第2章 ~8月の死者たち~ 第2話

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第2章 ~8月の死者たち~ 第2話

 ペンションの中にある小さな浴場は、笹山之浩の手により磨き抜かれていた。  由真は、多賀准一が「笹山くんは、言われたことはきちんとするんですけどね。どうも、気が利かないところや、空気が読めなかったりもするんで、もっぱら裏方を任せているんですよ」と言っていたことを思い出す。  つやつやと黒光りしている浴槽の中で、真理恵の白い裸体が浮かび上がっていた。由真は真理恵と一緒にお風呂に入ったことは何度もあった。だが、2人ともが完全に大人の肉体となってからは初めてのことであった。  由真が卓蔵と真理恵の住む家に引き取られたのは、5才の時だった。当時13才だった真理恵と一緒にお風呂に入り始めてから、由真はシャンプーは子供も使っていいものだと知った。由真がまだ「佐伯」という名字であった頃、シャンプーを使おうとすると「もったいない、これは大人が使うもんだ」と産みの母に頭を叩かれた。だから、由真はちびた固形石鹸で髪も体も洗うしかなかった。なかなか泡が立たず、そのくせ髪には流しきれなかった石鹸の白い粉が残った。  そして、お湯を沸かすボイラーの存在も知った。母が家にいるうちは温かいお湯がシャワーから流れるが、自分が1人で留守番している時は冷たい水しか流れないことを不思議に思っていた。  真理恵に心を開き始めていた由真が湯船の中でそのことを話した時、真理恵は目を潤ませ、横を向いた。その真理恵の頬に一筋の涙がつたって、湯船の中へと落ちていった。その時の由真は「なんで、お姉さんが泣くんだろう」と思った。  由真は常日頃から「あんたさえいなきゃ、生活はもっと楽になるのに、好きなことができるのに、あんたさえいなきゃ」という母からの呪文を聞かされていた。母の友人と称す何人もの男が散らかったアパートにやってきた。やせ細って薄汚れた服を着た由真を見て舌打ちし無関心を装った男もいれば、おにぎりやお弁当を買ってきて「お母さんに見つからないうちに食べちゃいな」と言った男もいた。そして「おじちゃんとお風呂に入ろうか」と言った男までいた。由真はその男の手を引っ掻き、寒空の下に飛び出ていったことを今でも覚えている。  八窪家で人間らしい生活を送りながら成長していくうちに、由真は自分が「育児放棄」されていたと理解した。中学校の調理部に所属していた真理恵と一緒にパンを焼き、黴の生えていない出来立てのパンがこんなに美味しいものだと知った。ぺったりとした汗の匂いのする布団じゃなくて、良い香りのするフカフカの布団でまるでお姫様のように眠ることが自分にも許されるんだと思った。何より、真理恵も卓蔵もきちんと自分の話を聞こうとしてくれた。母のようにプイと横を向き、自分を拒絶することはなかった。  由真は思う。 ――人生の邪魔者であった私をお父さんに押し付け、どこかへ行方をくらませたあの人が今、どこで何をしているのかは知らないし、知りたくもない。野たれ死んでいたって「ああ、そうですか」としか思わない。私のあの幼少期は親になってはいけない人が親になってしまった典型的な実例よ。愛せないなら、なぜ産もうと思ったの……  由真は思わず、湯船の中で手をギュウッと握り込んでいた。そんな由真の様子に気づいた真理恵が心配そうに由真の顔を覗き込んだ。  顔をあげた由真は真理恵に問う。 「姉さん、義兄さんからまだ連絡は来ているの?」 「……メールも電話も毎日あるわ」  2人の離婚が成立してから、まだ1か月程度だ。大恋愛で結ばれた夫婦であった2人。例え、離婚の原因が夫側の不貞であったとしても、「愛しているんだ、気の迷いだったんだ、やり直したい、なんだってするから、俺にはお前しかいないんだ」と、元夫は元妻に対して必死で懇願しているのだろう。  由真の元義兄となる吹石隆平の愛人によるイタズラ電話や怪文書により、真理恵の精神は限界まですり減っていた。