確執と秘密

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確執と秘密

 外は既に日が落ち、人もまばらとなっていた。  峰澤藩主・清平重実が城の廊下を歩いていると、前方から人影が近付いてくる。  暗くとも、歩き格好から人影が何者であるかは重実にはすぐに分かった。  相手もそれは同じようで、人影は重実の数歩手前で止まると、 「これはこれは、兄上。随分遅いお帰りで」  と声を掛けてくる。 (この野郎、また夜遊びに出るつもりだな)  重実は眉間に皺を寄せながら、 「お前こそ、随分遅くに何処に行くつもりだ?従重」  と返した。  齢一つ違いの兄弟の間に流れる空気は、皮肉に皮肉を返す程ひどく剣呑だ。  行き先を訊ねられ、従重は面を曇らせる。 「聡い兄上のことです、わざわざ申さなくともご存知でしょう?それに……」  従重の口元が歪んだ。 「城下にはいい女がおりますので」 「……従重、分かっているとは思うが、おなごを慰み物などとは断じて思うなよ。お前だって散々母上のご苦労を目の当たりにしてきただろう。大名家に生まれた以上、俺たちには何事においても相応の責が伴う。家臣の信頼を失う事も勿論あってはならんが、軽はずみな事をして相手を苦しめるような真似だけはするなよ」 「兄上がそれを仰いますか」  従重はフンと鼻を鳴らす。 「暇さえあればそのように浪人姿を気取って城下に繰り出し、ふらふらと遊び回っている身で俺に説教とは」  従重が指摘したように、重実の格好は確かに藩主たるそれでなく、くすんだ麻の衣に薄手の袴といった、どう見てもその日暮らしの浪人風だった。 「何とでも言え。俺は(まつりごと)に生かすために町人の目で世を見ているだけだ」 「ものは言いようですね、兄上」 (駄目だ、こいつには何を言っても響かない……言うだけ無駄なのか?)  苛立ちを堪える重実に、 「この国には、政のためなら薄汚い衣を纏って市井に溶け込める優秀な藩主様がいらっしゃるので、俺なんていなくてもいいんですよ」  と吐き捨て、従重は重実とすれ違い城を出る。 「たったひとりの肉親だというのに、何故こうなってしまう……?」  廊下でひとり、重実は寂しげに呟いた。  その頃、長屋に戻った紘子は戸締まりをした後文机に座っていた。  紘子の住まいには、この文机と、女性一人でも背負える大きさの行李(こうり)が一つ、あとは最低限の煮炊きの道具くらいしか主立った家具は見当たらない。  文机の上には、一通の書状らしきものと、町娘が持つには相応しくない懐剣が並んで置かれている。  光沢のある懐剣の外装を、障子を抜けて差し込む月明かりが照らした。 (私は、何故重之介様にあのような事を申し上げたのだろうか……)  つい先程、「あづまに行くのは五日程後」と重之介に咄嗟に告げた事を思い出す。 (寂しいと思った……あの方が離れていくのが、無性に。こんな気持ちは初めてだ。けれど……)  舞い上がりそうになる「何か」を、紘子はそっと抑え込んだ。  視線の先には、書状と懐剣。  懐剣の鞘に刻まれた金の椿紋(つばきもん)が月明かりに光る。 (……私とは深く関わらない方がいい。その方が、あの方の身のためだ)  そう思いながらも、土手で抱き止められたあの瞬間を思い出すと、何故か胸が高鳴った。 (いっその事、全てを捨ててしまえたら……これらを捨ててしまえたら、思いのままに生きられるのだろうか?……ただの町娘の紘子として)  それが出来たらどんなに良かろうか。  そうしたら、もっと己自身の事を重之介に話せただろうか。  そんな事を考えて、紘子は気付く。 (そうだ……嘘を吐きたくないのではなく、私は重之介様に私の事を知って頂きたいと思ってしまったのだ、きっと。でも……)  紘子の首が切なげに項垂れた。 (……出来ない。私の窮状を慮りこれを授けて下さったお方のお気持ちを無碍になど出来ない。それに……)  紘子の視線が書状に移る。 「父上と母上の無念を思えば、私がここで(くだ)るわけにはいかない。たとえ如何な目に遭おうと、命を奪われようと……」 (このような物、あの男にしてみれば揉み消すなど容易い事なのだろうけれど……それでも、今の私にとって切り札である事には変わらない)  紘子は黙って頷くと、懐剣と書状を静かに行李の一番下にしまった。
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