第2章 ~8月の死者たち~ 第10話

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第2章 ~8月の死者たち~ 第10話

 由真の涙で滲んだ視界のなかで、最愛の姉・八窪真理恵は、最後の言葉を告げ、静かにその長い睫毛に縁どられた瞳を閉じた。  真理恵が『殺戮者』に背を向けたのは、彼女なりの最後の抵抗であったのかもしれない――彼女がこの世で最後に目に焼き付けたのは『殺戮者』のあの醜悪な顔ではなくて、彼女にとって最愛の妹の顔であったのだから。そして、彼女は少しだけ、唇を動かした。そう、ほんの少しだけ……  離れた地面に這いつくばり、真理恵に向かって手を伸ばしていた由真には、彼女のその声を聞き取ることはできなかった。だが、彼女の背後にいる『殺戮者』はそれを聞き取ることができたらしい。突如、『殺戮者』の黄色い瞳がカッと今以上に見開かれた。  『殺戮者』の全身より、真理恵に向かってより強い殺意が発せられた。 「姉さんんん!」  由真が叫んだのとほぼ同時に、『殺戮者』の右腕が宙を切った。そして、肉を貫いた音……  満月と車のヘッドライトが、由真の記憶に焼き付けるかごとくその無惨な光景を照らし出した――  真理恵の細くたおやかな体の、その下腹部は、『殺戮者』によって後ろから貫かれたのだ……  数秒のち、『殺戮者』はゆっくりと真理恵からその腕を引き抜いた。その腕は自身の皮膚の青と、真理恵の鮮やかな血の赤とのコントラストを描いていた。真理恵は血がドクッとあふれ出た下腹部を押さえ、苦し気に顔を歪めながら、体を折り曲げた。そして、ゴフッと血を一たび吐き、地面へドサリと倒れ伏した―― 「いやああああああ!!」  姉の残酷な死にざまを目の前で見せられた由真から発せられたのは、これ以上ないほど悲痛な悲鳴であった。 「姉さん! 姉さん!」  涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔で、由真は地面に這いつくばったまま、真理恵へ向かって手を伸ばした。魂はもはやここにはいない真理恵に向かって、必死に呼びかける由真の瞳に映るのは、瞳が固く閉ざされた真理恵の死に顔であった。月明かりの下、眠っているかのような彼女のその肌はまるで白い花のような清潔さすら持っていた。 ――嘘だ! こんなの嘘だ! 姉さんが殺されたなんて! 姉さん! 姉さん! 姉さん! お願い返事をして! 私だよ! 由真だよ! 姉さんの妹だよ! お願い! 目を開けて!  泣きわめきながら、真理恵へと届きもしない声を発し、届きもしない手を伸ばし続ける由真を『殺戮者』はチラリと一瞥した。由真は『殺戮者』が自分を見ていることなどどうでも良かった。由真は最愛の姉の死に、彼女を助けられなかった、守れなかったというその思いに、全身を震わせ喚き続けていたのだから…… 「私だよ! 姉さん! お願いいい! こんなの嫌だああ!」  由真へと視線を移した『殺戮者』は、彼女へと向かってゆっくりと一歩を踏み出した。『殺戮者』の”赤い”腕からは、まだ生温かい真理恵の血が滴り落ち、地面に浸み込んでいった。『殺戮者』が自分に向かって立てる足音に、由真は顔を上げた。涙で滲む由真の世界には、残酷な”青”が満ちていた。そして、由真が静かに目を閉じた。一筋の熱い涙が頬をつたった。 ――私も殺すなら、殺せばいい。姉さんにしたように私も殺せばいい。姉さんが待っているところに私も行く。だから……  姉と同じく『殺戮者』の手にかかり、残酷に生涯を断たれることを覚悟した由真であったが、『殺戮者』が自分に向かって歩みを進める音、その裸足で土を踏む音が、心臓に届くまで強く感じられ、彼女の全身はやはり震え始めた。  首をガッと掴まれた由真の体は宙へと浮かんだ。彼女の首を捉えているのは、先ほど真理恵を惨殺し、真理恵の血にたっぷりとまみれた『殺戮者』の生温かい手であった。息苦しさにせき込みながら、脚をばたつかせる由真の脳裏には姉だけでなく、自分の首を掴むまさにこの手にかかって犠牲となった者たちの無惨な死の瞬間までもが蘇ってきた。 ――助けて……姉さん……  由真は息も絶え絶えになりながら、真理恵に助けを求めていた。もう、この世にはいない姉へと。  顔を真っ赤にしてもがく由真の眼前には、『殺戮者』の気味の悪い醜い顔があった。