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柚原家の夕食は家庭的でいて豪勢だった。多分、この日は長男が戻っているというのと、空がいるからという理由からだろう。
五人で食卓を囲み、あらかたご馳走になった頃、母親が食器を片付けながらコーヒーを運んできた。
空は後片付けを手伝うとも言い出せず、仕方なくコーヒーに手を付ける。それから、客である自分に気を遣わせないようにしてくれたのだとようやく気付いた。
万優の根底にある人への気遣いは、きっと母親譲りなのだろう。
空がそんなことを思っていると、ねえ、という千愛の声が聞こえた。
「お兄ちゃん。今日お風呂一緒に入っていい?」
デザートのアイスを頬張りながら千愛が言う。空は思わずコーヒーを噴き出しそうになって無意味な咳払いをした。
「あれ? 六年になったら一人で入る約束だろ?」
隣で万優がカップを傾けながら笑う。
「まだ三月だから六年じゃないもーん」
千愛は勝ったとばかりに、スプーンを万優に向け笑った。
そのやり取りが空には、羨ましかった。こんな何気ない会話がしてみたい、というのは、我儘ではないはずだ。最近は、会話といえば電話、会えば言葉よりもなんとかで、ろくな会話をしていない。
空のそんな独り言は玄関から響くチャイムの音で終了した。
「万優ー! 帰ったって聞いたから来ちゃった」
玄関からスリッパの音を響かせて現れたのは、茶のレザージャケットに細いブラックジーンズ、インナーには白のボトルネックセーターを着たおそらく男性……だった。おそらく、と空が思ったのは、栗色の髪を後ろで結わえているが、毛先は肩から胸まで廻り、垂れ下がっているほど髪が長かったせいだ。
長髪がダメとは言わないが、ここまで伸ばしている人を見たのは初めてだった。
「ハルカさん」
万優は立ち上がり、彼の前に歩み出た。
すると、その男は突然万優の体をその腕の中に収めてしまった。
「あ」
「あー! ダメー! 叔父さんのバカー!」
幸か不幸か、空の小さな叫び声は千愛の大声にかき消された。
「いいじゃなーい。万優、いい男になったわね」
……叔父さん?
空は、口を開いたその男性から発せられる女性的な口調に疑問を抱いた。
「ダメー!」
千愛の叫び声に、万優が叔父の腕を解いた。
「ハルカさん、千愛が煩いから」
「んもう。千愛のケチ」
「ケチでいいもん」
ふん、とばかりに明後日の方向を向く千愛に叔父は優しい笑みを浮かべた。こんな風にしていても、彼にとって千愛も可愛い姪っ子なのだろう。
「空、紹介するよ。俺の叔父さんで、舞台俳優の早乙女遥さん」
「こんばんは。東堂ハルカの名前でお芝居もしてるの、よろしくね」
万優の言葉に続けて遥が言葉を入れた。
「彼が俺の友達、大河空くん」
「よろしくお願いします」
空は遥に頭を下げた。遙の目がキラキラと光る。そのままじっと空を見つめた。
「いい男ね。万優と並ぶと絵になるわねぇ……ねぇ、舞台とか興味ない?」
「ハルカさん、いきなりスカウトしないでよ」
笑いながら万優が止める。
空としては、笑い事じゃない。だいたい、舞台ってこの人からどんな舞台を想像すればいいんだ?
