雨漏りねずみと陽向のひつじ

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 ――恵みの雨、と昔から言われたものだが。  天候としての雨を嬉々と歓迎する人は、現代日本の都内在住、職業学生風情では少ないだろう。  念の為、あるかなしかの名誉の為に、先んじて断っておくが、私は決して雨女ではない。  例え、運動会から入学式から卒業式まで、高確率で雨に見舞われたとして、その日に、その地域で、催し物に参加する当事者は、私一人ではないのだから、なんの謂れがあって、私一人が貧乏神扱いされねばならない、という。  仮に、もしも、百歩譲って。控えめな私が自ら楚々と後退し、その有難くない不名誉を、甘んじて戴き掲げたとして。  そう、特に痛手ではない。もとより私は屋外より屋内が好ましいのだし、洗濯物の部屋干しだって、最近の洗剤は高性能でまあまあ匂いにくいし。  だから今現在のこれだって――恵みの雨だ。そう、災害という程でもない。  少々雨量が多くて、車が通るたび、水が跳ねるくらい。  手に提げた、服屋の店名の入った袋が、しんなり憐れな濡れ鼠になるくらい。  ――ずぶ濡れた雑巾の上を歩く音が、足元から延々、するくらい。 「いや……無理。きもちわる……」  思い込みによる自己暗示は功を奏さず、脱力し傾いた傘から、大粒の雨水が勢い滑り落ち、肩にぼたぼたと降り注いだ。  とっさに水平に持ち直したとき、たたらを踏んだ靴底は、ぐじゅじゅ、と靴音とは呼べない擬音を、足裏に直に浸透させてくる。  一体全体なんの恨みがあって、今日、この雨模様なのだ。休日に一人で電車に乗ってまで出掛けることも、まして愛用のリュックに収まらない服飾品を購入することも、私にとってはよくあることではないのに。  背負った鞄はそこまで大きくないが、折りたたみ傘の狭い防御範囲からは、優にはみ出す。傘上で弾かれた雨粒は、点というより線になり、枝分かれした骨組みの先端から、最早流水の如く背面を打ち付けるが、リュックは防水なので問題ない。天気予報も怠らず確認し、洗濯物は部屋の中だ。  しかし、ここまでの降水量とは、全く想定していない。いないが故に、失態だった。本日のスニーカーは、長らく履き古した愛用品で、申し訳程度の防水スプレーの援護もむなしく、底から縁から縫い目の隙から、沿道のコースを走行中も積極的な吸水で、たらふくたぷたぷの水っ腹だ。  マラソンだったら、給水過多の無計画な失策。こんな有り様、42.195kmどころか500m先の駅までも、さらに最寄りの駅からゴールまでの1.5kmなんぞ、とてもとても耐えられない。足先と精神の、二重の衛生上。  平日の昼間、周囲に人の姿は疎らである。取り分け雨に嬉々としている人は視認できないが、人々は皆、取り立てた様子もなく、淀みなく歩く。  風も強くなく、雨脚が激しいだけ。この大雨による社会全体の被害は、ぱっと見出だせないくらい軽微だ。  しかし、私の身の上のみ、いかんともしがたい床上浸水。足の甲まで靴下が張り付いて、皮膚がふやけていく感覚。雨水で冷えた体以上に、怖気で背筋がぞわぞわする。  狭いガードレールの内側を、なるべく低くそうっと足を上げて、ゆっくりと地面を踏む――ぐじゅ。何度目にも不快な触感がせり上がり、頼りない傘の庇護の下、隠れた口元をへの字にひん曲げた。  そこで、ふと苦い顔を上げる。車道を跨いだ目と鼻の先に、一軒のスニーカーショップがある。  過去買い求めたことはないものの、見知った店名。有名なメーカーの、旗艦店だろう。お洒落な街並みに合わせて、落ち着いた店構え。  軍資金は尽きてはいない。低価格帯から選べば、買えなくはないだろう。天の助け、と――天の気まぐれの成り行きなので、これは少々矛盾であるが、車の通りが完全に途切れるのを待ち、競歩の如き足捌きで店先ににじり寄った。  自動扉が開き、食器用の金束子を四角く伸ばした見た目の、敷物の上で水分を落とす――落とそうとして、……ぐじゅ、ぐしゅしゅ。  踏み鳴らした本人にしか、届かない音。けれど無視出来ない、濁とした水音。  どうしよう。これはどうも、まずいのではないか。  綺麗に清掃の行き届いた店内には、若い爽やかな店員さんが、こちらに気付いて入店の挨拶を投げかけてくれて、繕い切れずに締まらない顔で目線に答えた。  買い替えるには、絶好の機会。今履いているのもより価格帯は上だが、全体的にデザインも好みだし。何より急を要している。良さげなものを選んで、すぐにでも履き替えて帰りたい。が、しかし。 (これ、この足。試着が、出来ないんですけど……)  この期に及んで、我ながら拘るところでないかもしれないが、基本的に靴を購入するとき、試着しないなんて有り得ない。