第2章 ~8月の死者たち~ 第8話

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第2章 ~8月の死者たち~ 第8話

 煌々とした月の光に照らされ『殺戮者』は、今にも由真たちのいる車に向かって襲い掛からんと身構えていた。 ――もう、駄目……  由真と真理恵は車の中で、ただ身を寄せ合い抱き合うしかなかった。涙にも匂いがあった。真理恵の流す涙の匂いが由真の鼻孔に届けられ、由真の流す涙の匂いも真理恵の鼻孔へと届けられた。死を――それもあの化け物に嬲り殺しにされるという惨たらしい最悪の死を、由真たちは覚悟せずにいられなかった。  『殺戮者』は、自身の存在が獲物に対して与えている恐怖ならびに絶望に満足したのか、ニタニタと笑いながらわざとゆっくりと足を交互に上げて、この車に向かって向かってき始めた。    一歩、二歩、三歩……  車と『殺戮者』の距離は徐々に縮まっていく。由真たちの年齢からいうと、まだ何十年も先にあるはずの「死」が、今、ゆっくりと近づいてきていた。  醜悪な『殺戮者』が足を進めるたびに、萎びて垂れ下がった生臭い色をした両の乳首と、その股間にあり青い皮膚の上で漆黒の存在感を示している陰毛が、夏の生温かい風に吹かれ、かすかに揺れた。  由真からは前の運転席にいる白鳥学の後ろ姿が見えていた。学のハンドルにかかっている左手も震えているのが分かった。そして、彼のおそらく恐怖による苦し気な息遣いも後部座席まで聞こえている。  だが、殺戮者がさらに一歩を踏み出した時、彼の手の震えと息遣いはピタッと止まった。 「ちくしょう……」  学が低く呻いた。そして、彼はハンドルをガッと握り、アクセルをグンと踏み込んだのだ。  車は動いた。車はまだ動くことができたのだ。  パンクさせたはずの車の発進という思いもよらぬ事態に、車のヘッドライトに黄色く照らされていた『殺戮者』のギョロギョロとした目と裂けた口が、最大級に見開かれ――  夏の夜を切り裂く悲鳴と鈍い衝撃音とともに、『殺戮者』の体は宙へと飛んだ。  身を伏せていた後部座席の由真にも、『殺戮者』が地面に落下する衝撃音が聞こえた。由真は走る車より、後ろをバッと振り返った。盛大に車にはねられ地面に落下したとしたら、普通の人間なら動くことなどできないというか、ほぼ即死の可能性が高いだろう。けれども、青い皮膚の上に生々しく自身の赤い血を流している『殺戮者』が、むっくりと起き上るのを由真はバックライトの中で確かに確認した。  運転席にて、ヒビが入るかのような強い力でハンドルをグッと握りしめ続けている学は、血走った目でアクセルを踏み続けていた。彼は呪文のように小声で「頼む、持ってくれ、頼む」とブツブツと呟いていた。  車が動き、走っている。  「死」という深淵に落とされそうになった自分たちにほんの少しだけ、救いの光が差し込んできた。だが、車の4つあるタイヤのうちの1つが明らかにおかしな音を立てている。 ――このままのスピードで車を走らせていたら、止まるのは時間の問題だわ……なんで私はランフラットタイヤにしなかったんだろう。ごめんなさい。白鳥さん、姉さん……お願い、どうか1分1秒でも長く持って――!  それは由真だけでなく、真理恵も学も、この車の中にいる者、全員の全身全霊をかけての願いであった。あいつから、逃げきれるか、逃げきれないか――すなわち「生」か「死」か、どちらに運命の天秤は傾くのか――  必死の形相でハンドルを握る学と、後部座席で互いの手を握り合い祈る由真と真理恵。  けれども、異音とともに、車は止まった。  学が舌打ちをして、アクセルを踏み込んでも、ただ車内へとブルルと抜けたような振動が伝わるだけであった。  運命の天秤は、決して傾いて欲しくない方に傾いてしまったのだ。 ――もう、下りて逃げるしかないわ!  由真はまたしても後ろにバッと振り返った。先ほど盛大に跳ね飛ばされた『殺戮者』の姿は見えない。