夕を凪ぐ声

1/1
前へ
/110ページ
次へ

夕を凪ぐ声

 初江は露骨に嫌な顔をした……と言うより、うっかり営業スマイルを忘れてしまったと言った方が正しい。  何故なら、今目の前に現れた客は彼女にとって厄介な客でしかない従重なのだから。  ここのところよく来るとはいえ、三日に一度で済んでいたものが今回は「昨日の今日」だ。  だが、従重は初江の反応など歯牙にもかけず言い放つ。 「いつもの部屋を用意しろ」 「は、はい……」 「それと――」 「な、何でございましょう?」  上目遣いに従重の顔色を窺う初江に、彼は憮然とした面持ちで告げた。 「紘子をよこせ」 「へ?」 「聞こえなかったのか、紘子を来させろと言っている」 「はい、只今っ」  これ以上従重の気を揉ませては面倒だと、初江はそそくさと店の洗い場に走った。 「……というわけさ。紘子、あんた一体こないだ何をしたんだい?とんだ粗相でも働いたんじゃなかろうね?」  洗い場で紘子を見つけるなり、初江は事の次第を話した後紘子に詰め寄った。  紘子は昨晩の事を思い出してみるが、従重が激昂せず大人しく帰った事しか脳裏には甦らない。  ただ、従重が残した「興を削がれた」という一言は、どうにも引っ掛かっていた。 (お怒りのご様子はなかったけれど……何か、私の振るまいがお気に障られたのかもしれない……) 「すみません、昨日は突然『興を削がれた』と仰ってお帰りに……ですが、それ以外にご不満を仰ってはいなかった筈ですが……」  紘子は素直にそう打ち明けたが、初江はその内容に苛立ちを募らせる。 「何だいそれは!『興を削がれた』だなんて、つまるところ、あんたが原因なのは変わりゃしないじゃないか!さっさと行って土下座でも何でもしておいで!あんなのでもね、うちにとっちゃ羽振りのいい上客なんだよ!」 「はい……っ!」  紘子は洗い物をそのままに駆け出した。 「清平様、紘子です」  奥の間の障子の前に正座すると、紘子は今にも消え入りそうな声をやっとの事で絞り出した。 「……入れ」  従重に許され、紘子は先日同様に俯いたまま入室する。  そして、 「あ、あのっ、昨晩は大変失礼いたしました」  と、畳に額をこすりつける勢いで謝罪した。  しかし、従重は 「何の事だ?」  と呟くだけだ。  紘子は僅かばかり頭を持ち上げる。 「その……『興を削がれた』と……」 (こいつ、あの女将に訳も分からず謝れとでも叱り飛ばされてきたか。憐れなものだな)  そんな風に推し量る従重の口元が微かに弧を描いた事など、顔を俯けている紘子は知る由もない。 「さあな、そんな事を言ったか。生憎酒が入っていたので覚えていない」  従重は声色そのままにそう切り返すと、徳利を持ち上げた。 「手酌に飽きた。紘子、酌をしろ」  紘子ははっと息を呑んだ後、恐る恐る顔を上げる。 「は、はい……」  膝立ちですり寄り、徳利を傾けるが、従重が掲げる杯に注ぎ口がカタカタとぶつかり小刻みな音を立てた。  従重は眉間に浅い皺を寄せる。 「何故震えている?そんなに俺が恐いか」 「いいえっ、これは、その……」  紘子の誠意が「従重は恐くない」と告げても、その先が彼女の口から出てくる事はない。  この時、紘子の脳裏に浮かび上がったのは、目の前の従重とは全くの別人だった。  酌をする手を鷲掴み、押し倒し、薄い桜色の頬を血が滲むまで叩いた恐ろしい男の獣のような双眸と、与えられた苦痛が、彼女の中でフラッシュバックしていた。  だが、従重がそれを察する筈もなく、彼は短い溜め息を吐く。 「またそれか。お前はそうやって素を隠すのが癖のようだな。それでどれ程損をしているか分からないのか」  どこか憐れみさえ感じさせる口調で、紘子ははっと我に返った。 「その、清平様が恐いのではなく……」  突然、従重が紘子の言葉を遮る。 「その名字は好かん。名で……従重と呼べ」 「ですが……」 「俺がそうしろと言っている。