何故なら、スニーカーであっても靴擦れを起こすから。  しかも、お値段だって、私にしては、ちょっとお高め設定なのだ。下手したら、ぐったりしている手持ちの袋の中身よりも。  小銭で収まるか収まらないかの価格であれば、今の状況と心境なら、使い捨て覚悟で買ったっていいが、そんな投げ捨て用は明らかに在庫していない。  こうもぐっしょり冠水しても、叩いたり絞ったりさえしなければ、そう外には漏れない。でも、試し履き出来るかといえば、無理。靴下は買えばいいけど、先ず雨の匂いをも含むだろうこの足を、見ず知らずの人に晒せようか。  というか今のまま履いたら返品不可の傷物、ならぬ水物にしてしまう。挑戦権一回こっきりとか、普段から靴が合いにくく、難儀なこの足には相当に運任せだ。  懊悩と水音をひた隠して、何食わぬ顔で店内を巡っていると、壁に飾られた片足の靴が目に入る。 (あ、これ。かわいいかも)  立ち止まってまじまじ商品を見てしまえば、どの角度から見渡しても暇な店内では、葱背負った鴨だ。何時の間にやらさりげなく接近していた店員さんに、そちら、先日再入荷したばかりなんですよ、と薦める言葉を掛けられてしまう袋小路。 「ああ、ええ。すごく、かわいいですね」  言うに反して不景気な言葉尻に、目の前の商品は然程気に入っていないと判断されたのか、どういうものをお探しですか? 改めて訊ねられ、更には、ご試着もしていただけますよ、といい笑顔。  気さくで今時らしいお兄さん的風貌だが、接客の語調はすこぶる丁寧だ。 「えっと、いえ、あの」 「もしかして、贈り物をお探しですか?」  へどもどしていると、またも別方向に察した店員さんは、聴取の切り口を変えてくる。むろん、贈答用を探しているわけではない。 「いえ。じぶんのを。雨に濡れたので、すぐに履き替えたいくらい、なんですけど……」 「今日、雨凄いですからね。勿論承りますよ」  外の様子をちらと眺めると、先程よりは和らいだ傾向でも、滴り続ける水の流れは、アスファルトの上をやや波立たせている。 「とてもありがたいんですけど。その」 「はい?」  湿度に塗れた私とは対照的に、店員さんは接客の鑑のような、人好きのする、天日干しした洗濯物みたいな笑みをこちら傾ける。もうこうなれば、無駄に嘘をついても据わりが悪い。 「靴はこれ、本当に可愛いと思うんですけど。その、いま、靴の中がすごくびしょびしょで。ちょっと試着出来る状態じゃないな、って。……すみません、お店入ってから気付いて」  はは、と苦笑しながら事実を打ち明ければ、店員さんは、ああ、と納得の表情。 「なるほど、わかりました。では、ご準備しますね」 「はい、すみませんまた今度ぜひ――って、え?」  店員さんは会計台へ向かって身を翻す。 「拭くものと、ご試着用の靴下をご用意しますので。少々、お待ちください」「えっ、でも」  予想外の展開に、店員さんの方に片手を伸ばしかけるが、既に忽然といない、行動がやたらと速い。そわそわと佇んでいると、囲われた台の奥から、いくつかの品々を持って戻る。 「こちら、どうぞ。靴下は、試し履き用なので差し上げられないのですが、今、靴の中は相当なかんじ、でいらっしゃいます?」  背後の椅子をすすめてくれたので腰掛けると、その人は足元に荷を下ろす。 「相当なかんじです……浸水です。あの、靴下買います! ひとつ。お会計前ですけど、いいですか?」 「浸水ですか、それは大変だ。――大丈夫ですよ。すぐに履き替えたいというお客様、わりといらっしゃるので」  平日の昼間、悪天候のもと。駅から若干離れた立地もあってか、店内に他にお客はいないが。こんな至れり尽くせり、いいのだろうかと、肩身を狭くしていると、店員さんは事も無げによくあるから大丈夫、という。 「では、靴下をいくつか見繕ってまいりますね。形はいかがしましょうか」 「いろいろ、すみません。では、これとおなじくらいで、くるぶし丈の」  承知しました、とまた背を向け棚を挟んだ奥に消える。しめた! とばかりに急いで靴と、靴下を引っぺがした。なんとなく、こういうのは見られたくないものだ。気持ち爪先を泳がせて空気を雑ぜたが、匂いも、たぶん大丈夫。  ティッシュやらタオルやらを、小さな籠に入れて置いてくれたが、タオルはさすがに気が引けたので、ティッシュを二枚引き抜いた。ちょっと拭きにくい、と難儀していると、よく見ればアルコールを含んだウェットティッシュまである。準備が良すぎるが、本当にこういうお客はよくいるのだろうか。  すると、要望通りの短めの靴下をいくつか持ち、店員さんが戻る。丸めたティッシュを所在なげに握り込んでいると、今度は小さなごみ箱を籠の隣においてくれた。