散椿が願ひ・壱

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散椿が願ひ・壱

「紘子、儂はもういつどうなるか分からぬ。そう考える(とき)はないものと思うてくれ」  今日の武貫の話は、彼のこの一言で締めくくられた。  (いとま)の挨拶をして廊下に出た紘子は、俯きがちに部屋へと戻る。 (瀬見守様は、このような時になって何故あのようなことを……)  紘子は武貫から「ある提案」を受けた。だが、その内容はあまりに急で、不可解だった。 (一度重実様にご相談してみようか……しかし、そのような悠長なことは言っていられないほど、瀬見守様のご容態は芳しくない。やはり、私が決めねば……)  などと考えながら廊下を歩いていると、 「奥様、奥様!」  と、雪の声が背後から迫ってくる。振り向くと、雪はひどく緊迫した面持ちで紘子の元に駆けてくるではないか。 「雪、如何したのだ? 市中で何か困ったことでも?」  紘子が足を止めて問うと、雪は 「奥様、奥様は奥様でいらっしゃいますよね!?」  とわけの分からぬことを口走った。唐突でしかも的を射ない問いにどう答えれば良いのかと紘子が小首を傾げると、 「奥様は、朝永の鬼頭様に嫁がれたあの奥様で相違ございませんよね? ……いや、私は何を言っているんだい? 奥様はあの頃と何も変わって……いや、あの頃の酷い様とはまるで別人だけれど、でも中身は何一つ変わっては……」  と、雪は早口で自問自答を繰り返す。 (雪のこの様子、只事ではない。一体何があったというのだ?)  事の次第は見えないが、どうも、雪が今目の前にいる紘子と鬼頭に嫁いだ「八束幹子」が別人なのではないかというおかしな疑念を抱いているようなのは分かる。 「雪、あの頃私が日毎口にしていた言の葉を覚えているか? 『弓矢を取る習い、敵の手にかかって命を失うこと、まったく恥にて恥ならず』……」 「あっ、ええ、ええ、覚えてますよ! 弓矢がどうとか何とかっていう、あれでしょう?」 「そう。そのことを知っているのは、当人同士だけではないか?」 「あ、確かに」  紘子は咄嗟に当時の当事者しか知り得ないことを提示することで雪の疑念を振り払った。雪もこれで落ち着きを取り戻したらしく、紘子の手を取り 「奥様、急ぎ奥様にお話ししなければならないことが。ここではなんですので……」  と、紘子を急がせながら部屋に戻る。  田辺邸で借りている部屋に入るなり、雪は襖をぴしゃりと閉め、早速口を開いた。 「奥様、田辺様のこのお邸、左山の江戸屋敷に近いことはご存知でしょう?」 「ええ。故に瀬見守様は田辺様のお邸で療養されていらっしゃるのだ」  頷く紘子に雪もまた頷きを返す。 「その左山の江戸屋敷で、今日切腹の儀が執り行われるんですよ」 「切腹? 雪、一体貴女はどこからそのような話を……」 「偶々市中で昔の馴染みと袖振り合いまして。今は両替商の後妻さんだそうで、店のお得意さんで左山に仕えるお武家さんの口から聞いたとか」  余程焦っているのか、雪は早口のまま話を続けた。 「しかも、お腹を召されるお武家さんは左山の藩士じゃないんだそうですよ。それでも名だたる藩の江戸屋敷を使うなんて、よほど身分の高い方としか思えないでしょう? そんな方が一体何をやらかしたのかと聞いたら……」  そこまで一気に話すと、雪は紘子の顔色を窺うような視線を向ける。 「……大名殺しの下手人と言われたご正室の『偽者』を、本物の正室としてお白洲の場に出した、と。それでご公儀の不興を買ったと。ご公儀は、下手人の濡れ衣を着せられていたご正室を哀れに思って新たな嫁ぎ先まで用意したというのに、そのご正室が偽者だと分かってひどくお怒りになって、それで……と」 「……雪は、それが鬼頭様の一件と私のことだと思ったのだな」  考え込みながら囁いた紘子に、雪は僅かに声を震わせた。 