それに学が車を走らせたことで『殺戮者』との距離はかなり開いているはずであった。『殺戮者』がどれくらいのスピードで走るのかも分からないけど、もう逃げるしかない。 「逃げるぞ!」  学の声に弾かれ、由真と真理恵は互いに手を取り合い、彼とともに車を飛び出す。  昼間にたっぷりと吸い込んでいた太陽の熱はとうに覚め、今は冷たく固くなったアスファルトの道路に、3人が必死に駆ける音が重なりあう。暗闇で自分たちが立てている足音の中に、あの『殺戮者』の足音が混じり合っていないか、そう、すぐ後ろを振り返ったら、あの絶望しか感じない醜い顔の中にある瞳が自分たちを射抜くんではないか、由真は苦しさに喘ぎながらも追いかけてくる恐怖に全身を震わせていた。  苦しい。でも、息を整えるために、立ち止まることなどできやしなかった。立ち止まってしまったら―― 「いけるか!?」  わずかばかり彼女たちの前を走っていた学が振り返った。  車から下りた後、学1人で逃げていたとしたら、今頃、彼は由真たちの遥か向こうを走っていたはずだった。男の足(それも人並み以上の体力と運動神経を持つ学の場合)と女の足が駆ける速さには大きな開きがあるはずである。  白鳥学は人よりプライドや野心の高い男であった。だが、正義感や責任感も人並み以上に持ち合わせていたため、由真や真理恵を置いて逃げることは一瞬だけ心の中をよぎったものの、彼女たちを連れて共に逃げることを選んだのだ。 「ええ……」  真理恵が喘ぎながら、学に答えた。どんなに苦しくても走って逃げ続けなければいけない彼女たちに、さらに大きくなってくるサイレンの音が聞こえていた。 ――もう、少しよ。あと少しで……  由真たちのわずか1キロ以上先の地帯には、『殺戮者』に襲撃され、ガードレール下に転落した新田野夫妻のいまだ炎にくすぶっていてる車があった。通報を受けた救急車はあと数分でそこにたどりつくことになるのだが……  希望。  そこへと向かって、全員が脈打つ胸と痛みで痺れる脚を動かし続けていたその時、由真はシュッと風を切るような音を聞いた。 「ぐあっ!!」  学がガクンとつんめのるように、前へと倒れた。倒れた学の右太ももに、ささくれだった木の枝が突き刺さっていた。  顔をしかめ、傷口を抑えた学の手の間からあふれ出ている血が道路にボタボタと滴り落ちた。  由真も真理恵も悲鳴をあげた。『殺戮者』だ。『殺戮者』が投げた木の枝は、まるで弓矢のように学の足を貫いたのだ。  即座に後ろを振り返った由真には、夜の闇に紛れている『殺戮者』の姿は見えなかった。だが、いつあの闇の中から2本目の”弓矢”が、身を貫くやも―― 「白鳥さん!」  真理恵の声と同時に、由真も白鳥を両側から支えるために、彼の左側へと素早く回った。 ――あと少しよ。あと少しで全員が助かる。だから、お願い……  由真と真理恵で学を支えて立ち上がった。170㎝後半の身長の学と、160㎝前半の真理恵ならともかく、150㎝前半の由真は自分が彼の体を支える役割をほぼ果たせてはいなかったが。  彼女たちが足を踏み出した時、またしても風を切る音が聞こえた。 「きゃああ!」  真理恵の悲鳴。今度は学ではなく、真理恵の左肩に木の枝が突き刺さっていた。痛みに顔をゆがめ、肩を押さえた真理恵の白く細い指もみるみるうちに血で濡れていく…… 「姉さん!」  バランスを突如崩した3人は地面に倒れ込んだ。痛みに顔をしかめ、荒い息をしていた学が「これを……」と由真に手を差し出した。彼の手の中にあったのは、まだあたたかい血にまみれた彼の携帯だった。  早く行け、1人でも早く逃げて、助けを呼んでくるんだ、と彼の目は由真に伝えていた。  由真がそれを受け取ったとき、またしても風を切る音が聞こえた。それは由真の眼前で発されたものだった。  突如、学の表情は硬直し、ぐうう、と苦し気な呻き声が喉の少し上より発せられた。  そう、『殺戮者』は投げた最後の木の枝は、白鳥学の首を左から右へと貫通させることに成功したのだ。  