146人が本棚に入れています
本棚に追加
この人はありとあらゆる「普通」の人の真似をして、少しでもその枠の中に入りたかったのだと言った。「普通」なんて曖昧な概念は見つけようがないのに、そんなもの人によってあまりにも差があるのに、この人は誰よりもそれを追い求めていた。そして多分、俺だって。
そうだよ。俺だって、「普通」がいい。
「変わってるね」とか、「不思議だね」とか、「個性的だね」とか。
きっと相手は褒め言葉のつもりで言ったのであろう言葉たちも、俺にとって嬉しいものとは限らなかった。
だって俺もこの人もすごく臆病だから。
人と違うなんてそこに空気があるように当たり前のことなのに、「お前は違う」と示唆されるだけでまるで仲間外れにされてしまった気がして。
何の仲間かまるで分からなくても、嫌だった。多分それが嫌だったんだと、思う。
いくつもの輪があって世界があって、大きなものも小さなものもたくさんあって。
俺もこの人もその何処かに属していたくて、ただ安心が欲しかった。他と同じものを手に入れれば安心も得られるのかなんて、そんなこと分からないのに靄みたいに曖昧なそれらをただ欲しがっていた。
くだらない。そう思わなくもない。
だって結果的にこの人はすごくおかしな方法でその「普通」とやらを手に入れようとして、余計におかしなことになってしまっていたのだから。
だけど馬鹿にも出来ない。
似てるなって思っちゃったから。
不器用でちょっとどこかズレてて愛されたがり。信じたいけど信じるのが怖くて、「まぁいいか」で蓋をする。
その中にどれ程の自分だけの大切が埋もれているかなんて見向きもせずに、今日も他の人の見よう見まねで息をする。言葉を交わす。歩いて笑って、嘘を吐く。
そうして積み上げた脆い何かはあっさりと波にさらわれて崩れてしまうのに。
それを俺もこの人もきっと、分かっているのに。
…今目の前にある、この薄っぺらい身体はきっと本物。
今にも倒れてしまいそうなその体躯を支えるように、俺は正面からその肩を抱いていた。やっぱり頭一つ分違う身長。
それなのに近付いた、気がしたんだ。
気付けば俺はちょっとだけ背伸びをして、目を少し見開いたその人の唇と自身のそれを触れ合わせた。音もしない、静かな俺のファーストキスだ。
薄いのに意外に柔らかい。だけど隙間から僅かに漏れた息は、その熱は確かにその人のものだと思うと身体の奥が温かくなった。
「すいません」
「なんであやまるの」
「許可もなくこんなこと…嫌だったかなって」
「いやだったら突き飛ばしてるよ」
ふっと熱い吐息を部屋の中に逃がしてしまったその人は確かに俺を見て、微笑った。寂しそうな、苦しそうな、あの迷子みたいな瞳で。
いつも俺の近くで見つけてもらうのを待っていたかのようなあの、不安そうに揺れる瞳で。
「タカハシさん」
「ちょっと目瞑ってて」
「え」
「いいから」
大きな手ですっと目元を覆われて、半ば強制的に瞳を閉じさせられる。
顔に当たる熱は俺が目を閉じるとすぐに離れてしまって、その代わりにすぐ近くでガサゴソと音がした。
何をしてるんだろう。
何されるんだろう。
内心そわそわしていると、すぐ近くから酷く穏やかで優しい声が降ってきた。
どれだけ姿が変わっても変わらない、この人だけの声。この人の「本当」のひとつ。
俺の大好きな、あなたのひとつ。
「りょうくん」
「はい」
「『と』、って言ってみて」
「『と』、ですか?」
「うん。それから、『わ』」
「『わ』?」
「それを、続けて言ってみて」
目を閉じたまま、謎の指示を出されて少し戸惑う。俺は指定された文字を音に乗せるその前に口の中で形にしてみた。
そうしてからゆっくり、口を開けて言葉を紡ぐ。それがとても大切な音であることを何となく感じながら。
「と、わ」
「…うん。うん。続けて」
「…とわ」
「…ん、もう一回」
「とわ」
「…うん」
「とわ、さん」
「………なぁに、りょうくん」
やっぱり、とても大切な音だったんだ。
これもあなたの「本当」のひとつなんだなぁ。
「とわさん」
「いいよりょうくん。目を開けて」
言われた通り瞼を開けると、そこには俺がずっと見たかった姿が在った。
あぁ、やっと見えた。
これがこの人の「本当」だと、直感がそう告げる。
色が無いな、というのが一番に思った率直な感想。
髪は真白く陽の光に簡単に透けて、覗き込んだ瞳も一瞬透明なのかと思った。
けれどよく見ると虹彩に僅かな青が反射して、水の残った瓶の底みたいにきらきら輝いている。
今まで見たことがないくらいにそれはもう美しく、きらきらと眩しく輝いているのだ。
あぁそっか。
これがこの人の色なんだなと思ったらすごくしっくりきて、俺は何だかすごく安心してしまった。
俺はこの瞳をずっと見ていた。
ずっと見ていたのに、たった今漸く捕まえられた気がした。胸に溢れ出る熱いものが何なのか分からないままに、それが俺の頬を伝って地面へと落ちる。
気付けば視界はすっかりぼやけて、ずっと見ていたい筈の輝きまで隠してしまった。
「…んで、なんできみが泣くの」
「俺…泣いてますか」
泣いてたのか。そっか、だから目頭が熱くて視界がぼやけていたんだな。
泣く、なんてことを今までまともにしたことがなかったから分からなかった。
「ねぇ、もう一回していい?」
「なにをですか」
「訊いちゃうんだ」
ぱちりと強めに瞬きをしてクリアになった視界に、今にも泣きそうな顔をした子供みたいな彼の顔がすぐ近くにあった。
殆ど無意識に手の平をその滑らかな頬に滑らせると、もう既に濡れている。
何だか可笑しくて笑いそうになるその瞬間に、濡れたままの唇が重ねられた。ちょっとだけ、しょっぱい。
顔を離すとやっぱり頬は濡れてるのに、やっと探し物を見つけたみたいな晴れ晴れとした笑顔が視界を埋め尽くす。
ひび割れた窓から差し込む光が後光の様にその笑顔を照らして、眩しいのに目が離せなくて。堪らなくなって俺より少し広い胸に飛び込んだ。
俺、今きっとすごいみっともない顔してる。
笑いたいのに泣いたままで、嬉しいのに今までの寂しかった気持ちが押し寄せてくるようで、温かいのにそれが怖くて。
どうしたらいいか分からなくなってあなたの胸に飛び込んだ。
今まで深い海の底に沈みこんでいた重い玉は一瞬で軽い泡になって、祝福するようにぽこぽこと水面へ押し寄せる。
それが一粒二粒と雫になって俺の目を伝って流れて落ちる。温かくてしょっぱくて、触れれば指先をきらりと濡らす。
さっきまで迷子の様に見えていたのに今は俺の方が迷子みたい。やっと居場所を見つけた、幼い子供みたいだ。
あぁそっか。
その色が、眼差しが、この熱が…ずっと欲しかったのだと俺は漸く自覚した。
最初のコメントを投稿しよう!