第2章 ~8月の死者たち~ 第4話

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第2章 ~8月の死者たち~ 第4話

 8月4日。午後6時。  夏の空は運命の夜へと向かって、赤く染まり始めていた。  愛犬を亡くし嘆き悲しむ桜井朋貴を駅まで送った吹石隆平は、再び「ぺんしょん えくぼ」へと車を走らせていた。  真理恵の心の内を直接聞くことができたため、隆平は今日のところは1人で横浜まで帰ろうと考えていた。だが、駅近くの定食屋に入り、やけにあぶっらこい大盛りの牛丼を空腹の腹にかきこんでいた時、あの白鳥学の顔がちらついてきた。 ――あの男……白鳥とか言ったか……あいつがペンションとはいえ、真理恵と同じ屋根の下で一晩を過ごすんだぞ。あいつが今、あのペンションにいるという状況には、おそらく八窪卓蔵の思惑が絡んでいるだろう。きっとあいつは八窪卓蔵に俺の数十倍、いや数百倍は気に入られているに違いない。後ろ盾があることをいいことに、もしあいつが……!  車を走らせながら、隆平は思い出していた。  隆平と真理恵が結婚して間もないころ、真理恵の高校時代の友人が3人ほど観光旅行がてらに新居のマンションに遊びに来たことがあった。真理恵が席を外した時、隆平は真理恵がどのような高校生活を送っていたのか、興味があったので聞いてみた。 「一番の得意科目は数学で、部活は中学と同じく調理部に入ってて、将来のためにいろんな料理作れるようになりたいって言ってましたよ」との答えをまず聞くことができた。だが、次に答えた友人は「学年で1番人気のあった男子と付き合ってました。確か2年ぐらい付き合ってたんじゃなかったかな……」と含み笑いをしながら、隆平の顔をチラリと見た。黙って聞いていた友人が「はい、ストップ! そこまで」と手で制して遮った。 「ちょっと、煙草を」と動揺を隠すために席を外した隆平の耳に、彼女たちがヒソヒソ話しているつもりらしい声が聞こえてきた。 「悪い子じゃないって分かってるけどさあ、なんかムカつくじゃん。何の苦労もせずに、そこそこイケメンと結婚してこんないい所に住んでさ。あの子、いっつも ”何にも望んでません” って顔しながら、男に守られて順調に幸せの階段上がっていってんだから」「真理恵は昔から女には嫌われ、男には好かれるタイプなんだよ。なんだか苦手って女の子多かったし……」「それに、あの母親が違う妹のこと可愛がっていたのも……”私はお父さんの愛人が産んだ子にもとっても優しいの”って感じで、あれ何? 聖女アピール?」「もうストップストップ! せっかく久しぶりに真理恵に会ったんだし、もし旦那さんとの間に亀裂でも入ったらどうするの?」と。  隆平が真理恵と知り合った時、真理恵は21才だった。隆平は自分が真理恵を抱く前に、真理恵を抱いた男がいることは分かっていた。具体的な男の存在を知り、その男に対する嫉妬が湧き上がったが、今の真理恵は俺だけの女なんだと自分に言い聞かせて、彼女たちの話は忘れることにした。  新居に遊びにきた彼女たちの顔も名前ももう覚えていないが、彼女たちの口から発せられた言葉、そして真理恵の高校時代の恋人の存在を自分に知らせた女が値踏みするように新居の隅々を見ていたその嫌な目つきを、今はっきりと思い出した。  そして今、車を走らせている隆平の脳裏には、真理恵と学が交互に現れていた。 ――絶対に真理恵を渡してたまるか!  隆平は自分の不貞は棚に上げ、自身が思っていたよりもずっと独占欲の強い男であったことに今さらながら気づいた。ヒビが入るかのような強い力でハンドルをグッと握りしめた隆平の左手の薬指には指輪が光っていた。2人の結婚指輪だ。 ――真理恵はこれに気づいてくれただろうか?  結婚指輪を見て、目を細めた隆平であったが、次の瞬間、車の前輪がガガガッと妙な音を立てた。 ――何だ!?  予期せぬ異変に、隆平は慌ててハンドルを切り、どうにか路肩に車を停めることができた。