彼ら夫婦が暮らしていた横浜のマンションに遊びに行った由真の目にも、はっきりと分かるほど真理恵はやつれ果てていた。心労により真理恵が倒れたことを知った卓蔵もすぐさま横浜へと飛んだ。そして、離婚は成立。卓蔵は去り際に「二度とうちの娘の前に現れるな」と隆平に吐き捨てた。  真理恵が実家に戻って1か月程度であるが、ゆっくりと睡眠をとり、気晴らしに散歩をしたりして、外見は以前の彼女へと戻りつつあった。けれども、透きとおるように儚げな真理恵の横顔を見る由真の心は締め付けられるように痛んだ。 ――私に愛を与えてくれた人も、生活の基本を教えてくれた人も、全部姉さんだ。 姉さんが私にとってのお母さんよ。世界で一番、幸せになって欲しい人なのに……  真理恵の元夫・吹石隆平。28才の会社員。マリンスポーツが趣味のアウトドア派で、日焼けした肌に高い鼻梁、筋肉のついた男らしい体つきが、精悍な印象を与える男。女に不自由することもなく、何もしなくても女が寄ってくるような性的魅力を放ってもいた。  由真自身は隆平のことは個人的に好きでも嫌いでもなく、真理恵が選んだ男性というただそれだけであった。だが、今、隆平が毎日、真理恵にメールや電話をしているということを知り、恐ろしい想像をしてしまった。  テレビやネットで流れる男女の愛憎がらみの数々の事件。隆平はアクティブであるが、それに比例してアドレナリンの分泌が多い、いわゆる頭に血がのぼったら何をするか分からない男であるかのようにも見えていた。  実力行使に出て、元妻を取り戻そうとする元夫。 ――もし、義兄さんがこのペンションにまでやって来て、可愛さあまって憎さ百倍で姉さんに危害を加えるようなことになったら……  由真はまだ起こってもいないことを想像し、浴槽の中で華奢な背筋を震わせた。  風呂を出てペンションの受付を通り過ぎた由真には、さっきまだ感じた恐怖が背筋に生々しく残っていた。それは隆平に対してだけのものではなかった。正体の分からない恐怖。これから何かが起こる。でも、その何かが何であるのかは分からない。嵐の前の静けさ。そう形容してもできるものであった。 ――なんだろう、この心のざわつきと気持ち悪さは……あの義兄さんがここまでやってくるなんて、考えすぎよ。そういや、悪いことを考えると悪いことが起きるって、何かの法則であった気がする……  部屋にいる姉さんのために飲物と小さなデザートでもあれば、と由真は食堂へと進む。食堂のある階下は静まりかえっていたが、2階からはあの学生グループの笑い声が聞こえてきた。今、このペンションに宿泊している客は6名であり、明日には2名の客が新たに泊まりに来ることを季実子より聞いていた。これからのお盆前やお盆中には、今の2倍ほどの宿泊予約が埋まっているらしかった。  暗闇の中で唯一光を放っている厨房へと足を踏み入れようとした時、聞こえてきた多賀准一と深田季実子の声に由真は足を止めた。 「ねえ、准さん。真理恵お嬢様、お気の毒にね。あんなに盛大な式を挙げたのに」 「結婚なんてもんは、蓋をあけてみないと、分からんさ。相手の思わぬ顔が見えたりするからな。社長も怒り狂って、別れさせるぐらいだからな、よっぽどだったんだろうな」 「でも、社長もねえ……親の因果が子に報いって、本当にあるのねえ」 「まあ、そうだよな。本当に……」  能面のような表情で突っ立っていた由真に気づいた彼らは、ギョッとした。  季実子が「あら、やだ」と慌てて自分の口を両手で押さえた。まさしく、親の因果の果ての存在そのものとも言える由真が彼らの目の前にいるのだ。  由真は何も聞かなかったふりを装い、彼らに言う。 「何かお酒ではない冷たい飲み物を2つ、いただけませんか。代金はきちんと払いますので」  准一が慌てて、冷凍庫を開ける。 「え、えーと、ミネラルウォーターと烏龍茶と、グレープフルーツジュースと……」 「グレープフルーツジュースをお願いしします」  由真は准一の言葉が終わらないうちに、小銭を出し、カウンターに置いた。