覗き色

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やっぱりと言うべきか、どこかで予感はしていた。あの日以来タカハシさんからの連絡が無いのだ。 いつもなら少なくとも週に三日は事務所でのバイトが入っていたのに、ここ一、二週間は全く連絡が来ない。一度こちらから連絡してみたが、既読が付いたのみで返信は待てども全く来なかった。 無駄だと分かっていながら学校帰りに校門の周りを探してみるも、やはり居ない。僅かに期待した公園のベンチにも彼の姿は見当たらなかった。 「避けられてる、よな」 心当たりはない。こともない。 だけどあの時思ったことを言ったこと、後悔はしていない。あの人もきっと自分で分かっていて、俺の考えも何となく分かっていて聞き出したんだ。 面倒な人。 まるでニンゲンとの距離を測りかねている野良猫みたいな人だ。 これからどうするのが正解かは分からないけれど、俺がどうしたいかは分かる。だってもう見つけてしまったんだから。 たくさんの中にあなたを見つけて、俺は既に一歩を踏み出してしまったのだから。 という訳で、さぁ、もう一歩踏み出そう。 事務所へと続く急な階段を上がって、閉まっている扉を開けた。応接室には誰も居なくて、その奥にあるドアの向こうを真っ直ぐ見据える。 居る。 俺が来たことにもきっととうに気付いているだろう。 タカハシさんの仕事場兼居住スペースである部屋へと続くドア。その取っ手に手を掛ける前に、中から気怠そうなあの声が聞こえて俺は動きを止めた。 片手に握った紙袋の持ち手が、さして重くもない癖にやけに手の平に食い込む。 「今日バイトの日じゃないでしょうー?」 「あなたが連絡寄越さないからでしょう。返事くらいしてください。常識でしょ」 強めに言ったのが悪かったのか、何も返答が無い。このままここに居ても埒が明かなそうだ。 自然に零れる溜め息を無視して、俺はわざとらしく金属音を響かせた。すると漸く中で人が動く気配がして、またあの声が耳に届いた。 「あー…。そういや合鍵渡してるんだったぁ…」 「かぼちゃの煮物持ってきてるんですけど、要ります?」 「そこ置いといてぇ…」 ドア越しに聞こえる彼の声はいつもの飄々とした調子ではなく、少しうんざりしているようにも聞こえる。きっと俺とは会いたくないのかも知れない。というか、会いたくないから連絡を寄越さなかったんだろう。 そんなことは分かり切ってるんだけど、ここで引き下がったらきっともっと離れてしまう気がして。俺はそれが嫌だと思ってしまったんだ。 少しくらい強引に行かないと、この人はそのまま離れていってしまう気がして、それが何故だか許せなくて。 初めからそんな雰囲気は感じていた。自分から俺を自身のテリトリーに引き込んでおいて重要なところに触れられそうになったらさようならなんて。 そういうことを平気で…本当に平気かどうかは分からないけれど、平然とやってのけてしまいそうな危うさがあるのだ。そうして人と離れていった後はこの人は一体何を思ってどんな風に過ごすのだろう。 だけどゴメンなさい、俺はそう簡単に離れていけそうにない。不思議で強引で掴みどころの無い煙みたいな変人だけど、その手が掴むところを探してるのなら俺の手を貸してあげたい。 あの日みたいに俺の袖を掴んでくれたっていい。それでもいいから、中に入れて。 あなたの引いた、その線の中に。 「入っていいですか」 「………ちょっと待ってて」 ガタンゴトンと何かが転げ落ちる音がして、中ではタカハシさんが何かの準備をしているようだった。 忘れてたけどそういやこの人片付けが苦手な人だった。俺が居なかったこの二週間で一体この中がどれ程の惨状になっているのかは、初めてここを訪れた時を思い出せば容易に想像出来てしまう。 あれもこれも、また片付けなくちゃなぁ。ゴミ袋何個分だろう。 そんなことをぼんやり考えているとやがて部屋は静かになり、中から「どうぞぉ」と間の抜けた声が飛んできた。 漸く出た許しに、俺は遠慮せずにドアを開ける。 と、そこにはあの日と同じ黒髪黒目の青年姿のタカハシさんが居た。 俺が来るまではきっと違う格好をしていたに違いないと思うけれどきっと、今のこの変装が一番ラフでこの人の本来の姿に近いのだろう。 俺が来たから慌てて準備したんだろうか。 というか…。 「やっぱりこんなに散らかしてる…」 「別に散らかしてなんかないもん」 「この状況が散らかってないってんならどのゴミ屋敷も散らかってないですよ」 足の踏み場も無いとは正にこのこと。 彼方此方に書類やらファイルやらカップ麺の容器やら箸やらが放り投げられていて、最早どこが寝床なのかも一見しては分からない状態だ。 正直、初めてこの部屋を訪れた時よりも散らかっているかも知れない。あまりにもごちゃついていて最早ここでどう過ごしているのかも想像がつかない。 