「だって、空くんって背高いし、私の相手役にちょうどいいと思わない?」
――思いません。むしろ、思いたくありません。
空が心の中だけで答える。
「まあ、そうだけど」
空の心はさておき、万優はそんな返事を返した。
「ね? そうでしょ?」
遥が空の手を取って立ち上がらせる。空は、仕方なく立ち上がって彼の隣に並ぶと、なるほど二十センチ弱、空の方が高いようだ。
「舞台では、ヒール履くからちょうどね」
「あの……舞台って、どんな?」
堪りかねて、空が聞く。このままでは次回の舞台は空を出す、なんて話にまとまりそうで怖かった。
「普通のお芝居よ。ただ、違うのは私が女役を演るってことしら?」
――その時点で普通じゃないだろ。
空は、そう突っ込みたかったが胸に留めておくことにした。
「遥、空くんはパイロットっていう夢があるのよ。横槍いれないで」
彼の姉である万優の母親がキッチンから出てきて言う。
「万優と同じ学校なのね。パイロットって素敵よね……凛々しくて、カッコよくて」
「そう…ですかね」
いつも家に居なくて、居ても時差ボケで使い物にならなくて、怪我が出来ないからって自転車さえ避けて通るのが、カッコいい?
空は自分の父親を思い出し笑い出しそうになった。
「今度舞台に登場させようかしら……でも、現代劇は難しいし……」
遥は、一人の世界に突然トリップした。後で聞いた話、彼にはよくあることなんだそうだ。一つの劇団の団長で脚本、演出を兼ねている彼は、いいアイデアが浮かぶとすぐに自分の世界に入っていけるらしい。それが、どんな時、どんな場所でも。
そして、柚原家の面々は、慣れた様に彼を居間のソファに座らせた。
「ああしておけば、いつか戻ってくるから」
笑って万優が言う。
才能のある人は、一風変わった人が多いと聞く。多分、遥もそんな一人なのだろう。
空は、そう結論付けて頷いた。
夕食が終わり千愛、万優、空の順で風呂に入った。一番風呂を勧められたが辞退した。先に入ったら千愛と万優が一緒に入ってしまわないか、なんていう懸念があったのだ。
……考えすぎだったが。
空が風呂から万優の部屋へ戻ると、千愛は楽しそうに万優に話しかけていた。
「……でね、先生がすっごく褒めてくれたんだよ」
「へえ、良かったな」
千愛の言葉に、万優は笑って答えた。
「あ、おかえり、空」
「うん、ただいま」
空は自分の荷物の前に座って、使用済みの衣服を鞄に詰め込んだ。その間にも、千愛の
話は続いていた。
「お兄ちゃん、聞いてる?」
「聞いてるよ」
万優は言いながら、ちらりと空を見る。
目が合った空はため息をついて首を傾げた。
「空、母さんが上がったら居間に来てって」
「居間に?」
「うん」
万優は千愛の相手で手が空かない。ここは自分一人で降りていくしかないようだった。
空は立ち上がって、部屋のドアを開けた。
万優が両手を顔の前で合わせて、バツの悪そうな顔をする。
それを見て、数回頷いてから空は居間へと向かった。悪いと思っているのなら、それでいいと思ったのだ。
「お兄ちゃん……千愛、お兄ちゃんにずっと逢いたかった」
「え?」
空がいなくなった部屋に、千愛の甘えた声が響く。それは、明らかに今までとトーンが違っていた。
千愛はその腕を万優の背中に廻し、抱きついた。万優はそんな妹の体を抱きしめてあげる。
「ねぇ、どうして一人で帰ってきてくれなかったの?」
「どうしてって……ダメ?」
「ダメ。だって、お兄ちゃんは千愛のものだもん」
「千愛……でもね、空はお兄ちゃんにとって大事な人なんだ」
「千愛よりも?」
口を尖らせて見上げる妹の目に、万優は優しく笑いかけて言った。
「千愛と同じくらい」
「やだー! 同じじゃヤダ!」
「でも同じなんだよ、仕方ないだろ」
そんな兄の言い分に、納得のいかない千愛は、万優から離れて言った。
「じゃあ、千愛とあの人が海で溺れてたらどっち助ける?」
「もちろん、千愛だよ」
「ホントに?」
嬉しそうに反応する千愛に、万優は笑い出す。
「……だって、空は運動神経いいから、きっと泳げるだろうし。まず、溺れたりしないよ」
その答えに、千愛は顔を真っ赤にした。
