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序
時は泰平、江戸時代。
徳川三代将軍家光の頃。
「忠三郎、この『参勤交代』ってのはどうにかならないもんかね」
籠から降りた若殿が、青天を腕で突くように伸びをする。
忠三郎と呼ばれた侍は、溜め息を吐いた。
「どうにもなりませんな。我が峰澤藩はたかだか一万石、ご公儀に睨まれれば簡単にお取り潰し。やれと言われたらやるしかございません。とはいえ、此度の参勤で収穫もあったではございませんか」
若殿の名は、清平 重実。
関東の小藩・峰澤藩の藩主にして、清平家の当主だ。
齢十五で元服した矢先に父親の死を受け当主を継いで四年、家老の北脇忠三郎を連れての初めての参勤交代から国許に戻る途上である。
「収穫か……まぁ、確かにな。吉ノ丞殿がまさか老中付きになってるとは」
吉ノ丞の顔を思い出しながら、重実は懐かしげに微笑んだ。
かつて、重実が江戸に剣術修行に出た折、道場で兄弟子として彼を迎え入れたのが吉ノ丞であった。
吉ノ丞は譜代の大名家の子息で、今は田辺 親房と名を改め老中直属の部下として江戸城に詰めている。
小藩にとって、中央とのコネクションは生き残るための命綱にもなる。
それが江戸で見つかった事は、峰澤藩にとって大きな収穫であった。
「殿、日が高くなりました。あとは沈む一方にございます。そろそろ進みましょう」
「そうだな」
忠三郎に促され籠に戻ろうとした重実だったが……。
籠を担ぐ男が一人、腹を押さえて蹲っている。
「如何した」
忠三郎が問うと、男は呻き声を上げた。
「み、水に当たったかと……」
先刻の休憩中に飲んだ水が、どうも傷んでいたらしい。
忠三郎は代わりの籠持ちを列の後方から呼び、重実を籠に乗せようとする。
しかし、重実は
「俺より彼を乗せてやりなよ。俺はこの通り、ぴんぴんしてるからさ」
と腹を壊した籠持ちを籠に押し込んだ。
「お、お殿様の籠に乗るわけには……っ!」
籠持ちは血相を変えるが、重実は引かない。
「そんな事言ってる場合じゃないだろ? ほら、いいから乗れって」
結局、籠には腹を壊した男が乗り、重実はその隣を歩き出した。
だが、帰路は想像以上に悪路だった。
一刻ほど歩いたところで、重実は草に足を取られてうっかり石を踏み、足首を挫く。
「殿、観念して籠にお乗り下さい」
忠三郎に諫められるも、重実は苦々しい顔をするばかりで乗ろうとしない。
すると、そこに頭巾を目深に被った僧と思しき小柄な者が一人すれ違った。
「もし、其方は旅の僧であられるか」
忠三郎に呼び止められ、僧は立ち止まるとその場に傅いた。
「我が殿がどうも足を挫いたらしい。何か薬は持ち合わせておらぬか」
僧は袖から軟膏の入った小さな壺を取り出すと、
「恐れながら、お足を……」
と重実の足をそっと手に取り、上下左右にゆっくり動かしながら怪我の具合を探る。
「……木の根か石でも踏まれましたか?」
「そんな事まで分かるのか?」
やけに低く抑えた声に問われ、重実は目を見開いた。
僧は顔を俯けたまま
「……足首の捻り具合から、何となく」
と答え、重実の踝くるぶしの下辺りに軟膏を塗る。
「今日明日が最も痛みましょう。冷やして安静になさりませ」
「待て待て!」
すくっと立ち上がり早々に去ろうとする僧を、重実は慌てて飛び止めた。
そして、懐の内側に差していた懐剣を取り出すと、それを僧に差し出す。
「礼のひとつもせず行かせるは武士の恥。生憎こんな物しかないが、受け取ってくれ」
「このような大層な物、頂けません」
僧は相変わらず顔を見せない。
「謝礼を拒まれたとあっては、今度は家臣の前でとんだ恥をかく。俺を助けると思って、貰ってくれ」
頑として譲らない重実に負け、僧はそっと懐剣を手に取った。
「……ありがたく、頂戴いたします」
僧は深々と頭を下げると、重実に踵を返し去っていった。
「殿、何故懐剣を?」
忠三郎が怪訝そうに尋ねる。
重実は、それに軽く首を振った。
「……あれは僧じゃない。恐らく、どこぞの武家の娘だよ」
「真ですか?」
「確証はないがな。だがまぁ、このご時世だ、取り潰しの憂き目に遭って主家を失い路頭に迷う武家の妻子も多いと聞く。立ち居振る舞いといい、知識といい、あれは僧の修行だけで身につくもんじゃない。おまけに、あの手と声色、あれは男のふりをしてるが間違いなく女だ」
重実の推測に、忠三郎は嘆かわしげに俯く。
「……それが真なら、哀れなものですな」
「あの懐剣持ってりゃ、どこに行っても清平の縁者だって事で無碍にはされないだろう」
「ですが……殿はあの懐剣を悪用されるやもとはお考えにならないのですか」
呆れ顔の忠三郎に、重実は微笑を返した。
「悪用するような女には見えなかったが」
――そして、二年の年月が流れる。
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