彼のその首の左右から血がどくっと飛び出し、彼のその口からも血は吐き出された。学は血に染まった右手を少しばかり宙に泳がせた後、仰向けに地面へと倒れ、ビクビクと痙攣し始めた。喉仏が苦し気に動いていた。 ――ちくしょう……  白鳥学の最期の言葉は外へは出ず、ただ空気の洩れるようなかすれた音が口から発せられただけであった。学の視界の中では、自分を見て泣き叫ぶ2人の姉妹――その彼女たちの背後の夜空に輝く、鮮烈な美しさを放つ満月が二重三重に重なりあい、そしてぼやけていった。それが白鳥学が心残りと未練がたっぷりと残るこの世で最後に見た光景であった。  彼は死んだ。そう、彼も死んだのだ。   「ぺんしょん えくぼ」へと向け、車を運転している仲吉浩太は、後部座席の八窪卓蔵の顔をバッグミラーでチラリと確認した。浩太が営業として勤める会社の代表取締役社長である八窪卓蔵はいつもどおり、四角い輪郭のその気難しい顔のまま、腕を組んでいた。いや、いつもよりずっと険しい顔をしていた。彼は今、特に機嫌が悪いのだ。 ――俺、社長に初めて会った時、絶対にその筋の人だと思ったもんな……でも、この気難しくて強面の顔があの2人の娘の前では、目じりが下がりまくり、メロメロになるなんて笑えるよな。こんないかにも強欲そうで脂ぎった男からあんな綺麗な娘たちが生まれるなんて、俺の人生で出会った七不思議の1つだよ。愛娘の1人が結婚に失敗した。だから、その後釜に”あいつ”を添える気で有給を取らせて、ペンションに向かわせているんだろうな。  浩太の脳裏には、同期入社した白鳥学の顔がちらつく。 ――女でも男でも見てくれがいいのはやっぱり得だよな。そりゃあ、子供の顔にだって、影響するもんな。俺はあいつとほぼ同じ偏差値の大学を出ている。中学・高校と生徒会にだって入っていたし、剣道で全国大会に行ったことだってある。あいつと身長もそう変わりないし、今も定期的にスポーツクラブで体だって鍛えているから、肉体美には自信がある。それに、会社での営業成績だって、あいつとほぼ同じぐらいだ。俺があいつに”完全に”負けているのは、顔だけだ……  この世に生まれた時に生じた格差には、努力しても決して越えられないというやりきれない悔しさ。たかが皮一枚。されど皮一枚。浩太はそれを今、痛いくらい実感していた。  浩太は自分こそが、若手男性社員の中で一番、八窪卓蔵に目をかけられていると思っていた。  浩太のハンドルを握る手に力が入れられた。彼は自分が物心ついた頃より、近所の悪ガキたちに「ひょっとこ」とあだ名されていたことを思い出した。最近だって、道ですれ違った女子高生たちが自分を見て「面白い顔~www」とクスクスしていた。対する白鳥学は、入社当時から女子社員からの人気が高かった。女子社員たちが自分などには決して向けない種類の目を、学は向けられていたのだ。 ――あの小生意気なあばずれっぽい女子高生たちだって、白鳥にはキャピキャピしながら寄っていくだろう。あいつは玉木宏にもちょっと似ているからさ。でも、もしあいつが自分の思惑通り、上のお嬢さんとの結婚に成功した時には、ちょっと脅してやるとするか。「お前、今年の4月ごろに駅前の”セーフエリア”ってラブホに、前に経理にいた平川さんと入って行ったろ。俺、偶然、見ちまったんだよ。社長の愛娘と結婚する前に、女関係は綺麗に片づけといたほうがいいぞ」ってさ……いや、やめておこう。もしかしたら、将来俺があいつの下で働くことになる可能性だってあるからな。つくづく、ちっちゃい男だな、俺って。俺が勝手にライバル視しているだけで、あいつは俺のことなんて何とも思ってないだろうな。  浩太の口から、乾いた笑いがクッと漏れた。  運転席の仲吉浩太のまるで抑えたような笑いが聞こえた八窪卓蔵は、彼に「何がおかしいんだ?」と聞こうと思ったが、やめることにした。そして、組んでいた腕を再度組み直した。  卓蔵は思う。  今のはひょっとしたら、自分の空耳かもしれないし、仲吉はいつも非常によくやってくれている。