アント

1/1
4人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
積乱雲が燃えている。午後の陽射しが眩しくて、私は静かに両目を閉じた。薄目を開けてみると、遥かな下界では一匹の(アリ)が虫の死骸を運んでいた。 何を運んでいるのか。(ハチ)だ。蜂の死骸を運んでいるのだ。身体の倍はありそうな大きな蜂の死骸を、蟻はたった一匹で必死になって運んでいる。私は蟻の見事な働きぶりに感心しながら、それを上空から見つめていた。 別な蟻が現れた。肩で風を切って歩いている。蜂の死骸を運ぶ蟻に、後から現れた蟻は何か話しかけている。私には会話の内容が聞き取れない。それでも何とはなしにわかる。蟻が蟻に、獲物を寄越せと脅しをかけている。やがて蟻はついに実力行使に出た。蟻の手にしていた蜂の死骸を奪い取ったのだ。獲物を奪い取られた蟻は、蜂の死骸を奪い返そうと必死になって食らいついている。 そうだ。取り返すんだ。戦え。負けるな。 蟻と蟻による、獲物の取り合いは続いた。やがて、横取りを企んだ蟻は諦めたのだろう。捨て台詞を吐きながら、蟻は何処かへと去っていった。 蟻は再び歩きはじめた。蜂の死骸を高く掲げて。 地面に影が差した。赤い巨大な靴先が大地を揺るがし、蟻はその下敷きとなった。 時間が止まった。確かに止まった。 やがて、時間は再び動きはじめた。 運命。それは何と非情なものだろう。 運命を司るのは宇宙だ。宇宙は、怒り、悲しみ、喜び、といった万物の生きた証を少しずつ少しずつ切り取って、星と星の間に永遠に積み重ねてゆく。そこに人間の感情の介在する余地はない。もちろん太陽でさえ及ばない。私が毎日見上げている太陽にも寿命はあるのだから。 蟻は生きた。確かに生きた。誰も何も知らなくとも、私はそれを知っている。あなたという蟻がいたことを、私は決して忘れない。 私は赤い靴先を見つめている。 赤い靴から伸びた日焼けした足首の遥か彼方上空から声が届いた。 「何やってんの。しゃがみ込んじゃって」 私はゆっくりと顔を上げた。青い空に逆光となったミサヨの顔が重なって、私を見下ろしている。 「別に」私は静かに立ち上がった。 「行こうよ」 「行こう行こう」 風が吹いて、砂塵が舞った。青い光の降り注ぐ校庭の花壇には、名前の知らない草花が、たくさんたくさん揺れていた。 了
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!