笑しつつ、従重は続ける。
「……なかなかに賢そうな面構えをした侍女がいた。俺は、あの侍女の顔に見覚えがある。あれは恐らくたきだ」
そこまで言うと、従重は着物の袷に忍ばせていた紙きれを取り出し、紘子に差し出した。
「ここに書かれた妓楼に、たきが居るやもしれぬ」
「えっ!」
紘子は差し出された紙と従重を何度も見た。そして、この数日従重が紘子の元を訪ねてこなかった理由に思い当たる。
「もしや、この数日お見かけしなかったのは、たきの居所を捜していらっしゃった故なのですか……?」
「偶々江戸に行く用事があった故、そのついでに少々な。たきはあの齢で読み書きに長けておった。ならば相応の値が付き、それを払えるだけの大きな妓楼が買った筈と思うて吉原でそれとなく訊いて回ったのだ。ちょうどたきが売られた頃、たきと同じ年頃でよく似た背格好の娘をその妓楼が買ったらしい。『貧しい家の出のくせに一丁前に読み書きができて、まるで武家の娘のようなよく躾けられた所作を時折見せる』と遣り手が周囲に漏らしていたそうだ。この目で見ることができなんだ故、たきかどうかは分からぬ。だが、たきやもしれぬ」
「たきに武家の作法を教えたことはありません。ですが、私の振る舞いを面白がって真似ることはございました……」
紘子はそこまで言って唇を噛んだ。それ以上口を開こうものなら、嗚咽が漏れてしまいそうで。
(従重様は、これほどまでにたきのことを気にかけて……まこと、このお方はお優しい)
「この妓楼に居るのがたきであったならば、お前の稼いだ金でいつの日か兄上に身請けしてもらえ。そして、俺の見た夢を正夢とせよ。あのように賢い童はお前の下で働くにはうってつけぞ」
「ありがとうございます……」
感極まりそうになるのを堪えながら紘子は従重に礼を言うが、ふと彼女の中に些細な疑問が浮かび上がる。
(何故、重実様に身請けしてもらえと仰るのだろうか? たきをよくご存じなのは従重様の方だ。ならば従重様が身請けされても良いであろうに……)
しかし、紘子がその疑問に一歩深く踏み込もうとしたところで、従重が声を上げた。
「さて、俺はたきの居所を捜し回ってきた褒美が欲しい。紘子、敦盛最期を聞かせてはくれまいか」
「従重様は、まこと敦盛最期がお好きなのですね」
溢れそうになる涙を引っ込めようと作った紘子の笑みとは対照的に、従重の笑みは穏やかに凪ぐ水面のように自然でさりげなく、儚ささえ醸し出している。
「ああ、お前の声と口調で語られる敦盛最期を、俺は何よりも好んでおる。今宵だけは、ただ静かに感じ入りたいのだ」
紘子は請われるままに敦盛最期を暗唱してみせる。
いつもは瞼を閉じて聞き入る従重が、この日は両の瞳で真っ直ぐに紘子を見つめて聞いていた。
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