キンキンに冷え切ったジュースを受け取った由真は、手の中にある冷たさに顔を少しだけしかめながら、彼らに問う。 「明日は7時に起きたらいいですか? ペンションの手伝いをするのは初めてなもので……」  季実子が慌てて言う。 「い、いいえ、いいえ、お嬢様。ゆっくりなさってください。朝の仕込みは先ほど終えましたし、私たち2人で朝はなんとか、回していけますから」  由真は2人に頭を下げ、真理恵の待つ部屋へと戻っていく。由真の後ろ姿を見ている准一と季実子は、全く同じことを考えていた。 ――今のは確実に聞かれていた。社長に言いつけられたらどうしよう。言いつけられたら、さっきのあの話は八窪家で煙草の焦げ跡のように広がっていってしまうだろう。そもそも社長の娘が手伝いにくるってのは、気も遣うし、仕事がやりづらい。減給となるか。はたまた首が飛ぶか。この年で無職になるのは、結構厳しい。それにそうなると、この人(准一とっては季実子であり、季実子とっては准一であったが)と一緒にいられる時間が少なくなってしまう……  准一と季実子は顔を見合わせた。そして、肉を焼いた残り香が漂う厨房内にて互いを強く抱きしめ、深く口づけあった。    8月4日。運命の日の午前10時過ぎ。  一組の夫婦が「ぺんしょん えくぼ」へと車を走らせていた。  煙草とミントガムの匂いがほのかに残っている車内では、ラテン音楽が流れている。それに合わせて、夫も妻もノリノリで体を揺らしていた。  久々の旅行だから浮かれているわけではない。これがいつもの彼らだ。  新田野道行と新田野唯。ともに38才。幼稚園からの幼馴染であり、2人とも大学在学中に結婚、今年結婚19年目を迎える。  道行も唯もお互いをツインソウルだと思えるくらい、好物も趣味も考え方もピッタリと一致していた。何より幼き頃より一緒にいると楽しく、心よりくつろぐことができた。  2人はそれぞれ違う会社に勤務しているも、同じグラフィックデザイナーであった。不規則な仕事ではあったが、やっと2人の休日が一致したので、自宅を離れて羽を伸ばすことにした。海外旅行も考えたが、飛行機での移動時間を取られ、体力を消費するよりも、近場の国内にて宿泊期間を伸ばしてゆったりしようと、彼らの考え方はここでも一致した。結婚20年目のスペシャルな旅行は、来年にしようということも。  彼らの間には子供はいない。いや、お互い必要としていなかった。若くして結婚したということもあったが、子供がいたらかかるであろうお金を自分たちの生活や趣味を充実させることに使おうと考えていた。避妊に失敗したことは一度もないが、仮に子供ができたとしても、どんな性質を持った子供が生まれるか分からないという懸念もあった。世の中にはおどろおどろしいニュースが溢れている。例え、自分たちが愛情と教育を惜しみなく与えたとしても、子供はどのような大人になるかは予測できない。大抵は親の方が先に死ぬわけだし、子供の誕生からその死まで一生目を光らせておくことなんてできない。気苦労や心配の種などは、最初から持ちたくはなかった。  願わくは自分の魂の片割れのようなこの連れ合いと同じ日に手を取り合って、天国へ行けたらいいな、と彼らはともに願っていた。それはまだ、何十年と先のことであるとは思うけれども。  上機嫌で口ずさみ体を揺らす彼らの車を、黒光りするスポーツカーがブイーンと音を立て、強引に追い越していた。あっけにとられた彼らの眼前で、スポーツカーがみるみるうちに小さくなっていく。 「……ったく、追い越し禁止の標識見えないのか? それにどんだけスピード出してんだよ。こんな山道で怖くないのか?」  運転席の道行が舌打ちした。 ――俺たちは別にノロノロ運転してたわけじゃないってのに。制限速度を守って、適正なスピードで車を走らせてんだ。  助手席の唯が不安そうにカーナビに確認する。 「この先の道って、「ぺんしょん えくぼ」に着くか、県境を越えるだけよね。