WING3『境界線の向こう側』

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 深夜、その部屋に響くのは、その愛しい寝息だけだった。  空は、静かな空間で眠りについてしまった恋人の頬を撫でた。  涙の痕が見て取れる。やはり、初めてだったからきつかったのだろう、無理をさせたかもしれない。  空は、その額にキスを残して、部屋を出た。  やはり、これだけ体を酷使させて、尚且つこんな板の上で眠らせるのは忍びないと思ったのだ。遥に言えば、毛布の一枚くらい出してもらえるだろう。  空は、自分の身なりを整えてから螺旋階段を降りた。  そこはまだ、煌々と明かりが灯りパジャマ姿の遥がソファでテレビを見ていた。 「あら、空くん。どうかした?」 「遥さん……毛布か何か貸してもらえませんか?」 「万優、寝たの?」 「ええ」 「じゃあ、こっちに連れてきてソファで寝かせた方がいいわね」  遥の言葉に、空が表情を変える。  確かに、その方がいいのだが、今万優は下着一枚で上着を掛けて眠っていた。酒でも入っていたら、酔っ払って、とでもなんとでも言い訳出来るが、残念ながら今日は二人とも素面だ。 「……連れて来られない?」 「と…いうか……連れて来たくないです…よく眠ってるから」  お姫様よろしく抱えてくることも可能だったが、それにしても一度起こして服を着せなくてはいけない。 「そう、分かった。少し待ってて」  遥は立ち上がってリビングから続くドアを開けた。どうやらそこが寝室らしい。チャコールグレーのブランケットを二枚、それに白のキルトラグを出してきた。 「この、白い方下にして使って」 「はい、すみません」  受け取って、階段を上がろうとすると、遥が空を呼んだ。 「ねえ、少し話、しない? それ終わったら降りてきて、付き合って」  遥は、そっとテーブルの上のワインクーラーを指差した。既にコルクが抜かれたボトルが一本冷えていた。 「はい、よろこんで」  空は、素直に答えた。ちょうど、この人と話がしたいと思っていたし、何より喉も渇いていた。 「白だけど、いい?」  遥は、空の持つグラスにワインを注いだ。 「僕はどっちも好きです。……いただきます」  冷えたワインは、すっと空の喉を通り潤していった。 「これ、どちらの舞台ですか?」  リビングのテレビに映っていたのは、舞台の公演だった。字幕の無いそれは、海外のもの、しかも空にも理解できない言語だったので英語圏のものではなかった。 「フランスよ。オペラ座で上演されたオペラ座の怪人」 「へぇ……オペラ座ってガルニエの、あの?」  オペラ座は、当時新鋭の建築家シャルル・ガルニエにより建てられた歴史ある建造物である。今ではパリの観光スポットの一つとなっているが、贅を尽くしたそのつくりは、素晴らしいと聞く。実は、空も立ち寄ってみたいところの一つなのだ。 「そうよ。今度、うちの劇団でもやろうって話になってるの。使い古された感じがするけど、私たちならそのイメージを変えられるんじゃないかって」 「映画だけでも、十本以上あるらしいですね。僕もどれかは分かりませんが観てます」 「でも、私たちのは違うわよ」  遥は笑いながら、グラスを傾けた。 「違うって……?」 「クリスティーヌを私が演るっていったら?」  空は、思わず遥の顔を見つめた。 「……遥さんが、ですか?」 「あら、前にも言ったでしょう? 私が演じるのは女よ。それがウリですもの」 「……そのために、普段から言葉遣いとか、仕草とか女らしくしてるんですか?」  ようやく、遥という人物を理解しはじめた……いや、理解しようとし始めた空が聞く。  万優をようやくこの手で抱いて、身も心も恋人と言える、そんな自信が出たからだろう。この人をようやく万優の周りをうろつく変なおじさんから、万優のことを可愛がる叔父へと認識を変えたのだ。 「そうよ。舞台の世界ではよくあることよ」 「……奥が深いんですね」  実は、空は舞台を甘く見ていた。特に男装するだの、女装するだのといった「色物」っぽいものには、興味すら湧かなかった。  けれど、この人と話して、その考えが少し変わった気がする。 「今度、私の舞台観にいらっしゃい……万優と」 「え……?」  最後の言葉が意味深に聞こえ、空は聞き返した。 「…いいのよ、隠さなくて。私、これでも常識の範囲は広い方なの。万優の恋人なんでしょ?」  その言葉には、いくら冷静な空でも動揺を隠せなかった。グラスを指から離しそうになり、慌てて両手で押さえる。グラスの中で、大きく波が立った。 「図星ね。あ、勘違いしないでね。別に上から何か聴こえたわけじゃないから。あくまでも勘よ」  聴こえてたなんて言ったら万優が烈火のごとく怒るだろう。そうじゃないようでよかった。 「……万優のあんな顔、初めて見たのよ。いっつもフワフワしてるのに、今日は氷みたいに硬くて、冷たい顔してた。……苛めたんでしょ?」 「いや……別に、苛めたわけじゃ……」  しどろもどろに弁明する空を、遥が笑う。 「冗談よ。でも……大事にしてやってね、あの子のこと。私の大切な甥っ子だから」  表情を引き締めた遥は穏やかに空に言った。 「はい……僕にとっても大事な人ですから」  空の言葉に、遥が笑顔を作る。 「それを聞いて安心したわ」  遥が大きく伸びをして言った。 「私、明日から稽古なの。もう休むわね」 「あ、じゃあ僕も。ご馳走様でした」  遥はそれに、首を振って答え、お休みと言って寝室へと戻った。  空も、愛しい人の隣で朝を迎えるべく螺旋階段を上がっていった。
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