今日も帰り支度をしていたにも関わらず、ペンションまでの送りをかってでてくれたのだから、と。  今日の昼過ぎに、白鳥学から「吹石隆平がペンションに現れた」との連絡があった。白鳥はうまく追い返してくれたらしいが、今日に限って、仕事が立て込んでいて、ペンションに向かうのは今のこの時間になってしまった。  卓蔵は憎い吹石隆平の顔を思い出し、歯ぎしりをした。 ――あの野郎、離婚したにも関わらず、まだ真理恵の周りをうろちょろする気なら、二度とこのY市の地を踏めないように……  卓蔵は、自身があの吹石隆平に対して抱いている嫌悪や憎しみは、主に男としての面で自身に似ているからであると理解していた。 ――娘の真理恵には俺や吹石とは違う、堅実な男と一緒になって、幸せになって欲しかった。でも、普段はおとなしい真理恵も、吹石のことでは俺の言うことをなかなか聞かなかったしな。離婚させるのには苦労したよ。そして、今、ペンションに向かわせた白鳥だって適度に遊んでいるとは思う。だが、あいつは野心家だ。目の前に餌(女)をぶら下げられたとしても、俺たちみたいに後先考えずに喰いついたりはしないだろう。一番、自分が守られければいけないものを優先する男だ。あいつが真理恵を気に入って、俺の後継者(家族)となってくれたのなら、俺も心強い。でも、白鳥の奴、案外、真理恵よりも由真との方が気が合いそうな気もするな。  真理恵と由真。八窪卓蔵の2人の愛娘。  真理恵の産みの母であった旧姓:灘鈴恵との結婚は、お見合いによるものであった。楚々とした美人でいかにも箱入り娘といった感じで、口数少なく、三歩下がって夫に従い、少し世間知らずなところもあった鈴恵との短い結婚生活は、ゆるやかな川を船に乗って流れているかのようなものであった。  結婚から1年半後に鈴恵は妊娠し、真理恵が生まれた。もともと病弱であった鈴恵は、真理恵が3才になって1か月後に風邪をこじらせ、肺炎によりあっけなくこの世を去った。卓蔵は今もはっきり覚えていた。神に(信じてはいなかった、そして鈴恵の死により本当に信じられなくなった神に)、「鈴恵を連れていかないでくれ、俺と真理恵を置いて死なせないでくれ」と祈っていたことを。そして、病院のベッドに横たわった、土気色をした鈴恵の死に顔を。  愛妻を亡くした卓蔵は、それ以来、再婚することはなかった。ただ、たまに男の甲斐性と自分に言い訳をして、女と一夜をともにすることはあったが。  真理恵の世話はほとんど家政婦に任せ、自身は会社の経営に尽力し、その仕事終わりに酒を飲み、たまに女と寝た後、家に帰る。そんな時、夜中でもベッドから起きて、自分を迎える幼い真理恵の顔が日に日に鈴恵に似てきて、卓蔵はいいようのない罪悪感に襲われていた。  由真の産みの母である元・従業員である佐伯とは、佐伯が卓蔵の会社を辞めてから3か月後ぐらいに、町で「社長」と声をかけられた。退社時よりずっと派手な印象を与える元・従業員の近況を元・経営者として聞くつもりで、つい一緒に飲みにいった卓蔵であったが、2回、3回と会い続け、体を重ねる回数も会う回数に比例するように増えていった。  佐伯が1人で暮らすアパートに足を踏み入れた卓蔵は、統一されていないインテリアや物の多さに彼女の心の闇を感じた。金銭的にも、公共料金を延滞しかけるほど困窮していたため、哀れに思った卓蔵はポケットマネーから少しばかりのお金を渡したこともあった。佐伯が自分の他に男を連れ込んでいることも、佐伯が自分を愛してなどいないことも、ただ寂しくて誰かとつながっていたい、この世で1人ぼっちではないかと思う時間を埋めるように愛の代わりに自身の体を与えることで、余計むなしさを加速させているだけだということも、痛々しいほどに伝わってきた。  そんな佐伯とは自然消滅のような形で終わったはずだった。どちらも別れなども言わなかったし、そもそも肉体だけの関係であったのだから。  月日がたち、卓蔵が佐伯の記憶を忘れかけていた頃、たまたま休みであった日曜日に、自宅に佐伯がいきなり訪ねてきたのだ。