同じペンションの宿泊客だったら、何だか嫌よねえ」 「……ヤバい奴だったりしたらどうする?」  道行はにやつきながら、唯の反応をうかがう。 「もう、そんなわけないじゃん。ヤバい奴がこんな健康的なペンションに泊まろうと思わないよ」  唯が鞄より「ぺんしょん えくぼ」のホームページを事前にプリントアウトした紙を取り出し、スカートの膝に乗せた。  唯の膝の上にチラリと目をやった道行が呟く。 「なんか、今日の唯のファッションって清楚だよな」 「今頃気づいたの? いつもと違う感じに決めてみたのよ。いつ褒めてくれるのかって、朝からずっと待っていたのに……」  普段はパンツルックや原色を使ったファッション、髪はハーフアップが定番であった唯が頬を膨らませた。 「俺は朝からずっと気づいてたよ、言わなかっただけだ」と道行はその唯の顔を見て、ハハハと笑った。  彼らの頭からは先ほどの不審なスポーツカーのことなどはとっくに消え失せていた。車内には再び陽気なラテン音楽の調べが満ちていった。 ――俺の前を走っていた車を乱暴に追い越した。鳴らされるかと思っていたクラクションは鳴らされなかった。それよりも、一刻も早くあのペンションにあいつがいるか確かめなければ……今しかない。今を逃すと二度とあいつに会うことができないかもしれない……真理恵。  真理恵の元夫・吹石隆平はさらにアクセルを強く踏み込んだ。  有給をもらう時、上司には苦い顔をされたが、「まあ、君も最近はいろいろとあったからね」とポンと肩を叩かれた。必要最低限の荷物だけをさっとまとめ、横浜からY市まで車を走らせた。そして、隆平は元義父である八窪卓蔵のいない平日の午前中を狙って、真理恵の実家のチャイムを押した。けれども、真理恵も大学生で帰省しているはずの妹もいなかった。隆平が途方にくれかけた時、見覚えのあるコロコロとした体形の中年女性が歩いてきていることに気づく。  早くに母を亡くした真理恵の幼い頃より家政婦として八窪家に勤めている女性だった。彼女は八窪家前で立っている隆平の顔をしげしげと眺めた後、彼が誰であったのかを思い出し、ハッとして口を押えた。後ずさりしようとした彼女に隆平は強引に近づいていった。  中で真理恵を待たせてもらえないか、という隆平の非常識な頼みに、八窪家の信頼の厚い家政婦はもちろん首を横に振った。 「真理恵お嬢様は、本日はこの家にはお帰りにはなりません。私は庭の花の水やりと家のお掃除にこちらに来ただけでございます。お引き取りくださいませ」  頬を震わせながら答えた家政婦は、隆平の目の前でパタンと玄関の扉をしめた。  隆平は考えた。彼女の ”真理恵お嬢様は、本日はこの家にはお帰りにはなりません”という言葉。  もしかしたら――と思った隆平は、今、ペンションまでの道のりを一心に車を走らせている。 ――義父はまだ会社にいるだろうから、ペンションに出向いている可能性は低い。もし、ペンションに真理恵がいたとしたら……強引に思われたってかまやしない。連れて帰ろう。あいつはきっと俺の今の気持ちを分かってくれるはずだ。俺を受け入れてくれるはずだ。   吹石隆平の車の反対車線には、駒川汐里・鈴木梨緒・滝正志・桜井朋貴の乗った車が走っていた。  両者がすれ違う。後部座席にいた鈴木梨緒は、さっきすれ違ったスポーツカーに乗っていた男の血走った眼に若干の薄気味悪さを覚えた。  そして、彼女は運転席にいる駒川汐里にちらりと目をやる。汐里の視線が車の進行方向にのみ、向いていることを確認した梨緒は正志の膝にそっと手を置いた。 ――大丈夫。ここは汐里からは見えない。  梨緒のその動きに、正志は「やめろよ」と目で合図をしたが、実際には嫌がってなどはいないことを彼女はきちんと分かっていた。  彼女たちは、やや退屈を覚えてきたペンションを出て、山を下り、町へと遊びに行く途中であった。梨緒は車に酔いやすいと言って、後部座席を希望した。正志は「俺も」と言って、梨緒の隣に座った。朋貴は「ごめん、駒川さん。行きの車も運転してもらったのに。