『殺戮者』は興味深そうに由真の顔をしげしげと眺めていた。 ――こいつはすぐに私を殺さないんだ……きっと、時間をかけて嬲り殺しに……  捕らえられた由真の体は、『殺戮者』の歩みとともに、ガードレール外へと――そして、『殺戮者』は由真の首を掴んでいた腕をパッを離した。  空気が肺へと入ってくるのとほぼ同時に、由真は山の斜面を転がり始めた。だが、(彼女はまだ知らないことだが)新田野夫妻の車が転落した箇所ほどの急な傾斜ではなかったのが幸いしたのが、由真は斜面に生えていた枝をパッと掴んだ。けれども、それを掴む手には力が全く入らなかった。自分を「生」へと繋ぎ止めてるその腕は、自分のものではないようであった。 ――もう……駄目……  手には力が入らず、下には闇が広がり、上にはそれもわずか3メートルほど上に、あの『殺戮者』がいるのだ。  けれども―― 「……由真……生きて……」  真理恵のあの最期の言葉が蘇ってきた。  枝を握る手に力をグッと込めた由真であったが、自分の足元に広がっている底の見えない闇への恐怖と『殺戮者』に踏みつけられた腹が痛みで脈打ち、胃からは胃液が逆流し、シャツを濡らした。その時、由真は上から車の音を聞いた。そして、その車のドアが開かれると同時に声も聞こえてきた。  それは男の声だった。よく聞こえないが、その声は落ち着き、理性的な口調で話しをしている。その声の主は、人間の姿をしていないあの『殺戮者』と普通に話をしているのだ。 ――え??  由真の手にある枝が大きくきしんだ。上にいる男は、確かに『殺戮者』と話をしている。だが、『殺戮者』の声は聞こえない。それに、話をしているというよりも、その男は『殺戮者』をクドクドとたしなめているようにも由真には感じられた。  その時、上でカメラのフラッシュが光った。二度、三度と…… ――何? 何で、写真なんか撮ってるの? まさか、姉さんを撮ってるの――?  上にいる声の主である男は、決して自分たちを助けに来てくれた人間などではない。むしろ、『殺戮者』側の人間であるという戦慄が由真の全身を駆け巡った。そして、信じられない言葉が由真の耳へと響いてきた。 『死ぬ前に一度、会ってみたかったんだけど……もう、死んじゃってるね……残念』  その男の言葉に、由真が身を震わせた次の瞬間、手の内にある枝がバキッと音を立てて折れた。 ――姉さん――!!  悲鳴をあげながら、由真は山の斜面を転がり落ちていった。由真は真理恵に助けを求めたのか、それとも姉のいるところへ自分も行くことを覚悟して、声を振り絞ったのかは彼女自身も分からなかった。  ただ、由真がいつも知っている真理恵の柔らかな優しい笑顔と、あの無惨な冷たい死に顔が重なり合い――そして、真っ暗になっていった。  一刻も早く、娘たちを助けに行かんとする八窪卓蔵を乗せた車に、後方から新たなサイレンの音が聞こえていた。運転席の仲吉浩太は、その音がさらに大きく感じられ、思わず、身を震わせた。 ――後ろから聞こえるサイレン……まさか、本当に異常者が何かがいるってのか?  後部座席の八窪卓蔵は、重い体をシートに沈めたまま、荒い息遣いをし、頭を抱え、その場で足踏みするかのように足を動かしていた。 ――本当に異常者がいるんだとしたら、本当にあの白鳥が殺され、お嬢さんたちも今にも殺されそうになっているんだとしたら……俺たちが駆け付けても、その異常者に勝てるのか? 警察が来るまで、待っていた方が……いや、でも、社長がお嬢さんたちの安否に気が気でないということも分かる……もし、異常者と俺たちが鉢合せたら、どうしよう? 俺も剣道には自信がある。でも、この車の中には竹刀なんてないし……  浩太の思考は、グルグルと螺旋を描いているかのように頭の中を回り出した。だが、天の助けと言うべきか、後方から聞こえてくるサイレンは段々と大きくなってきている。  警察がペンションへ向かってきているのは間違いない、と浩太が胸を撫で下ろした瞬間―― 「わあああああ!」  突如、横から何かが車のフロントガラスに叩きつけられた。その大きな衝撃と、その衝撃の原因となった「叩きつけられた者」の姿に浩太は絶叫した。 「し、白鳥ぃ!」  急ブレーキをかけた車のフロントガラスにへばりつくようにしてあったのは、白鳥学の死体だった。