木枯らしの吹く日、骸骨のように痩せ、目をギョロつかせた、襟元と袖口が汚れ擦りきれたトレンチコートを着た佐伯の突然の来訪に、応対した家政婦は怯えていた。  「娘のDNA鑑定に協力してほしい」と、ガサガサに荒れた肌をした佐伯は荒れた唇よりそう言葉を出した。卓蔵は佐伯が娘を出産をしていたことすら、知らなかったのだからまさに寝耳に水であった。だが、心当たりが全くないわけではない。  玄関先で喚き始めた佐伯の声を聞き、2階の自室より髪を2つ結びにした中学生の真理恵が階段より下りてきていた。家政婦は気の毒そうな顔で、事態が全く飲み込めない真理恵を自室へと連れ戻していた。  リビングのソファにドカッと腰を下ろした佐伯は、「娘の父親が誰か分からないから、社長にもDNA鑑定をしてほしい」と再び言った。  「馬鹿なことを言うな。俺の娘は真理恵1人だけだ」と、卓蔵は佐伯に対してというよりも、真理恵に対して身の潔白を証明するために、鑑定費用も自分持ちで、自身のDNAを提出した。そして、その結果は――  近所の噂の的になったのはもちろんのこと、親戚間でも騒動を巻き起こした。鑑定結果を聞きつけた卓蔵の弟の1人が家にまでわざわざやって来て、「やっちまったな、兄貴」とニヤニヤ笑いながら肩を叩いた。  そして、あろうことか佐伯は、自分が産んだ娘をゴミ屋敷同然のアパートに置き去りにしたまま、姿を消したのだ。  卓蔵が真理恵に佐伯が残した娘について、リビングで話をする夜、外ではゴウゴウと嵐の前触れのような風が吹き荒れていた。  卓蔵は俯いたまま、同じく俯いたままの真理恵に話をした。当時、中学2年生だった真理恵に、自分が真理恵の母親ではない他の女に産ませた子供がいることを、子供の母親は姿を消したことを、その子供を施設に入れるか、それとも――  当然、この世で一番可愛い真理恵にこの世で一番嫌悪される存在になってしまうことを卓蔵は覚悟した。泣き喚かれ「お父さんなんて、大嫌いだ」「私に近寄らないで、汚い」などと叫ばれて、部屋に鍵をかけて閉じこもられることも、もう真理恵は自分に笑顔を見せてくれないだろうとも。  だが、真理恵は違っていた。俯いたまま、黙って卓蔵の話をずっと聞いていた。そして、しばらくたった後に顔を上げた。 「……お父さん……子供は親のそういった生々しい話って、あんまり聞きたくないもなのよ……」  真理恵の目からは今にも涙が溢れそうになっていた。中学生という多感な時期に自分が娘にしてしまった残酷な仕打ち。卓蔵は過去に戻り、自分をボコボコに半殺しになるまで殴りつけたくなった。佐伯と同衾した時期は、真理恵の母・鈴恵の死後ではある。だからと言って子供に受け入れられることではなかった。だが、真理恵の口から出た言葉は、卓蔵を驚かせた。 「いつ頃、その子はこの家にやってくるの? その日までに、その子の部屋をきちんと用意しておかなきゃ」 「お前、あの子をこの家に入れてくれるか?」 「だって、お父さんの娘で私の妹でしょ。名前はなんていうの?」 「由真って名前だ。自由の由という字に、お前の真理恵の真と同じ字を書く」  そして、由真は正式に八窪家の娘となり、家へとやってきた。やせ細り、薄汚れ、わずか5才にしてすさんだ瞳をしていた由真は、周りにいるすべての人間を警戒している野良猫のようだった。  正直、卓蔵も由真を引き取ったものの、扱いに困りかけていた。由真はしゃべりたい盛りの年頃であるはずなのに、めったに喋らず、無表情なままであった。  けれでも、現在のように、卓蔵のもう1人の愛娘となっている由真が卓蔵と血のつながりだけではなく、本当の家族となったのは、流れる時と真理恵の存在が大きかった。  卓蔵は自分の娘ながら、真理恵が時々分からなくなることがあった。  親の目から見ても美しく、平均以上に勉強もでき、学校で問題ごとを起こしたことも非行に走ったことだってなかった。