俺、免許持ってないんだ」と助手席へと乗り込んだ。 ――ねえ、汐里。私たちのこと気づいてる? 気づいていて知らないふりをしているの? なんで黙っているの。都合のいい女。そんなことだから、舐められるのよ。  梨緒は正志の顔を見て、ニンマリと笑った。正志も同様の笑みを返す。共犯者同時の秘密の笑み。 ――やっぱり、正志は茶髪の方が似合うと思うんだよね……  正志の黒い前髪にそっと手を触れる梨緒。  大学の4回生である彼女たちは現在全員、就職が決まってはいるものの、就職活動の名残であるかのように黒髪であった。茶髪の良く似合う今風のイケメンと大学内で人気があった正志は黒髪となると、その外見の魅力がやや半減してしまったように梨緒には思えた。 ――ダサくて重たい黒髪なんて、汐里だけで十分よ。私や正志みたいな顔面偏差値の高い人の近くにいるから、汐里も一応大学でイケてるグループに入ってる気になってると思うし……自分に魅力がないから、私たちのおこぼれにあずかろうとしてるんでしょ。まあ、あんたの場合は今さら大学で1人になるのが怖いだけかもしれないけど……  思わずクッと笑いを漏らしてしまった梨緒を正志は「おいおい」といった風に見た。助手席にいる朋貴がいきなり、首をガクンとさせた。思わずビクリとした梨緒と正志であったが、朋貴は眠けを覚ますために首をブルブルと横に振っただけであった。 ――汐里、あんたのハメ撮り写真、前に正志に見せてもらったのよ。あんた、正志が初めての人なんでしょ。正志に全てを捧げて、このまま結婚なんて甘い夢を見てるんでしょ。でも、残念、正志は私とも寝てますから。本妻が地味でつまらない女なら、愛人は華やかで大胆な女ってのが定番パターンよ。あんたは隣の運転免許も持ってない犬馬鹿男と冴えない地味同士仲良くしてみたら?  梨緒は心の奥底に沈殿している自分の汐里に対する嫉妬には気づかないふりをしていた。  世界に羽ばたくモデルが密かな夢であった梨緒の身長は165㎝で止まってしまった。だが、汐里の身長は172㎝あり、太りにくい体質で腰の位置も割と高いところにあった。大学でも、一番前の席で頷きながら講義を聞く汐里はすぐに教授のお気に入りとなった。顔立ちに対しては梨緒の方が幾分か派手ではあるも、男子学生が汐里のことを「デカいけど可愛いよな」と言っているのも聞いたことがある。それを聞いた梨緒は、「どこがいいのよ、あんな地味顔。幸薄そうにも程があるじゃん」と毒づいた。さらに就職先も梨緒は汐里に差を付けられていた。福利厚生が充実していると評判の電子機器を扱う会社に、汐里は総合職で就職が決まっている。一方、梨緒の就職先は、その系列の子会社の一般職であった。 ――あんたは、いろいろと私の欲しいもの持ってんだから、正志くらいは私がもらってもいいわよね。  梨緒は正志の手をもう一度、強く握った。絶対に離すもんか、と。      もうすぐ太陽が一番高く昇る頃だろう。由真は昨日と同じく玄関の掃き掃除に精を出していた。額より流れる汗をぬぐった時、車のエンジン音が近づいてくることに気づく。  その音の主である白い乗用車はなめらかな動きで、ペンションの猫の額ほどの駐車場へと入ってきた。そして、由真の車の隣へと停車した。  白い乗用車から下りてきたのは白鳥学であった。ラフだが色合いのいいポロシャツとチノパンの学は、トランクよりキャリーバックを下ろそうとしている。  それを見ていた由真と学の目が合い、互いに軽く頭を下げた。  由真は白鳥学が父・卓蔵のお気に入りの社員であったことを思い出した。由真がまだ高校生だった時分も、彼を含む数人の社員をよく家に連れてきて酒を飲むことがあった。 ――どういうこと? まさか……  突然の(しかも大きなキャリーバックを転がしている)学の登場に、由真は父・卓蔵の策略を感じ取らずにはいられなかった。  ペンションの中にいた准一にも学の来訪が分かったのか、いそいそと玄関より出てきた。玄関扉のチリンチリンと鳴る鈴の音がやけに響く。 「社長よりご連絡いただいております。