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「さあ、上がって」
優しい笑顔で母親が空を玄関へ通した。
そこで、空は一つの看板を目にした。
玄関先に、洒落た文字で『アトリエ要』と書かれている。しばらく見つめていると、後ろから万優が来て言った。
「どうしたの?」
「いや、これ」
空が指差すと、千愛が口を挟んだ。
「うちのパパ、画家なんだ。お家で絵描いてるの」
「へぇ」
「て、言ってもポップアートとか、デザインとかが多いんだけどね」
万優が言葉を足す。そして、中に入るように促した。
空はそれに従い、居間に入る。
中では既に母親がお茶の用意をしてくれていて、ソファには、噂の父親が座っていた。
「おかえり、万優。いらっしゃい、大河くん」
「初めまして」
空は短く答えた。
「ただいま、要さん」
笑顔で万優が答える。
おかえりとただいま。とても自然な親子の会話のはずなのに、どこかしっくりこない。
着いたばかりの三人がソファに座ると、タイミングよくお茶が運ばれてきた。
紅茶とスコーンが並べられる。
――いいトコの坊ちゃん、決定。
空は前々から感じていた万優の印象に確信を得た。こんな生活を送っていたら、鈍感でバカ正直な性格にもなるか、と心の中でため息をついた。
「何もないところですが、ゆっくりしていってくださいね」
優しい口調の父親に、空は頷いて答えた。
「ねぇ、お兄ちゃん。このスコーン、ママと千愛で作ったんだよ」
「ホントに? 千愛が?」
万優が皿から一つ摘んで、千愛に聞き返す。
「美味しく出来てるかしら?」
ようやく腰を落ち着けた母親が笑いながらその様子を見守る。
「美味しい? お兄ちゃん」
万優の隣で可愛らしく問うその姿は、空から見ても愛らしく感じた。
「うん、美味しいよ。空もどう?」
「良かったら召し上がって」
万優とその母親に勧められて空が一つを頬張る。
平和な味がした。
家族ってこんな感じなんだなぁ、としみじみ思う。空自身も普通の家庭に生まれ育っているが、父親はパイロット、母親はアパレル関係で働いていてほとんど家に居なかった。
兄と二人で過ごすことが多かったが、空が中学に上がった頃、兄が全寮制の高校に入ったため、それからは一人が多かった。
こんなふうに家族が揃うなんて、もう何年もない。
大河家が顔を揃えても、こんなに優雅には過ごせないどころか会話があるかも分からない。仲が悪いわけではないのだが、家族全員が個人主義なのだ。
きっとこの家のようにはならない。
それが空の素直な感想だった。
「客間は要らないって言ったから、本当に用意してないけど……いいの?」
万優の部屋へと移動した空と万優に母親が聞いた。
「うん、布団さえあればいいよ」
万優が答えて空を見る。
「充分です」
空は答えてから、布団もいらない、心で呟く。もちろん言葉に出すことは間違ってもない。
「お兄ちゃん、今日千愛もここで寝てもいい?」
千愛の言葉が、空を貫く。おいおい、冗談じゃないぞ、と心中穏やかでなくなる空は、万優の顔を見た。
「今日はダメ。今度ね」
万優はさらりと答えて、千愛に笑いかける。
「……どうしても?」
哀しげに見上げる瞳。
その目に、空は何か嫌な予感を覚えた。
――ひょっとして、その目が武器になると気付いてる?
子供だ、妹だと思って軽く見ていたがどうやら甘く見ていたのかもしれない。
空の心に、灰色の風が吹き始めた。
「どうしても、ダメ。用意が出来たら階下に行くから、待ってて。な?」
万優は半ば強引に千愛を部屋の外へ連れ出し、そのドアを閉めた。
「お兄ちゃん!」
ドアの外から、千愛のふて腐れた声が聴こえる。
「待ってて。いい子なら、分かるよね?」
部屋の中から、万優が応じると静かに階段を下りる音が響いた。
「ごめんね、空。妹が煩くて」
「いや……妹ってあんなものなのか?」
「うーん、千愛は特に俺に懐いてる方かな。離れて暮らしてるから寂しいんだろ」
万優は勝手な解釈をして笑った。
空は、その解釈に疑問を抱いたが今はとりあえず置いておくことにした。
「お前は寂しくなかったか?」
空が万優に問う。
「何言って……俺は別に家族と離れても……」
「じゃなくて、俺と離れて」
空がじっと万優を見つめる。万優の表情がふにゃりと崩れた。
「……寂しかった。逢いたかった」
万優の答えに、空がその体を抱きしめる。
「俺も、同じ気持ちだった」
耳元で囁くと、その肩がぴくん、と震える。その仕草がまた、可愛い。そう思うのは空だけだと思うし、他の誰かにそう思って欲しくもない。
まだ、この『オコサマ』万優はこういう状況に慣れていない。空には、その『構える』様子が手に取るように分かった。それをどうにかしたいと思っているのだが、こればかりは時間と経験以外の処方箋は出ないらしい。
「……空?」
しばらく動きの無かった空に、万優が腕の中から声を掛ける。
「もう少し」
空は言うと、腕に力を込める。万優は黙って体を預けた。
愛しい時間。こうして、互いの体温を、吐息を肌で感じるこの時が永遠だったらと思う。しかし現実はそうはいかない。
「……空、そろそろ……」
言いかけたその唇を、空が同じもので塞ぐ。
しっかりと長い指で万優の顎を包み込んでしまっているため、万優は抵抗することなどかなわなかった。
万優の舌を吸い上げて、自分の中に取り込むと、空はしっとりと舌先で撫で上げる。
きゅっと縮こまり、戻りたがる舌を引きとめ、何度も絡めると、次第に空の思うがままになる。そうすると、空は万優の口腔を舐め上げて、舌を戻してやる。それから、唇をゆっくり離すと、そこにはとろんと潤んだ目の万優になるのだ。
この表情がたまらなく愛しい。
「……いきなり何すんの」
「悪いか?」
「悪くないけどびっくりする」
「じゃあ、これからは宣言した方がいいのか?」
「いや……それも……」
万優は困った笑いを浮かべて、言う。
確かに『これからキスする』と言われても困るだろう。第一、空自身そんな雰囲気もないことはしたくない。
万優をからかっているだけのは、言うまでもない。
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