「そりゃあ、ええ……。他にも、ご正室がお縄についたのは大名殺しの二年後だとか、そんな話も。……あまりに当てはまっているとは思いませんか。だから、奥様が実はあの頃の奥様とは別人なのかもしれないと……。ただ、私の昔馴染みの話だと、偽者はお縄に付いた後の調べでひどい扱いを受けたのが由で亡くなっているらしいんですよ。奥様が偽者だって言うなら、こうして生きているのはおかしいでしょう? 私はもう何が何だか……」  雪の話を脳内で整理しようと、紘子は瞼を伏せがちにして黙考する。そうして少しの間沈黙が流れた後、紘子は視線を下げたまま口を開いた。 「正室の手による大名殺しなど、そうそう起こることではない。正室がお縄に付いたのが一件の二年後であること、正室が調べの際に拷問を受けたこと、これらも合わせて考えれば、その話は朝永の一件で、正室は私のことを指すと見ていいだろう。しかし、雪が言うように私は生きていて、そもそも偽者でもない。ご公儀から嫁ぎ先を用意されてなどおらず、むしろこちらの方から重実様との婚姻をお許し頂こうと重実様がご公儀にお働き下さっているところで――」  そこまで言って、紘子は息を呑む。 『……ご公儀は、私を如何しろと仰せなのですか?』 『――っ!?』  いつぞやの晩、何か大きなものを独りで抱えようとしている重実にそう問いかけた時、重実は否定も肯定もせず……いや、できずに一瞬答えに窮していたことを紘子は思い出した。 (そうだ、あの時私は気付いた筈だ。重実様や田辺様では如何ともし難い何かのせいで、ご公儀から婚儀のお許しが頂けていないのだろうと。もしも、その「如何ともし難い何か」が、ご公儀から突きつけられた私の新たな縁組みだとしたら……?)  紘子の中に、ぞわぞわと嫌な冷気が広がっていく。 (ああ……嫌という程辻褄が合ってしまう……)  幕府は、「八束幹子」の大名殺しが濡れ衣で、彼女の無罪と生存が判明したため利用する手に出た。恐らく、幕府側はそれなりの血筋と家柄の者を「八束幹子」の婿として送り込み、八束家再興を目論んでいる。由井正雪が幕府に少なからず混乱を齎した今、地盤を揺るがせないためにも公家に力を持たれるわけにはいかない幕府は、公家にも通じている八束の、それも生前公家からの信頼厚くある程度の影響力を有していた八束秀郷の娘を譜代の大名子息なり徳川の血縁者なりと結婚させることで掌握し、公家への牽制を働かせたいのだ。 (父上も母上も亡く、嫁いで家を出た私には公家衆とは何の繋がりもない、故にご公儀が八束の名を欲することなどもはやないと思い込んでいたが、ご公儀にとってはそうではなかったということなのか……)  混乱が起こらず安定した治世であったならば、その思い込みも現実となっただろう。だが、古くは島原キリシタンによる戦乱、そして此度は由井正雪の蜂起と、幕府のあり方に一石を投じる事件が幾つも起こったことで、幕府は方針転換を迫られると同時に、あらゆる綻びも生じさせぬよう手を打つ必要に駆られた。その結果が、こうしてご公儀からひどく離れた地位と立場にある紘子の人生にまで影響を及ぼすこととなっているのだ。 (ご公儀は、私を徳川に縁のある者と結婚させようとしている。幕命に逆らうことなど、重実様にも田辺様にもできることではない。故に、重実様はあれほど追い詰められていたのか。だが、雪の話が真であるならば、私は「八束幹子の偽者で、既に死んでいる」ことになり、そう仕立て上げた誰かが責を取りお腹を召されることになる。それは、つまり……)  そこまで筋道が立つと、更に恐ろしい推測が紘子を襲う。 「お腹を召されるお武家様は、朝永の一件――特に私と何らかの形で関わりのあるお方……ということになる。そのようなお方は、限られている……」  旧朝永藩家老で藩主殺しの真の下手人であった吉住は、既に刑に処された。  