彼は真理恵との交際中より、よくドライブに出かけていたため、運転のテクニックと判断力には多少の自信はあったのだ。 「……何なんだよ、全く」  いらついた隆平は乱暴に運転席のドアを開け、蒸し暑い外に出た。  そして、右前輪がパンクしていることを認め、大きく舌打ちする。 ――なんだって、こんな時にパンクなんか……俺はこんなところで、グズグズなんかしてられねえんだよ。JAFを呼んだら、一体どれくらいでここに……  隆平はズボンの尻ポケットに手を入れ、携帯に触れた。  その時だった。彼の車のルーフに、ドンっという衝撃が響いた。  即座に顔をバッと向けた隆平の目に映ったのは、沈みゆく夏の陽を逆光とした人間のシルエットだった。  けれども、そのシルエットは人間にしては規格外な程、細長かった。まるで枯れ木のような手足に、その胴体部分にはしなびた果実のような乳房が2つ垂れ下がっていた。顔ははっきりと見えない。でも「そいつ」の目が獲物を狙い不気味に輝き、まるで藁のような髪が蒸し暑い風にバサバサとはためいているのだ。  後ずさりした隆平の喉が「ヒッ」と鳴った。思わず腰を抜かしそうになった隆平であったが、彼は気丈に腰を立て直し「そいつ」から逃げるために坂の下りへ向かって地を蹴り、駆け出した。 ――何だ?! 何なんだ?! 人間じゃない……あれは化け……  後ろからダダダ、と自分を追いかけて来る足音が聞こえ、隆平の背後より迫ってきていたその恐怖は、次の瞬間、彼の真正面へと回り込んできたのだ!  異様なほど醜い女の顔が隆平を覗き込んでいた。  青くザラザラとした皮膚。赤く爛々と輝く瞳。口は耳元に届くかというほどの亀裂。その裂け目からは黄色く長過ぎる乱杭歯が覗き、臭気を含んだ涎が粘り気を持ってそこからはつたっていた。 「ば……化け物……」  隆平のその言葉を理解したかのように、ニタリと笑った「そいつ」は細い右腕を上へ向けてシュッと鳴らした。 「うああああっ!!!」  隆平の左の肘上に焼けるような痛みが走った。それは彼の左腕が、彼の体より切り離されたために発生したものであった。  隆平は慌てて離れゆく左腕を慌てて右手で押さえようとしたが、それはすりぬけてボトリと地面へと落下した。焼けついたアスファルトの上で、左手の薬指の結婚指輪がキラリと光った。「そいつ」は、その隆平の腕を拾い上げ、珍しいものでも見るように片手でブラブラとさせた。 ――何なんだ、お前は……! なぜ、俺をこんな目に! 俺が一体何をしたって……!  切り離された断面を押さえる隆平の右手は、ボタボタと流れる血で真っ赤に染まっていく。そして、いきなりの多量の出血で頭が朦朧し、足元をふらつかせた隆平を「そいつ」はガードレール外に向かってドカッと蹴飛ばした。 ――真理恵――!!!  喚き声をあげながら山の斜面を転げ落ちる隆平が最後に見たのは、ペンションに向かって駆けていく「そいつ」の後ろ姿であった。  彼は真理恵に助けを求めたのか、それとも彼女に迫る危険を知らせようとして心の中で声を振り絞ったのかは彼自身も分からなかった。  ただ、確かなのは、彼はもう二度と真理恵に会うことができなくなったということ、「殺戮者」による「Y市ペンション連続殺人事件」の幕が今まさに切って落とされたのだということだけであった。      「ぺんしょくえくぼ」の食堂。  根室ルイは優雅な手つきで食後のワインをゆっくりと飲み干した。  今日は疲れたからお風呂に入って早めにゆっくり寝ようかしら、やっぱり若いころと違って随分と疲れやすくなってるわね、と静かに席を立った。  階段へと向かうルイの後ろ姿を見ながら、肥後史彰は思う。 ――昨日から思ってたけど、すげえ綺麗なおばさんだよな。どっかいいところの奥様の子育てを終えた後の1人旅ってとこか。うらやましいこった。  史彰は夕食のサラダのプチトマトを口に運び咀嚼した。  次に史彰は離れたテーブルに腰を下ろしている白鳥学をチラリと見た。 ――昼間のあの騒動の後、あの白鳥って人と世間話をして、自分がリストラにあって失業中だということを話した。