で、ならばお前は何を恐れているのだ?」  勝手に会話の糸口を切ったり繋いだり、従重はやはり傍若無人な面の強い男なのだろう。  そんな彼は、紘子の答えを待たずに続けた。 「そういえば……昨日は『城は勘弁してくれ』等と言っていたな。あれは、城に入るよりも面白い事があるからではなく、城が恐いという事だったのか?」 「……っ」  絶句する紘子に、従重は僅かに目を細める。 「その顔、図星だな。これで分かった、少なくともお前はどこぞの城に出入り出来る程の身分だったという事がな。つまり、何があったかは知らんがお前は大名家が恐い、そういう事だろう?」 「それ以上は……どうか……」 (声まで震え出したか……余程恐ろしい目に遭ったのだろうな)  従重には、目の前の紘子がこのままどうにかなってしまいそうな気がした。  そして、そうなる事に妙な嫌悪感を抱いている。 (俺は、同情しているのか?この女に?)  己の心境に戸惑いつつも、彼は思ったままを口にした。 「だが、俺を恐れる必要はない。家督は既に兄上のもの、俺は所詮厄介者に過ぎん。俺は、大名なんかには程遠い」  そこまで言って、またも内心困惑する。  他人を、まして女性を気遣い慰めるなど、経験した事のないものだった。  それを紘子相手に自然と成してしまった事がどうにも気味が悪く、彼は無理に話題を変える。 「ところで紘子、お前は町人の子に読み書きを教えていると言っていたな。何を手本としているのだ?」  従重の問いが、ふっと彼女を過去から引き戻した。  紘子の瞳に生気が戻る。 「手本はございません。恥ずかしながら、そうしたものを用立てる余裕がなく……」 「では、一体どうやって教えている?」 「書くはいろは歌で、読むは諳んじた物語で、どうにか……」 「何だと?お前は、物語を諳んじているというのか?」 (世に、これ程賢いおなごがいようとは……)  読み書きが出来るばかりではなく、物語まで暗記しているという紘子に、従重は瞠目した。  紘子は忙しなく手を振り謙遜する。 「そ、そう申しましても大した事は覚えておりません。せいぜい、竹取物語や平家物語辺りでございます」 「左様か……」  紘子の言葉に相槌を打ちながら喉に流し込んだ酒は、いつもと同じものなのにこれまで口にした事がない程に美味い。 (こいつを見ていると、不思議と酒が美味くなる)  従重はふんと軽く笑った。  「平家物語は俺も好きだ。特に『敦盛最期』がな。死ぬ時は、ああして潔く死にたいものだ」 「……」  紘子は複雑な表情のまま口をつぐむ。  彼女のそんな顔が、従重には妙に心地良かった。 (何だ、今度はお前が俺に同情しているのか?俺に、死ぬなとでも言うてくれるのか?……我ながら都合が良過ぎるか)  自虐的に笑むと、従重は紘子に問う。 「紘子、敦盛最期は諳んじられるか」 「は、はい……」  きょとんとする紘子を面白げに眺めながら、従重は突然座布団を枕代わりにしてごろりと横になる。 「思いの外酒が進んだ。暫し休む。歌や舞の代わりに、お前が諳んじているという敦盛最期を聞かせてみよ」 「恐れながら、ご期待に添えるかどうか……」 「構わん」  恐縮しながらも、紘子はおずおずと口を開いた。  そして、ゆっくりと敦盛最期の冒頭を声にする。  終盤、敦盛の笛の下りを暗唱し始めた時、何の前触れもなく従重が寝転がったままぽつりと呟いた。 「紘子……お前の声色は心地が良いな」 「……え?」  突然の事に、紘子は返す言葉も笛の縁も忘失する。 「夕刻に肌を凪ぐ涼風のようだ……」 「そ、そのように仰って頂けたのは初めてでございます……」  涼風に喩えられた声とは裏腹に、紘子の頬はほんのりと上気していた。 「そうか……」  従重は目を閉じたまま、紘子の声の続きを待った。
/110ページ

最初のコメントを投稿しよう!

55人が本棚に入れています
本棚に追加