彼の目はほんの少しばかり開き、唇からは血の筋が幾筋もつたい、何より彼の首にはささくれだった木の枝が横に貫通していたのだ。 「うわあああっ!」  後部座席の卓蔵も、学のその無惨な死体に飛びあがって叫んだ。彼の中でも思考はグルグルと螺旋を描き始めていた。 ――真理恵の言う通り、白鳥は殺されていた……真理恵は、由真はどこにいるんだ? もしや、この近くに……  卓蔵は即座に車の外へと飛び出した。 後ろから「社長!」と浩太が自分を引き留める声が聞こえたが、彼は構わず走った。駆け続けた。そして、わずか、10メートルもいかないうちに、車のライトが照らしている冷たいアスファルトに横たわる人影に気づいた。  ほっそりとした体型、肩を少し過ぎたぐらいの柔らかそうな髪…… 「真理恵ぇぇ!」  卓蔵が近づくにつれ、横たわっている真理恵は赤い服を着ているのではなく、血で彼女の背中が赤く染まっていることが分かった。  愛娘の元に息を切らしながら、駆け付けた卓蔵は彼女のまだ温かいその肩に手をかけた。 「真理恵、お父さんだぞ! もう心配するな! すぐに病院に……」  だが、真理恵は卓蔵の呼び掛けには答えず、ただゴロンと地面に転がっただけだった。夜空へと顔を向けた愛娘の死に顔には、涙の跡が頬にこびりつき、茶色い土にまぶされた彼女の体の右肩と下腹部はひとしお血で赤く染まっていた。 「真理恵……?」  卓蔵の手がブルブルと震え出した。純白のウェディングドレスを身にまとった真理恵、大学の卒業式の袴姿の真理恵、高校の制服姿の真理恵、由真を引き取ることを了承した中学生の真理恵、赤いランドセルを背負った真理恵、そして妻・鈴恵の腕の中に抱かれていた生まれたばかりの真理恵…… ――今、俺の目の前にいるのは真理恵なのか? 俺の娘の真理恵なのか? 真理恵は死んでいるのか? 由真はどこにいったんだ? どうなったんだ? 真理恵、由真、真理恵、由真、真理恵、由真、真理恵……  2人の愛娘の顔が交互に卓蔵の中で激しくまたたいた。そして、彼は自分の頭で何かがブツンときれる音を聞いた。 「社長おお!」  白鳥学の無惨な死体を目の当たりにし、彼をこんな目に遭わせた”異常者”への恐怖もあったが、仲吉浩太は勇敢にも車外へと飛び出していた。夏の夜の、それも生臭いような風が彼の肌をかつてないほど鳥肌立たせた。  彼の向かう先にいた八窪卓蔵が突如、地面へと倒れ込んだ。卓蔵の元へと駆け付けた浩太が見たのは、彼の愛娘・八窪真理恵の血糊をぶちまけられた人形のような死体とゴーゴーと鼾をかいて地面に突っ伏している卓蔵であった。 ――これはまずい!  喉を大きく鳴らし真理恵の死体から目を背けた浩太には、八窪卓蔵が脳出血を起こしていることが分かった。 ――なんだよ、”これ”はあの上のお嬢さんなのか? 下のお嬢さんはどこにいるんだ? もしかしたら、まだ、生きているかもしれない……でも、今は社長がヤバい! 一刻も早く病院に運ばないと――  後ろにバッと振り向いた浩太の視界に映る、こちらに向かってくる車のヘッドライトとサイレンの音がだんだんと大きくなってきていた。 ――助かった。本当に助かった……早くこっちに来てくれ……  脳出血を起こしている卓蔵を素人判断で下手に動かせないと、浩太はただその場に立ちつくすしかなかった。だが、目の前に広がる闇の中から、自分たちを貫いている鋭い視線を感じ、ビクッと飛びあがった。恐る恐る目を凝らした浩太の目に映ったのは、わずか10数メートル離れた闇の中に溶け込むように、青色をした、ゆうに2メートルは越えているであろう規格外に細長い人の形をしたシルエットであった。 ――何だよ……あれ……?  腰の力が抜けた浩太は、その場にドシンと尻餅を着いてしまった。その”あれ”――『殺戮者』はゆっくりと浩太に近づいてきているのだ……浩太の耳には、自分に殺意を持って近づいてくる、その『殺戮者』の生臭い息遣いまでもが聞こえてくる気がしていた。  けれども、『殺戮者』の遥か向こうから、クラクションが鳴らされた。そして、クラクションの主は何回か車のライトを点滅させた。まるで、合図のように。  途端、『殺戮者』は、身を翻し、その車へと向かっていった。この地帯は、ちょうど、Y市と隣の県の県境の山間部である。「ぺんしょん えくぼ」を通り過ぎて、おそらく隣の県に出るであろう、その車を追いかけていった。 ――助かった……  浩太は尻餅を着いたまま、肩で息をする。目じりにも滲み始めていた涙を、浩太は情けなく思いながらもゴシゴシとぬぐった。    大きくなってくるサイレンとともに、駆け付けた数台のパトカーからは何人もの警察官が出てきた。そのうちの1人、卓蔵と同じ年頃の目つきのするどい警察官が道路にへたり込んだままの浩太に声を張りあげた。 「何があった?!」 「……何があったって……」  それはこっちが聞きたいよ、という言葉を飲み込んだ浩太は、「救急車を呼んでください!」と裏返った声で叫んだ。  卓蔵に駆け寄った警察官が、すぐに救急の手配を行った。1人では起き上がれないままであった浩太に1人の若い警察官が手を貸して、その場に立たせた。事件現場や事故現場には慣れているはずであろう警察官たちも、車のフロントガラスに乗ったままの学や道路に横たわる真理恵の酸鼻を極める死体を見て、顔をしかめ、またそむけていた。  先ほどの中年の警察官が浩太に問う。 「まだ、ペンションに残っている人はいるのか?」 「わ、分かりません、僕たちも、ちょうど、ペンションに、向かうところだったから、その……」  浩太はつっかえながらも答えた。 「ペンションから総合市立病院まで逃げることができた人達から、通報を受けたんだ」 「!」 「ペンションの泊まり客と従業員。男性2人と女性1人だ。男性の1人は重体で、今治療を受けている……もしかしら、さっき崖下に転落した車の事故も……君にも事情聴取に協力……」  浩太には、警察官の声が最後まで耳に入らなかった。自分が今、真っ只中にいるこの事態がとても現実のものとも思えず、浩太の視界はぐらつき出した。何とか気を保とうと、自分の身を奮い立たせた浩太の横を、さらにパトカーが通り過ぎていった。  今、まさにペンションへと向かわんとするあの警察官たちは、ペンションの外の血だらけの草の上に転がる首のない多賀准一、ペンション玄関では縊り殺された深田季実子と多賀准一の頭部、1階の廊下の突き当りの吹き出し窓の割れたガラスに胸を突きさされたままの根室ルイ、食堂のテーブルの上の吹石隆平のまるで宙を掴むような左腕を発見することとなる――    翌日8月5日の午後6時過ぎに、山の斜面の中腹に意識を失ったままひっかかっていた由真は、救助隊によって発見された。赤く染まり始めていた夕陽が、彼女のまるで死者のように閉じられていた瞳と、全身の傷口から滲んでいる血を照らし出していた。野犬の餌となってしまう前に、由真は病院へと運ばれ「生存」した。  清潔な病院のベッドで、点滴を受けながら昏睡状態で眠る由真は、何も知らなかった。  ペンションから逃げた2台目の車に乗っていた3人――肥後史彰、駒川汐里、笹山之浩は、道路で鉢合わせた『殺戮者』から逃れることができ、町へと下り、病院へと駆けこむことができたことを。だが、笹山之浩は、医師たちの懸命の治療もむなしく、夜の11時過ぎに息を引き取り、彼の不器用ではあったが純朴なその生涯に幕が下りたことを。「生存」することができた史彰も汐里も病院の冷たい廊下で、互いに震え、止まることのない涙を流しながら、それぞれの家族の到着を待っていたことを。由真の父・卓蔵は真理恵の惨殺された直後ともいえる姿を見たことで脳出血を起こし、由真と同じ病院に運ばれ、眠っていることを。一命をとりとめた卓蔵であったが、言語障害と運動障害が残ったことを。由真が目を覚ました時、既に親族たちによって真理恵の葬式がとり行われており、真理恵は骨となって天へと昇ってしまっていたことを。  由真が真理恵に会いたいとどんなに願っても、もう自分の心の中にいる真理恵にしか会うことができないということを――  20×6年8月4日、Y市の「ぺんしょん えくぼ」周辺にて発生したこの一連の殺戮は、全国ネットで報道された。多くのマスコミがやや都会よりの田舎であるのどかなY市へと押し寄せてきた。  通称「Y市連続殺人事件」と呼ばれるようになった本事件は、事件から6年経過した20▲2年8月現在も、未解決のままである。また、事件の残忍さや被害者たち、また犯人(殺戮者)について、事件に無関係な人物たちの様々な議論や憶測がネットでも今もなお展開され続けていた。
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