当時、贔屓にしていた料亭に勤めていた多賀准一が一人息子の素行に頭を悩ませていることを聞いていたが、母親がいないにも関わらず、1人の子供を1人の大人として育てることの難しさについては、卓蔵は頭を悩ませることは少なかった。  だが卓蔵は、全てを飲み込んで許し、包み込み、頑な由真の心までも開かせた真理恵のその在り方に、人間味が感じれず、時々、何を考えているんだろう――と思うことは一度や二度ではなかった。 ――でも、あの由真ももう大学生だもんな。大きくなったな。東京の大学に行かせたためか、少し垢抜けたような気もするが。まあ、何にせよ、縁があって家族になったんだ。生まれた時には俺の手元にいなかったから、最初は娘だって実感はなかなか湧かなかったけど、真理恵が俺たちをつないでくれた。今はお前だって真理恵と同じく俺の大切な娘なんだ。俺や吹石みたいな男につかまらず、幸せになって欲しい。あとは、元気な孫の顔でも見せてくれりゃあ、俺も幸せだ。  卓蔵は少し咳ばらいをして、外へと目をやった。夜空には満月が煌々と輝いていた。 ――今日はなんだか、妙に落ち着かない気分が続いている。ペンションにあの吹石が現れたということだけではないような……やっぱり、2人ともペンションには行かせず、家にいさせたほうが良かったかもな。そして、白鳥や仲吉らの男連中を呼んで、家で酒でもふるまっていた方が……由真は未成年だし、酔っ払いの相手は嫌がるだろうけど、その方が由真にとっても真理恵にとっても、俺の目の届く、安全な場所にいることができただろうに……  車から見える満月を、首の後ろをゴキと鳴らして見上げた卓蔵は遠い目をした。  車内はしばらく無言のままであった。だが、後方から聞こえているパトカーのサイレンは次第に大きくなり、すぐ側まで近づいてきているようであった。  パトカーが自分たちの背後を走っていることをバッグミラーで認識した浩太は、ウィンカーを出し、路肩へと停止し、パトカーに進路を明け渡す。  1台ではなく、2台のパトカーは彼らが今から行くペンションへと続く道を走っていく。 「……何かあったんでしょうかね?」 「さあな……でも、ペンション内で何かがあったら、すぐ責任者の多賀から連絡が入るはずだ」  そうですね、と卓蔵の言葉に頷いた浩太は、点滅するパトカーを追うかのごとく、車のハンドルを握り、アクセルを踏み込んだ。  1台目のパトカーが止まった場所には、すでに到着した救急車の姿もあった。そこは黄泉の世界に誘う光であるかのように、闇の中でぼんやりと浮き上がって見えた。その場所は崖下であり、その上の道路で破られたガードレールをも、卓蔵は確認することができた。あの崖から転落したらしい車はいまだくすぶり続けているようであった。 「事故か……ありゃあ、酷い。もうだめだろうな」 「気の毒に。人間、いつどんな死に方をするかわかりませんね」  先ほどと同じく、浩太は相槌を打った。2人とも、あの車の中にいた人間は黒焦げの状態となっているだろうことは、一瞥しただけでも想像できた。  そして、2台目のパトカーはペンションへと続く道路をあがっていっていた。  惨い光景から目を逸らし、後部座席で軽く咳払いをし腕を組み直した卓蔵は想像だにしていなかった。  今、彼が目にした、くすぶり続けている車の中には、ペンションの宿泊客であった新田野道行・新田野唯・滝正志の遺体があることを。山道を駆け上がっていっている2台目のパトカーは、先に駆け付けた救急隊員より通報を受け、車の転落箇所の少し手前に転がっている鈴木梨緒の遺体の元へと向かっていることを。この事態を引き起こしたのは、醜悪で下劣な化け物のような残酷な『殺戮者』であることを。その『殺戮者』の手に、ペンションの従業員や何人もの客たちはかかったことを。今よりわずか数分前に、彼のお気に入りの部下である白鳥学も殺され、ついに彼の2人の愛娘をじわじわといたぶりながら、その手にかけんとしていることを――
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