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その手を引くのは・壱
木戸屋の下女・紘子の姿は、夜が明けて昼前には蕎麦屋「あづま」にあった。
紘子は藍染めの前掛けを着け、蕎麦の入った椀を運んでいる。
「一丁、上がったよ」
調理場から出された蕎麦を盆に載せ、紘子は客の元に運ぶ。
「お紘ちゃん、昨夜も木戸屋さんに行ってたんだろう?大丈夫かい?」
恰幅のいい、人の良さそうな女将が紘子を呼び止めた。
女将の名は千代、峰澤城下の長屋通りの一角で蕎麦打ち職人の夫と共に小さな蕎麦屋を営んでいる。
「ご心配、ありがとうございます。幸い、昨日は早く切り上がりましたから、大丈夫です」
「うちでもっと気前良くお給金を払えればねぇ……」
淡々としかし丁寧に答える紘子に、千代は申し訳なさそうに眉根を寄せた。
「いいえ、そんな事は……」
紘子が慌てて否定しているところに、
「おばちゃーん、海老天はあるかーい?」
と、明るい口調でひとりの若侍が暖簾をくぐってくる。
紘子ははっと入口を振り向いた。
昨晩木戸屋の松の間で聞いた若者の声色が耳の奥を過っていったからだ。
しかし、若侍を一目見て紘子は戸惑いに視線を彷徨わせる。
(松の間で見たお侍様によく似ているけれど……)
若侍の年の頃は、二十歳を少し過ぎたくらいだろうか。
麻の着物に薄手の袴を履き、装飾の少ない刀を一本腰に差すという何とも質素な風体で、髷の結い方も昨晩見た若者とは異なる。
闊達でいてどこか清廉な雰囲気はあるものの、昨晩の若者が醸し出していた品の良さは窺えない。
(……似ているだけで、全く別のお方に違いない)
紘子は軽く会釈して仕事に戻り、若侍には千代が応対した。
「はいはい、ございますよ。あんた、海老天蕎麦一丁」
「へいよ」
若侍は常連なのだろうか、千代はまるで慣れた調子で調理場の夫に声を掛け、旦那も旦那でいつもと変わらず返事をする。
恐らく、紘子が勤めに入っていない時に良く来る客なのだろう。
程なくして、小ぶりな海老天を一本付けた蕎麦が出された。
「お紘ちゃん、これをあの浪人さんに」
「はい」
女将に盆を手渡され、紘子は若侍の前に蕎麦を置く。
小上がりに座る若侍は、懐から出した帳面に何やら小筆を走らせていた。
紘子はつい、ちらりと帳面を覗いてしまう。
(『善悪の判別と良心に欠ける者は、教育が足りない』……?『教育にかける金はどう工面するか』……?このお侍様は、一体どこでこういう考え方を身に付けたのだろう?)
「……」
「ん?……もしかしてお前、字が読めるのか?」
蕎麦を置いても黙ってその場に立ち尽くしている紘子に気付いた若侍が顔を上げた。
(やだ、私とんだ無礼を……!)
「あっ……すみません!」
紘子は慌てて立ち去ろうとするが、
「いや、気にするな。それより、そこに座りなよ」
と、若侍は紘子の手を掴んで引いた。
「えっ……?」
突然見ず知らずの浪人に手を取られ、紘子は唖然とする。
「おばちゃん、この子ちょっと貸して」
若侍は軽い調子で千代に申し付けた。
千代も軽い戯れとでも思ったか、あっさりと
「はいはい」
と苦笑して仕事に戻る。
どうしていいか分からぬまま、手を引かれ小上がりに腰を下ろした紘子に、若侍は箸で海老天を掴み差し出した。
「食べなよ」
(何故?)
初対面の男にいきなり海老天を突き付けられるこの状況を、どう理解しろというのか?
紘子は困惑を隠せないまま首を横に振る。
「いいえ、あの……仕事中ですから……」
だが、若侍は余計に海老天を紘子に近付ける。
「いいから。その顔だと、最近ろくに食べてない上に寝てないだろう?見れば分かるさ。海老でも食べて、滋養付けないと。ほら」
「えっ……」
紘子は完全に若侍のペースに呑まれている。
「早く」
気付いたときには、紘子は言われるがまま口を開けていた。
間髪を入れず、海老天が彼女の口に押し込まれる。
紘子が反射的に一口噛み切ったのを見ると、若侍は残りの海老天を躊躇なく自分の口に放り込んだ。
「うん、ここの海老天はやっぱり美味い。どうだ?お前も美味いと思うだろ?」
「……」
(このお侍様は、初対面の、しかも身分の違う町人相手に何故こんなに距離をお詰めになるの?)
