紘子と従重

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紘子と従重

 江戸近くの小藩・峰澤藩。  城下随一の料理屋「木戸屋」では、女将の初江が今夜も頭を抱えていた。 「まぁた、あの客だよ。こっちはもう店じまいだってのに、芸妓を呼べだの酒を持ってこいだの……金回りがいい分無碍にも出来ないしねぇ、これだからお偉いお侍さんは面倒だよ」  電気のないこの時代、店屋の閉店も本来は早い。  ところが、木戸屋の二階にある奥の間はいつまでたっても行灯の灯がともり、酔った男の嫌味な物言いが聞こえてくるのだから、初江もたまったものではない。  しかも、これが一度や二度ではない。  ここのところ三日に一度はこんな事があり、これまでは若い仲居を交替で適当に(あつら)えて難を逃れてきていたが、どうやら奥の間の侍とやらは仲居たちの事が気に食わないのか毎度口汚く罵り追い出す。 そんな事が続けば仲居たちから不満が漏れるのも当然で、今も彼女たちは初江の目に触れないようにとそそくさと隠れてしまった。 「給仕の仲居たちに辞められちゃ困るしねぇ……」  溜め息を吐く初江がそういう時に使うのは決まって紘子だ。 「紘子、あんた上の奥の間に行っといで」  炊事場の裏手に薪を取りに行こうとしていた紘子は突然の命令にはたと止まる。 「私……ですか?」 「他に紘子なんて女はここにはいないよ」 「あの……奥の間のお客様には、何と言えばよろしいですか?」  紘子は戸惑いながらも初江の命令を断らず言伝の中身を尋ねた。 「芸妓はもう遅いから来ない、酒はある、それでいいよ」  初江は紘子に徳利(とっくり)を突き出す。 「さあ、これ持ってとっととお行き」 「失礼いたします……」  紘子は女将に言われるがまま、替えの徳利を乗せた盆と共に奥の間を訪れた。 「さっさと入れ」  室内から返ってきたのは傲慢な口調の若い男の声だ。  紘子は静かに障子を開け、中に入る。  奥の間にいたのは、(よわい)二十そこそこの若い侍だった。  余程羽振りがいいのだろうか、絹の羽織が無造作に畳に投げ置かれている。 「お酒をお持ちしました」  紘子は俯いたまま盆を差し出したが、男の方は無遠慮に紘子の顔を覗き込んだ。 「仲居どころか、下女を使いによこすとは……俺も舐められたものだな。芸妓はどうした?俺は女将に芸妓をよこせと言った筈だ」 「恐れながら、夜分ですので芸妓はもう来られないと……お酒はこうしてご用意いたしましたが」  紘子は俯き加減のまま盆を差し出す。  すると、男は盆を乱暴に脇に追いやり、ぐいと紘子の前に身を乗り出した。  徳利が倒れ、盆の中に酒が広がる。  それでも一向に顔を俯かせ目を合わせない紘子の顎を、男は強引に持ち上げた。 「ならば、お前が芸妓の代わりに俺を楽しませろ。幸い、まあまあ見られる顔をしているしな」  確かに、紘子は目鼻立ちの整った美しい顔をしている。  人より僅かに大きな目は、薄暗い部屋のせいか黒目勝ちで潤々と照っていた。  だが、その顔色は青ざめ、唇は小刻みに震えている。 「ご……ご勘弁を」  紘子はそう呟くなり後退ると、畳に指を着いて深く頭を下げた。  入口の障子に腰がぶつかり、乾いた音が響く。  その様子に、男の声色が低くなった。 「……お前、武家の出か?」  紘子はこの時初めてはっと頭を上げ、首を振る。 「いっ、いいえ!」 「嘘を()くな。お前が畳の上に着いた指、僅かに右を上に重ねている。武士は右手を上に、商人は左手を上にするものだ。俺の目は誤魔化せないぞ」 「……」  紘子は再び俯き、沈黙した。 「……主家が取り潰されでもしたか?食っていくためなら商人に雇われるのも厭わないのか?武家の者が商人に顎で使われて、情けないとは思わないのか?そんなに食い詰めているなら、いっそ俺の側妻(そばめ)にでもなればいい。城に入れば衣食住には事欠かん」 「恐れながら……お城は、ご勘弁下さい」  紘子は蚊の鳴くようなか細い声で答える。 「城に入るよりも面白き事があるというのか?話せ。内容次第では……」  男が刀を取り、鍔に指を掛けた。 「俺の誘いを無碍にした無礼で手打ちにする」  紘子は唾をひとつ飲み込むと、恐る恐る口を開く。 「……長屋で、子供らに勉学を教えております」 「勉学だと……?女のお前が?」 「はい……読み書きと、算術程度ですが……墨や筆、紙を買うには、何かと要り用で……」 「それで、ここで稼いでいるというのか」 「はい……」  紘子の言葉に、嘘は感じられない。  男の指は、いつの間にか鍔から外れていた。 「町人の子に勉学を授けたところで、何になるというのだ?俺には解せん」  紘子は、ここでようやく男を真っ直ぐに見つめる。  男の口調から、解せないながらも紘子の話を聞こうという意思が垣間見えたからだ。 「家も、土地も、財産も……時には誇りや尊厳、命さえも、この世では簡単に奪われます。しかし、学んだ事は誰にも奪われません。何人にも奪われないものを持っているだけでも、人が生きるには糧となります」 「……お前も、奪われてきたのか」  男の声は、突然憂いを帯びた。 「奪われて、それでもなお、お前の心の中には何人たりとも冒せぬものがある……そういう事か」 「……」  紘子は何も答えない。  いや……答えられないのかもしれない。  男は一つ息を吐くと、立ち上がり羽織を羽織った。 「興を削がれた。今宵はこれにて失敬する」  紘子はさっと障子の前から退く。  頭を下げる紘子に、男の声が降ってきた。 「お前、名は何と言う?」  紘子はおずおずと頭を上げる。 「紘子……と申します」 「姓は?」 「……ございません」  それが嘘か真か、この時の男には分からなかった。  いや、武家の出と思しき紘子に姓がないなどおかしいとは気付いていた。  だが、彼はそれ以上追及はせず、 「俺は清平 従重(せいへい よりしげ)。峰澤藩主清平重実の――弟だ」  と告げ、障子を開けて去っていく。 「清平、従重様……」  紘子は半ば呆然と、遠ざかる従重の背を見つめていた。
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