白鳥さん、どうぞ、こちらへ」  准一がやけにうやうやしく、学のキャリーバックを受け取ろうとし、学もごく自然にそれを手渡した。 「有給をとったので、僕は今回は客としてここに泊まりますけど、一従業員として仕事内容を知っておきたいので、いろいろと教えてください」  准一も「はい、それはもう」と学に頭を下げた。  冷房のきいたペンションの食堂へと戻った由真は、歯痒げに2階を見上げた。  今、真理恵は上の客間でリネン類の交換を行っていた。それも白鳥学と一緒に。  真理恵も由真と一緒に食堂での仕事をすると申し出たが、准一と季実子に「本日はこちらで昼食を食べるお客様は少ないので……」とリネン類の交換を頼んだ。そして「僕もそちらを手伝います」と学が言った。  由真はわずかに怒りのこもった息を吐き出した。 ――父さん、まさか白鳥さんを姉さんの夫にと考えているの?! 離婚からまだ1か月もたってないじゃない。姉さんの傷だって全く癒えていないわよ! 父さんは義兄さんみたいなタイプじゃなくて、自分のお気に入りの白鳥さんを姉さんの2番目の夫にしたいのかもしれないけど……これから先の姉さんの人生で白鳥さんに気持ちが動くことがあったとしても……せめて、この夏だけは姉さんをそっとして置いてほしいわ……  厨房からの季実子の「お願いします」という声に由真は我に返った。和風のさっぱりとした味付けのオムライスとスープ、そして青々としたサラダをトレイを乗せた由真は、窓際の50代と思われる婦人のところに足を進めていく。  婦人から2つほど離れたテーブルでは、30代もしくは40代に見える、少し首口がよれたTシャツと履き古したジーンズ姿の男性がずっと携帯をいじっていた。  現在、下の食堂にいる客は、根室ルイと肥後史彰の2人だけであった。あの騒々しい大学生たち(といっても4人のうち2人だけではあったが)は、町でランチを食べるといって、車で出かけているのだ。  根室ルイは食事を運んできた由真に「ありがとう」と軽く会釈した。  ルイを見た由真は思う。 ――年の割にといったら、失礼だけど、随分とお洒落で色っぽい女性だわ。グラスを持つ手つきまでに綺麗だし。もしかしたら、若かりし頃はまるで銀幕の女優のように美しかった人なのかもしれない。これくらいの年で初対面の人間にこう思わせるなんて、すごい女性よね……  由真自身、ルイくらいの年齢の女性を見て、こういった気持ちをいただいたのは初めてであった。  次に由真はゴロゴロとした大きなお肉がたっぷり入ったカレーライスを肥後史彰のところに運ぶ。  史彰は携帯よりちらっと顔を上げ、会釈のように由真に向かって頭を動かした。史彰の持つ携帯が表示している求人サイトが由真にも見えた。  史彰は右手でスプーンを持ち、左手で携帯をいじりながら、カレーライスをかきこみ始めた。そして、時々スプーンを置き、氷の入った水を胃に流し込む。  これからの厳しい就職活動前の充電として、ここに来た史彰であったが、のどかな夏の自然を感じている時でさえ、自分に「失業中」というラベルが貼られている気がしていた。そのラベルを見ようとしまいことも、ラベルを受け入れて開き直ることも、やはり彼にはできなかった。    その時、玄関のドアが突如、けたたましい音を立てて開いた。  由真はパッと振り返った。  フロントに立っていた笹山之浩が「本日起こし予定の新田野様でしょうか?」とその来訪者に陽気な声をかけた。  来訪者は黙って首を横に振り、周りを見渡した。由真と来訪者の視線が交わった。 「……義兄さん」  由真が昨日の夜に感じた不安は、今ここで現実のものになろうとしていた。こけた頬と血走った目の吹石隆平が、真理恵を探してこのペンションにまでやって来たのだ。  そして――あろうことか最悪のタイミングで2階の客間の一室より、手にリネン類を抱えた真理恵と学が顔を出した。
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