でも、あの人もあの人で何か今、揉めてるよな。昼間、あの色白の美人を巡って、サーファーっぽい男(話の流れからすると元夫か?)と一触即発の状態だったしな。でも、何にせよ、仕事があるってことは羨ましすぎる。俺だって、恋愛や結婚に全く興味がないわけではない。いつかは結婚して、子供だって持ちたい。でも今みたいに無職の男のままで女を口説いたりなんかしたら、大抵の女は逃げるだろ……  重いため息を吐き出した史彰の横を、駒川汐里がセルフサービスの水の入ったグラスを3つ持って通り過ぎた。  まずが滝正志が汐里からグラスを受け取る。正志の隣でクスクスと笑い声をあげていた鈴木梨緒が当然のように汐里からグラスを受け取る。正志と梨緒の口から水を運んできた汐里に対しての感謝の言葉はなかった。  桜井朋貴とともに町からこのペンションまで戻ってきた汐里は、もう一度、梨緒と正志が一緒にいるところまで車を走らせることをやめた。彼らに「疲れたので私はペンションで休んでいる」と連絡を入れ、ベッドに横たわった汐里の瞳からあふれ出た涙が枕を濡らした。様々な場面が汐里の心の中で、走馬灯のように展開されていった。  四国の田舎から出てきて、なかなか大学生活になじめなかった汐里に、いつも友人に囲まれている梨緒が声をかけてくれた。梨緒の紹介で、他にいろいろな友達ができ、汐里の大学生活は徐々に楽しいものへと変化していった。そして、同じ法学科の正志ともよく話をするようになった。ちょうど、成人式前に正志に告白された。もともと明るい盛り上げ役の正志に好意を持っていたし、男性に告白されることなど初めてであった汐里は、正志の気持ちを受け入れた。彼と付き合っていくうちに、まるでのめりこんでしまうかのように正志のことが大好きになっていった。結婚するまで守りたかったし、怖かったけど、体だって正志には許した。行為中の写真を撮られることは正直物凄く嫌だったが、正志の「誰にも見せないから」という言葉を信じた。 ――でも今は……正志の心は私からは離れてしまっている。正志は私よりも……  汐里は思い出す。今日、車の中で梨緒が正志の前髪に触れていたことを。2人はきっと運転中の自分が気づかないと思っていたのだろう。 ――苦しい。このままじゃ苦しすぎる……この状態を続けていたら、私は自分の思い通りにできないこの恋におかしくなってしまう。今は自分で自分の心を守ることだけを考えよう。今ならまだ踏み入れてはいけない領域に足を踏み入れなくてすむ。このペンションから帰ったら、私からきちんと正志に別れを言おう。そして、何も気づいてなかったふりで、梨緒とも今まで通り付き合うように努力しよう……  ズキズキと痛む胸を押さえた汐里は決意し、涙を手の甲で拭ったのであった。  このような汐里の密かな決意を知らない正志は、自分の隣に座る梨緒と斜め前に座る汐里の顔を交互に見比べた。 ――桜井の奴が犬が死んだとかで家に帰ったから、今は俺が2人の女が俺の側にいる。汐里も梨緒も俺に惚れているんだよな。ちょっといい気分。  正直なところ、正志は外見だけで言えば、汐里の方が好みであった。すらりと背が高くてやや和風顔。大学内には同じ年頃で似たような格好をした女が大勢いるが、彼は汐里の顔はすぐに覚えることができた。  正志は同じゼミの女子学生たちがヒソヒソと話していたことを思い出す。 「顔が控えめなのがかえって目立つんだよね、汐里は。梨緒は絶対、自分のこと可愛いって思ってるし、実際流行りの顔してて結構可愛いんだけど、同じくらいのレベルの女の中にいるとそんなに光らないっていうかさ……」 「でも梨緒って、去年の大学のミスコンではいい線までいってたよね。なんだかんだで、人気あるし。いっつもメイクや服には気合入ってるし、自分を魅力的に見せる努力は怠ってないよね」  正志は女の顔や服装の細部まで観察したり、分析したりなどはしたことがなく、ただ女の全体の雰囲気だけを見ていたため、その女子学生たちが同性に向けている観察力に驚いた。 ――確かに俺は汐里のことを可愛いと思って、好きだった時期だってあった。でも今の俺は完全に梨緒に気持ちが移っている。汐里は何か腹立つことがあっても、自分の中に溜め込むタイプだし(その溜め込んでいたものがいつか爆発しそうな気がしないでもないし)、時々何考えてるのか分からなくなるんだよな。でも、梨緒は自分の感情を表に出してくれるし、言葉に出して俺にはっきりと伝えてくれる。やっぱり女は顔じゃなくて、フィーリングで選ぶべきだったよな。それより、汐里に別れを切り出したら、すんなりと別れてくれるかな。汐里の奴、執念深そうだし。梨緒は「女は男よりも彼氏の浮気に敏感」って言ってたけど、あいつは俺と梨緒のことにはまだ気づいてないだろう。いきなり、あいつに別れを告げて、泣き喚かれ刺されでもしたら怖いし、就職だってお互いパーになっちまう……あ、そうか、こう言えばいいかもしれない。「長い人生、俺よりもずっとお前に会うやつが現れるよ。これは青春時代のよくある別れじゃないか」ってさ。  席より立ち上がった白鳥学はオフホワイトの七分丈シャツを身にまとう真理恵に目を留めた。トレイを手に歩く真理恵は、ちょうど向かい側より歩いてきていた笹山之浩とぶつかりそうになった。 「申し訳ありません」と之浩に頭を下げる真理恵と、「へへ、すいません。お嬢さん」と頭をかく之浩。  その之浩を見ていた学は思わずため息をつきそうになった。 ――なんなんだ? あのおっさんは? そりゃあ、誰もが年齢の数だけ経験や知識を増やしているとは限らないだろう。俺だってまだ28才だし、社会にでてからたった6年だ。でも、あのおっさんの顔つきや立ち振る舞いを見ていると、小学生ぐらいの子供から必要な過程をすっ飛ばして、今の年齢になってしまったかのような奇妙な感じだ。顔つきにだって、しまりがない。  学は次に携帯を手にしたまま、ピラフを口に機械的に運んでいる肥後史彰に視線を移した。 ――吹石が帰った後、あの客と少し世間話をしたんだが……あの客は人が良いのは話をしていても感じ取れた。でも、仕事はあまりできそうにはないな。驚いたのは、いくら旅の恥は掻き捨てという言葉があるとはいえ、初対面の俺に自分がリストラにあったことを包み隠さず話したことだ。俺なら絶対に親にだって自分がリストラされたことを話すことなんかできない。自分をリストラした会社よりももっといいところに入り、身の安定がとれるまで、自分のプライドをかけて取り繕ってみせる。  就職活動時の学は、実家のあるY市には帰らず、都会で一花を咲かせることも考えていた。だが、都会には自分などはるかに及ばない生まれ育ちの男がたくさんいると思った。学が育った家庭は、両親ともに堅実な職に就き、兄妹3人とも大学に通わすことができるほどの稼ぎはあったが、全国的に見れば中流家庭であるだろう。大企業の跡取り息子や財閥の御曹司などといった強力なバックボーンを持つ男と出世競争を繰り広げたとしても、そもそもスタート地点から違っているため、自分によっぽどの才能や運がない限り、彼らに勝てる可能性は極めて低いと考えた。いろいろと考え、自分なりの花を咲かせるために、彼はY市へとUターンし就職活動を行い、いくつかの会社の内定をもらった後、八窪卓蔵が経営する今の会社への入社を決めたのであった。  学は厨房で水割りを作っている真理恵に、再び目をやった。 ――俺自身もお嬢さんに魅かれてはじめてもいる。性格はやわやわとしていてとらえどころのないようなところが気になるも、連れて歩いても恥ずかしくないし、それどころかこの地域じゃ羨望の眼差しで見られる女だろう。本当にあの吹石との間に子供が生まれる前に離婚していてよかった。あの吹石との間の子供がいたとしたら、今よりももっとあいつはしつこくお嬢さんにつきまとっていただろう。  今日、真理恵の元夫・吹石隆平がこのペンションまでやってきたことが、学の闘争本能に火をつけることとなった。 ――絶対にあの男とよりを戻させてなるものか……これから一悶着あるとは思うが、それは受けて立つ。必ず、俺が手に入れる。男なら一国一城の主となってみたい。俺にはそれができるだけの力があるはずだ。社長だって、入社以来、ずっと俺を引き立ててくれている。そして、社長の愛人が産んだ子供が女であったのも、俺にとっては幸運だった。愛人の子供が男だったら、またいろいろとややこしいことになってただろう。気は強そうだし、東京の名門大学に現役合格するほど頭も良いようだが、大学を卒業して数年もしたら社長は適当な男と結婚させるだろう。それかそれなりに美人でもあるから、自分で男を見つけて家を出ていくか……妾腹のあの下のお嬢さんが会社の経営に積極的に携わってくることはおそらくないだろう。  学がふっと笑みを漏らした瞬間、彼は由真と目があい、さりげなく逸らした。  由真は学の視線を敏感に感じ取っていた。口元に笑みを浮かべていたように見えた学と目があったが、すぐにどちらともなくその視線を逸らした。 ――きっと白鳥さんも姉さんのことが好きなのね。お父さんと最初から馬が合わなくてお父さんの会社を継ぐ気など全くなかった義兄さんと、お父さんのお気に入りの部下の白鳥さん……お父さんは公私混同しすぎじゃないかしらと思っていたけど、白鳥さん自身も姉さんのことが好きなのに違いないわ。義兄さんと白鳥さんは外見から与える印象は全く正反対だけど、(私の勝手な想像だけど)根っこはよく似通っているような気がする。こんな言葉があるのかは分からないけど2人ともオス度が高いというか……  由真の脳裏には、隆平が強引に真理恵の唇を奪った場面が生々しく再生された。 ――あの時、姉さんと義兄さんの話はどう決着が着いたのだろう? 逆上することもなく大人しく帰っていった義兄さんは、きっと今頃、横浜へと車を走らせてるはずだ。姉さんがこれからどうするかは、私が口を出せることじゃない。でも、姉さん自身の幸せを一番に考えてほしい。姉さんは今日の夜に義兄さんとのことをきちんと話してくれるって、さっき私に言ってくれたけど…… 私は姉さんの話なら何時間だって聞くし、姉さんを守ってあげたいとも思ってる……   由真はふと、客席の駒川汐里に目をやった。 ――あのお客さんはきっと、自分の友達と彼氏が自分の後ろで手をつなぎあっていることに薄々気づいているはずだ。唇を噛みしめて、ただ今のこの時間を耐えようとしているのよね……  汐里と同じテーブルに座っていながら、まるで彼女を空気のように扱っている正志と梨緒が肩を叩きあい、笑い声を上げた。  別テーブルの肥後史彰が、彼女たちの笑い声に少しイラついた表情を見せたものの、再び携帯の求人サイトに視線を落とし、食後のデザートであるレアチーズケーキをスプーンで大きくすくい、口へと運んだ。  様々な思いが入り乱れているなか、目の前の現実をただ純粋に楽しんでいるのは、新田野道行と新田野唯の夫妻だけであった。  彼らはこのペンションに足を踏み入れた時と寸分変わらぬテンションのまま、今というこの時を過ごしている。テーブルに運ばれた互いに同じメニューの料理をカメラでパシャリと撮影し、料理を作った多賀准一や深田季実子がうれしくなるような表情で食べていた。  今日の夜はいつもと違うところで迎えるも、隣にいるのはいつもと同じ誰よりも大切な人であり、ずっと続いてきた穏やかなこの幸せは、これからもずっと続いていく幸せなのだから。 「ワイン頼んじゃおうか」と言った唯に、道行が「俺もちょうど同じこと考えてたんだ」とニッコリと笑って頷いた。      深田季実子はワイングラスと白ワインを手に新田野夫妻のところへ向かった准一の姿を厨房から目で追っていた。准一が手慣れた手つきでワインを注ぐ姿を見た季実子は、彼の頼もしさに密かに胸をときめかせた。  季実子は自分の近くにいた由真に声をかけ、目配せした。 「あのお2人、お似合いのご夫婦ですねぇ」  季実子のその声に、由真は新田野夫妻の姿を厨房より確認する。