「お兄ちゃんのバカ!」
万優を罵るその声は、居間の三人まで響いていた。
「やあね、恥ずかしい」
母親は、空の手のグラスにビールを注ぎながら笑った。
「いえ、元気で可愛くて……僕、妹なんていないんで、羨ましいですよ」
どうやら、自分がここに呼ばれたのは『風呂上りの一杯』を振舞うためだったようだ。
万優のためのグラスも用意されていたが、あの様子だとここに来るのは難しいだろう。
「下の子は、どうしても甘やかしてしまって」
笑いながら父親が言う。男親は娘には弱いと聞く。それもあるのだろうと思ったが口にはしなかった。
空は、父親とグラスを合わせた。他人の家でこんなふうに酒を呑むとは、思ってもみなかった。そういえば万優も他人を構いたがるところがある。きっとこの家で育ったから、当たり前に感じているからなのだろう。
空とは違う、そんなところに強く惹かれるのだと改めて思った。
「小父さんの仕事って、画家と聞きましたが……」
「ええ、デザインの方が多いんですが。商品のパッケージとか、ポスターとかですね」
「へぇ」
「本当はキャンバスに向かって仕事をしたいんですが、最近はパソコン画面に向かってばかりですよ」
父親は笑って話した。
やはり、この時代でデザインといえばパソコンの中での作業になるだろう。
画家と名乗る以上、キャンバスに向かう方が好きなのかもしれない。
「万優は楽しくやっているようですか? ご迷惑、おかけしてないですか?」
「ええ、ご心配なく」
父親は、話を切り替えた。空はそれに、笑顔で答えた。その言葉は、半分嘘かもしれない。実際の生活を話してしまったら、この両親は『ご心配』するに決まっている。
「万優は、あまり私たちに学校の話をしないもので……」
まあ、出来ないだろうな、というのが空の率直な意見だった。フライトは褒められましたが勉強はギリギリ必死で付いていってます、上級生に襲われかけました、今付き合っているのは男です……
絶対言えない。
「毎日忙しいわりに、単純なことを繰り返してますから……話すこともないのかもしれません」
空が一応、フォローを入れておく。
けれど、少しは話をしても良さそうなものだ。この家族で、あの万優の性格だ、もっとたくさん話をしているものだと思っていた。あの万優が何も話さないなんて、何かあるんだろうか……
そこで、ふと、空が昼間のことを思い出した。
『ただいま、要さん』
確か、万優は父親のことをそう呼んだ。なぜ、母親は『母さん』で、父親は『要さん』なのか……空が感じた違和感はそこだったのだと今分かった。
「そうなんですか。私たちには、身近なようで遠い存在ですからね、パイロットなんて職業は」
「そうでもないですよ。それに、万優くんは教官に期待されてるんですよ」
「万優が?」
母親は嬉しそうに笑った。驚きも半分混ざっているようだ。
「ええ。フライトの成績がすごく良くて……多分血筋なんですね。芸術家みたいな感覚を持ってるのかもしれません」
空が言うと、二人はお互いの顔を見合わせた。
空は、何か拙いことを言ったかと、二人を交互に見た。その様子に、咳払いを一つして父親が答えた。
「万優は、私の子ではないんです……いや、私の子です、私の子なんですが……血は繋がっていないんです」
その答えに、空が言葉を失う。
「気になさらないでね。あの子の父親はあの子が六歳の時に亡くなってるんです」
「……すみません、僕……」
「あ、いいのよ。もう十八年も前のことですもの。それに、今はこうして幸せに暮らしてるんだから。きっと、あの人もそれを願っていたはずですし」
空への言葉だったが、母親は時々父親の顔を見つめて話した。
埋めきれない、心の空虚。
それが互いの心にまだ残っているのだろう。
「……そうですね。そうに違いないと思います、僕も」
「……ありがとう」
空の言葉に母親が優しく頷いた。
実の父親ではない。それが、この人を『要さん』と呼ぶ理由。まだ父親と認めていないということだろう。
空は、万優の心の海溝を垣間見た気がした。
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