下女の算術

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下女の算術

 峰澤(みねさわ)藩は、江戸近隣に幾つかある小藩のひとつだ。  江戸市中に比べれば随分と(ひな)びた田舎ではあるが、城下の街並みは江戸のそれを小さく摸したようなもので、昼夜を問わずそれなりの賑わいを見せる。  城下の中心街には木戸屋(きどや)という料理屋があった。  峰澤の中では唯一各地の大名家が出入り出来るような格式を持った料理屋だ。  この日、夜も更け城下の商家が次々と店じまいをしていく中、木戸屋の一室はいまだ煌々と行灯(あんどん)が灯っていた。  女将の初江(はつえ)は苛立ちを募らせる。 「他のお客はとっくに帰ったってのに、『松の間』のお侍様はいつまで()もっているのかね?」  身なりのいい二人の侍を松の間に通してから数刻、酒や料理は一度運んだきりで追加の所望もない。  談笑も聞こえず、(かわや)に立った形跡もない。 「そこそこの上物を着ているから上等な部屋に通したけれど、酒も飯も大して頼まず行灯の油ばかり()されちゃ商売あがったりだよ」  そうぼやきながら目を釣り上げる初江の横を、下女が洗い物を持って通り過ぎようとした。  初江は下女を呼び止める。 「紘子(ひろこ)、あんたちょっと松の間の様子を見ておいで。膳の皿が空になってたら『そろそろ店じまいだ』って言って下げちまいな」  紘子と呼ばれた下女は洗い物を抱えたまま小さく返事をして、 「これを置いたらすぐに向かいます」  と一旦洗い場に消えた。  紘子の背中を見送りながら、番頭がひょいと初江の背後に顔を出す。 「仲居が嫌がりそうな仕事は全部紘子にさせるんですねぇ」 「あれは何やらせても文句ひとつ言わないからね。いいや、言わないんじゃなくて、言えないのか。よく知らないけれど、何やら金に困ってるらしくてね、暇を出されちゃ困るらしいからさ」 「女将も人が悪いねぇ」  せせら笑う番頭に初江はふんと鼻を鳴らした。 「何て事言うんだい。愛想がなくて仲居としちゃ使い物にならんのをこうして雇ってやってんのに」  紘子は洗い場に寄った後、松の間の前に膝を着く。 「お客様、よろしいでしょうか?」 「如何(いかが)した?」  松の間にいた客のひとりが(ふすま)を開けた。  年の頃は五十過ぎであろうか、整った身なりをしているものの髪があらかた白髪に染まっているのは行灯の灯りでも分かる程だ。  部屋の中にはもう一人侍らしき男が座っているが、紘子はすぐに頭を下げたためその風体までは分からない。 「恐れながら、店じまいの刻限でございまして……」  板張りの廊下に手を付き頭を下げたまま告げる紘子に、部屋の奥から声が掛かる。 「もうそんな刻限だったか。すまない、全く気付かなかった。ここを片付けてすぐに出るから、膳も下げてもらって構わないよ」 「……恐れ入ります」  頭を上げた紘子は思わず息を止めた。  彼女の目の前には、畳一面に散らかった紙をせっせと集めて片付けている若い侍がいる。  まだ畳に置かれている数枚の紙に紘子の視線がふと落ちた。  紙にはまるで商家の帳簿のように様々な金額が並んでいる。 「桁がひとつ多い……」  目に飛び込んできた数を瞬時に読み取り、紘子は無意識にぼそりと呟いた。  若者はそれを聞き逃さず紘子に食いつく。 「ん?お前、算術が出来るのか?」 「っ、ご無礼仕りました……っ」  紘子は目を逸らしそそくさと膳を下げようとしたが、若者は 「待て」  と紘子の動きを止めた。 「今、桁がひとつ多いと言ったよな?どこに間違いがあったか教えてくれないか?」 「い、いいえ、その……」  戸惑う紘子に若者は紙を差し出す。 「お前が見たのは確かこの紙だったよな?頼む、さっきから何度やっても解が合わなくて難儀しているんだ」  紘子は初めて若者の顔まで視線を上げた。  一重瞼の双眸は一見鋭いが、紘子の顔を覗き込むようにして見てくるその瞳は懐の深そうな優しげな色を湛えている。  髪も着物の襟もぴったりと整えられており、育ちの良さと品格を匂わせた。 「は、はい……」  何故か若者の目と声に抗えず、紘子は素早く右手の指を器用に動かす。  その動きは、まるで目に見えぬそろばんを弾いているかのようだった。  そして、僅か数秒の後に紘子はその細い指で紙を指す。 「こちらでございます。本来は三両一()(しゅ)二百(もん)となるところ、二百文を二千文と違えてしまい、三両三分二朱とされてしまっているのでございます」  若者は初老の侍と顔を見合わせた後、揃って紘子を向いた。 「……大したもんだな。無礼ながら(ゆえ)あって名は明かせぬが、お前の名を訊いてもいいか?」  若者の問いに、紘子は俯きながら答える。 「はい……紘子と申します」  若者は口元を緩ませた。  俯いていた紘子がその柔らかな笑みを目にする事はなかったが。 「そうか……覚えておく。紘子、今宵は本当に助かった。ありがとうな。それと、長居をしてすまなかった」 「い、いいえ!」  深く頭を下げたままの紘子の隣を二人の侍は歩き去る。  足音が消えて紘子はようやく頭を上げて膳の片付けを始めたが、ふとその手が止まった。 (あのお侍様のお声、どこかで聞いたような……)  だが、すぐにかぶりを振って片付けを再開する。 (この二年、武家の者は極力避けてきた……きっと思い違いだ)  そう己に確かめながら。  一方、勘定を済ませて木戸屋を出た若者も帰路で何度か小首を傾げていた。 「何かお悩みにございますか?」  初老の連れが尋ねると、若者は小さく唸りながら返す。 「いや……あの低い声、どこかで聞いた事があるような気がしてな」 「先程の……紘子と申す下女の事でございますか?」 「ああ。だがまぁ、気のせいだろうな。あの年頃のおなごとは親しくした覚えがない。覚えはないが……今日しっかりと覚えた。知れば些細な間違いではあったが、俺もお前も文の桁違いに気付けなかった。瞬く間にそれを暴いたあの賢さは、忘れたくても忘れられない。それに……」  若者は再びあの笑みを浮かべた。 「あの所作といい、顔立ちといい……実に美しかった」
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