吉住に連なる者たちもまた処断されたが、そもそも彼らは切腹に雄藩の江戸屋敷を使える身分ではない。  親房はどうだろうか? 白洲の場で紘子の無実を証明することに重実以上に影響力を働かせていた幕臣だが、仮に切腹の当事者ならば事件の関係者である紘子を自宅に逗留させたりはしない。妻の菜緒の様子も、夫の切腹を知っている者のそれとは思えない平然さだった。  では重実か? (いや、重実様にそのような命が下っていたとしたら、ご家老様も黙ってはいまい。城内はもっと騒然とする筈だ。それに、あれほど共にありたい、同じ景色を見たいと言ったのだ、重実様が私の願いを無碍になさる筈がない。ご家老様が責を負わされたのだとしても同様、城内があれほど穏やかなのはあり得ない。まるで秘密裏に限られた者たちの間だけでやり取りされたようなお沙汰に思えるが、藩主や家老など立場ある者に切腹の命を下すとすれば、決して内々に秘かに下したりはしない。確固たる立場やお役目がなく、しかも左山藩邸での切腹を許されるだけの身分があり、私と旧朝永藩の一件に関わりを持っていたお方……それは……) 「……従重様」  その名を口にして、紘子は首を横に振る。だが、いくら振ってもその答えを否定する要素が思い浮かばない。  思えば、田辺邸に発つ前の晩に紘子の部屋を訪ねた従重の様子には違和感があった。紘子が「何かあったのか」と尋ねても、明確な答えは返さなかった。 (従重様がご覧になったという夢の話もそうだ。夢の中に従重様がいらっしゃらなかったのは、夢を見ている当人であるが故ではない。夢の中では従重様は既に私たちとは共にいらっしゃらない存在だと、そう悟っていたが故だ。たきの身請け話にしても、既にお覚悟を決められたご自身には叶えられぬこと故、重実様に託された……) 「何故、何故あの時気付けなかったのだ……っ」  からん、と杖を廊下に落とし、紘子は両手で顔を覆った。覆いながらまた何度も首を横に振り、 「あああ……」  と声を震わせながらがくりと膝を着く。 「奥様!」  雪は咄嗟に紘子の傍にしゃがみ込んだ。雪もまた、困惑と絶望がない交ぜになったような顔で紘子の様子を窺っている。 「従重様が、そのような……あのお方は人一倍お心が繊細だというに……従重様は、今如何程にお心寂しくお辛いことか……!」  相手は重実でさえ逆らえない幕府だ、紘子がどう足掻いたところで従重に対する切腹の命を覆すことなどない。 「このままでは、従重様が――!」 「ですが奥様、私にはよく分かりませんけど、奥様を『偽者』に仕立て上げた罪で旦那……じゃなく従重様がお腹を召されるってことは、従重様は奥様のことをご公儀から隠そうとしているんでしょう? 奥様が目立つようなことをしたら台無しではございませんか? もう……私たちにはどうにも……」  雪の言い分はもっともだ。  しかし、どうにもならないという現実が余計に絋子の胸を締め付ける。 (従重様……従重様……私は、一体どうすれば……) 『紘子、敦盛最期を聞かせてはくれまいか』 「……従重様?」  ふと、従重の声が聞こえたような気がして、絋子は顔を上げた。 『お前の声と口調で語られる敦盛最期を、俺は何よりも好んでおる』 (ああ、そうだ……)  絋子の頬を、一粒の涙が伝う。 (私は、いつも従重様に手を差し伸べて頂くばかりだった。敦盛最期もそう、従重様に請われるがままに口にして、私の方から願い出てお聞かせすることはなかった……)  今更になってそんな大事なことに気付くとは……そんな後悔に抉られる胸に手を添えながら、紘子はもう片方の手で床に落ちた杖を取った。 「従重様に……お寂しい思いはさせたくない」 
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