全く…ここまで来ると逆に器用だな、なんて皮肉なことを思ってしまう。 「で、何で来たの」 「何で連絡くれなかったんですか」 「面倒臭いコイビトかよぉ」 「返事くらいはしてください。心配するでしょ」 「この通り元気満々だよ。じゃあもう用事は終わりだねぇバイバイ」 俺の顔すら見ようともせずにひらひらと手を振って、さっさとこの場から去れと雰囲気で伝えてくる。俺はそれにどうしようもなく腹が立って苛々して、ついいつも被っているものを脱ぎ捨てて心のままの言葉を吐き捨ててしまった。 本当にこの人はどうしようもない。 そして俺もきっと、どうしようもない。 「アンタは面倒臭いガキかよ」 「あんだって?」 「あんたはめんどくせぇがきかよ、って言ったんです。解説しましょうか?」 「いや聞こえましたけども。カイセツイラナイデス」 「カタコト…」 俺がこんな荒い言葉遣いをすることに少し驚いたのか、先程までの棘々した雰囲気が少し緩和されている気がする。 その隙を突いてずいっと俺の手の平を圧迫していた紙袋を差し出すと、タカハシさんは無言でそれを受け取った。 そのままその辺りに放られるのかと思いきや、彼は中身を確認して小さく礼を言い、紙袋を近くにあった机の上に慎重に置いた。別にプラスチックの容器だから雑に置いたって平気なのに。 「ありがと」 「どういたしまして」 そうして流れる、暫しの無言。 別にケンカしていたって訳じゃないのに、何故だか気不味い沈黙が流れる。 その沈黙を破ったのはタカハシさんだった。 黒い髪をさらりと揺らしてちらちら俺の表情を窺う様子は、叱られた後の子供みたいで。ゆらゆら揺れるその眼差しを携えたまま、薄い唇をゆっくり開く。 「りょうくんは、おれのことどう思ってるの」 「クソめんどくせぇクソガキ」 おっとまた本音が。二週間も放置されていて自分でも思っていた以上に苛々が溜まっていたのかな。 「容赦無ぇな。クソって二回言った」 「すみません冗談です。本心もありますが」 「それ冗談じゃないよねぇ」 「何をそんなに怖がってるんですか」 「誰が」 「あなたですよ。俺、そんなに怖いですか」 「怒ると結構怖いって今実感してる」 「別に…怒ってませんよ」 「ウソ。怒ってる」 「探偵の勘ですか」 「見たまんまだよ」 怒ってる…。俺そんなに怒ってるように見えるのかな。確かに連絡無くて苛々してたかも知れないけどさ。そんなに、怒ってるのかな。 頭一つ分は違う身長。 下からまじまじと見上げるそのカオはやっぱり俺の欲しいものとは違っていて、本人もまだ彷徨ってるみたいに見える。 別に怒ってる…つもりはないけど。 どんな色でも姿でも、俺はこの人のこの瞳を見る度心に何かが溜まっていくような感覚を覚えていた。 それが何なのかは分からない。でもその一つ一つが確かに重さを持って、鉛玉みたいに深海の底に沈んでいくんだ。 何でこの人がカメレオンさんになったのかなんて、俺には分からない。それでずっと貫き通してくれるならきっとそれでも良かったんだ。 だけど俺は見つけてしまった。この人も、わざわざ俺に見つけてもらいにやって来た。隠したいのに、暴かれることをどこかで期待しているみたいに。 現に今も、この人は俺を前にして迷っている。あの日俺の袖を掴んで引き止めたのだってこの人の迷いの現れなんじゃないかと思う。 自惚れだって言われたらそれまでだけど。 でも身勝手で傲慢な俺はきっと、その迷いを消してしまいたいのだ。他人にも自分にも興味なんて無いと思っていた筈なのに、この人の迷いを消して自分も楽になってしまいたいと、そう思ってるんだ。 「ねぇタカハシさん」 「…なぁに」 「あなたは何でそんなことしてるんですか」 そんなこと、だけで何のことかすぐに分かったのだろう。この人はとても勘が良い。人の情緒にとても敏感で、言葉の裏に隠された意味にもさらりと気付いてしまう必要以上に聡い人。だからこそ、こんなに臆病になるのかも知れない。 本当は信じたいんじゃないのか。 信じたくて堪らないんじゃないのか。 だけど怖くて、信じられないんじゃないだろうか。 もっと言葉に詰まるかと思った。 それかさっきみたいにひらりと躱されて、俺を遠ざけると思ったけれど…。 彼は黒い視線を真っ直ぐ俺に定めて、意外にもあっさり話してくれた。 「キライなんだ。カテゴライズされるの」 「カテゴライズ、ですか」 「そ。当て嵌められるのが、ね」 なのに誰よりも「普通」を欲しがってる。こんなの矛盾の塊だよ。 そう吐き捨てて自嘲気味に嗤うその人の肩は頼り無げに揺れて、身長の割りに薄い身体が今にも崩れ落ちてしまいそうに思えた。 まるで柱の抜けた建物みたい。なのに今までどうして立っていられたんだろう。
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