シンプルだがややビビットな色合いでスタイリッシュさを目立たせている服装の夫と、真理恵が昨日このペンションに来た時の服装とよく似た清楚でたおやかな服装の妻。年は30代半ばぐらいに見える新田野夫妻の顔立ちは遠目にはしっかりと確認することはできなかったが、彼らの醸し出している雰囲気がそこだけ1つの世界を作り上げているかのようであった。  長年連れ添った夫婦は顔が似てくるという話を聞いたことがあったが、もしかしたら、夫と妻それぞぞれの醸し出す雰囲気が混じり合って彼ら夫婦にしか出せない雰囲気を生み出すのかもしれない、と由真は考えた。そして、真理恵と隆平は全く醸し出す雰囲気は異なっていたが、2人が並ぶとなぜかお似合いに見えたことも思い出した。 「……そうですね。すごく仲が良さそうですね」  由真は季実子に言葉を返した。季実子は昨日、由真にうっかりと聞かれてしまった「親の因果うんぬん」と言った失言はすっかり忘れているらしかった。  由真も准一と季実子のあの話は聞かなかったことにしようと思っていた。父・卓蔵に告げ口することなど考えもしなかった。彼らの言葉に自分が少しも傷つかなかったと言えば嘘になるが、彼らの言っていたことには大抵の人が頷くことであるだろう。だからと言って、何と言ってもいいというわけでは決してないが、自分は父の会社のことにまで口を出す権利はない、と由真は考えをまとめていた。何よりも由真が今、一番に考えなければいけないのは、最愛の姉の幸せであるのだから。  ゆっくりと、このペンションへと近づいてきていた殺戮のさざ波に、最初に気づいたのは笹山之浩であった。 「なんだ、あれは?」   之浩の口より小さく発せられた言葉に気づいた者は、誰もいなかった。 ――今、外に一瞬見えたのはなんだったんだろう? 裸の女に見えた。それも物凄い巨乳の……  じっくり考えるよりも口が動き、手足が動いてしまう之浩は、自分の疑問の正体を確かめようと、備え付けの懐中電灯を手に取り、ペンションの玄関へと歩いていく。彼がそうっと玄関を開けた時、備え付けている鈴が小さく音を立てた。外に出ていく之浩の後ろ姿を目にしたのは、白鳥学だけであった。  右手に懐中電灯を手にした之浩は、左手で自分の鼻をすすった。  自分の鼻孔に届く夏の夜の匂いは、之浩にとって切ない気持ちを思い起こさせるものであった。少しも欠けたところのない満月が夜空にくっきりと浮かびあがって輝いていた。之浩は、突如、子供の頃に今は亡き母と真ん丸なお月様を見上げたことを思い出した。 ――どうしたんだろう? なんで、俺は今この時になって母ちゃんのことを思い出したんだろう? 孫の顔も見せられないまま、死んじまった母ちゃんのことを……俺は昔から勉強も運動も出来ない方だったし、女どころか普通の人付き合いも得意じゃないことは俺自身ちゃんと分かってるさ。でも、母ちゃん、俺は仕事だってきちんと続けてるし、借金だってしてない。当たり前だけど、犯罪に手を染めたことなんか一度だってない。今はこうして俺にしては上出来な人生送ってるんだぜ。  亡き母に心のなかで語りかけながら、之浩は懐中電灯を手首でクルクルと回し、わずかに湿り気を感じる土の上を進んでいく。 ――でも、さっき見えた妙なのは一体何だったんだ? 人間の女……それにしては妙に肌が白っぽかったというか、よくよく思い出すと青に近いような気味の悪い色をしていた。何かビニール袋でも飛んできたのか? いや、あのシルエットは人間だよな。なんか、手に肌色の棒みたいなのを持ってたし……俺、視力だけはいいんだ。絶対に何かが外にいたのには間違いねえ。  再び鼻をすすった之浩は懐中電灯をカチカチと点滅させた。  それが迫りくる「殺戮者」への合図となってしまったことを彼は知らなかった。  この「ぺんしょん えくぼ」に迫りきていた殺戮のさざ波は、今や大きな波となってうねり、”まずは” 笹山之浩を暗い深淵へと飲み込もうとしていた――
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