若侍の考えている事はまるで読めないが、旦那の揚げた海老天は美味い。
紘子はこくりと頷いた。
「それは良かった」
若侍は爽やかに微笑むと、
「――で、俺の帳面、読んでみる?」
と、さっきまで書き込んでいた帳面を差し出す。
「よ、よろしいのですか?」
「そう訊きながら手がもう伸びてるじゃないか。いいよ、読めるなら読んでみなよ」
紘子は小さく頭を下げ、帳面に目を走らせた。
「……」
若侍が射抜くような目でじっと紘子を見つめていた事に気付きもせずに。
数枚ほど頁を捲った後、紘子は若侍に問いかける。
「この帳面は、どういった趣で書かれているのですか?」
「うーん……雑記帳だからなぁ、見聞録か備忘録、そんな辺りだな。日々思い付いた事を忘れないよう形に残してるだけだ」
「……素晴らしいと思います。才有る者の登用、弱者の救済、その根幹に教育がある……お侍様は、一体どちらでこのような事を学ばれたのですか?」
紘子は目を見開きながらそう返した。
その表情は、感情の起伏に乏しいながらもどこか喜びや感動を滲ませるものだった。
僅かに身を乗り出しながら訊いてくる紘子に若侍は苦笑する。
「お侍様なんて止してくれ。俺の名は清瀬 重之介、重之介とでも呼んでくれ。帳面に書いてるのは所詮思い付き、大層な学問なんざ身に付けちゃいないし、日働きで何とか食い繋いでるようなしがない浪人だ。お前は?」
重之介の真っ直ぐな視線が妙にうず痒く、紘子はつい目を伏せた。
「……紘子、です」
「紘子か……」
重之介は目を上に泳がせた後、仄かに悪戯めいた笑みを見せる。
「じゃあ、『ひろ』だな。ああ、いいな……そう呼ぼう」
「えっ……」
初対面の者にあだ名を付けられるなど、初めての経験だ。
だが……不思議と悪い気はしない。
そんな感情も、初めてだった。
「お紘、すまんが手伝ってくれ」
調理場から旦那が紘子を呼ぶ。
「あの、これ……ありがとうございました。それと……」
紘子は帳面を重之介に返しながら、
「ご……ご馳走さまでした」
とお辞儀をして調理場に小走りに向かった。
その後ろ姿を眺めながら、重之介はパタパタと走り回る千代を呼び止める。
「なぁおばちゃん、あの子いつからここで働いてんの?」
「もう一年以上経ちますよ」
「え?俺何度もここ来てるのに、今日初めて見たよ」
女将はああと思い出したように、
「お紘ちゃんは、毎日来てるわけじゃないんですよ。うちが忙しい時に、ちょっと顔出してもらってる程度でね。たまたま今まで会わなかっただけですよ」
と言い加えた。
「へぇ……それにしても、町人のおなごで字が読めるって、ちょっと珍しいな」
重之介の呟きに、女将はまるで自分の娘でも自慢するかのように胸を張る。
「お紘ちゃんは本当に頭のいい子ですよ。読み書きだけじゃなくて、算術も出来ますし、裁縫だって針子並に上手い。愛想はないけど、うんと気立てのいい子で、この先の長屋で子供らにただでそういうのを教えてるんですよ」
「……算術、ねぇ」
重之介の中で、ここにいる紘子と昨夜の「紘子」がぴったりと重なった。
(一瞬他人のそら似かとも思ったが、木戸屋のあの娘で間違いないな。だが、これだけの才を持っていながら下働きと寺子屋で甘んじているとは、とんと無欲なのか、それとも何か訳ありなのか……妙に知りたくなるのは何故だろうか)
そんな思惑は表に出さず、ただ重之介は感心した様子だけ顔に浮かべる。
「それはまた、興味深いな」
「あっ、言っておきますけど、お紘ちゃんには手ぇ付けないで下さいよ?その日暮らしの浪人さんなんかと一緒になっちゃ、あの子が苦労するの目に見えてますからね!」
千代は重之介に早口で釘を刺すと、いそいそと仕事に戻った。
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