汚れたごみを直接手渡すのも放置するのも、とまごついていたら、なんだこの対応力。細やかすぎる。  エコではないがもう一枚、ウェットティッシュを失敬して両手を拭い、靴下を選ぶ。予算があるので、せせこましくとも、見た目より先ず値札を確認。三足千円とはいかないが、目を剥くような金額じゃない。無難なものを選び取り、タグを切ってもらった。  すると店員さんは、商札を外しながら、 「まずは、先程ご覧になっていたものを、ご用意してよろしいですか?」 「はい。ぜひ」    普段履いているサイズを訊ねられたので、合う合わないは靴に寄りけりだが、だいだいこのくらい、と答えると、サイズ違いで二箱持ってきてくれる。慣れた手つきで靴紐を通し、ごみ箱等々を除け、一足、足元に置く。  ゆっくりと両の足を入れ、紐を軽く結んで立ち上がる。  目の前の姿見越しに覗いてみると、思った以上に可愛い造形で、二目で気に入った。 「これにします! これがいいです」  即断で決意を表明すると 「歩いてみて、大丈夫そうですか?」  聞かれて、慌てて思い直し、その場を少々行ったり来たり歩いてみる。実際、履いただけなら問題なく思えても、動くと痛くなる靴はしばしばある。 「ちょっとだけ、爪先があたるかも。他はちょうどなんですけど」 「少々失礼しても?」  座りなおして頷くと、店員さんは靴越しに爪先に触れて 「そうですね、少し。もう一つ上も試しましょうか」 「あ、ありがとうございます……お願いします」  以前から、靴屋で試着するたび思っていたことだが。  足に装着する商品なので性質上、仕方がないとはいえ、男性であれ女性であれ、この店員さん方の、かしずくような距離感がむず痒く、慣れない。  その上何から何までご面倒をお掛けしているのに、嫌な顔せず如才なく対応して貰って、気分はなんだか深窓のご令嬢だ。もっとも、よく考えずとも今の自分は半ば濡れ鼠、深い窓の上の看板は、さぞや倒れて傾き加減であろう。  手早く差し出されたワンサイズ上のスニーカーに足を通し、すたすたと数歩踏みしめる。さっきのようなひっかかるかんじもないし、横幅もそう緩くない。それに紐靴だから、多少の調節は利く。 「うん。こっちのがいいです。これで!」  他は試されなくてよろしいですか、と聞かれるが、こういうものは第一印象に従うのが私の中では大正解。改めて、これで、と念押しに笑って見せる。 「気に入っていただけて、よかったです。それに、今のお洋服にもお似合いで。そのまま履いていらしたみたいに、違和感ないです」  お一人様装備だ、気合の入った着こなしでもないけど、褒められれば嫌な気分はしない。社交辞令でも頬がゆるむが、靴紐と一緒に引き結びなおして、向き直る。 「普段使いしやすいですよね、これ」 「とても。僕も色違い持っているんですが、見た目も履き心地もいいですよねーーそのままお帰りになられるということで?」 「はい。出来れば」 「畏まりました。ご用意しますので、そのままお待ちください」  諸々回収して下がると、店員さんは、何も言わずとも先を見越してくれていた。 「そちらの、お持ち帰り用に」  なんと、水を含んだ靴をしまう袋と、店内で買ったもの、買ってないもの纏めて入れられる大きめの手提げ袋を用立ててくれた。行きずりの浸水の令嬢には勿体ない有能執事っぷり、頭が下がる思いだ。  靴は無理でも、靴下のもう一足くらい購入すべきか、と考え――やめた。  お会計を滞りなく済ませ、さり気なく名札をちらと覗く。  その、あまりにもイメージにぴったりな名字に、思わず吹き出しそうになったが、店員さんがカウンターから袋を持って出て来たので、なんとかかんとか押し留めた。執事というと日陰に徹する印象だから、その点はそぐわないかもしれないが、雰囲気はこれ以上なくしっくりだ。  店先まで出ようと自動ドアの前に立つと、空はにわかに陽が差し、雨雲はすでに遠ざかり始めていた。脇に控えるこの気遣いの行き届いた執事――もとい店員さんは、そういえば雨除けのビニール袋なぞは取り出さなかった。おそらく把握していたのだろう。  新品の靴を見て、とある妄想が思い浮かぶ。仮にも靴屋の店員さんだ。来店直後から、私の足元状況はいち早く察知しそうなもの。――もしかして、あえて指摘しないで、型通りの接客から順繰りしてくれたんだろうか。  扉の外には、暖かな陽向の気配。お名前通りの目積もりなら、きっと彼は晴れ男だ。これも相まってレッテルを貼られがちな、室内にまで滴り漏ってきそうな、私の名字とはまるで真逆。  足元にはぴかぴかおろしたてのスニーカー。勿論もう、湿った雑巾を踏む音はしない。しっかり乾いた靴下の爽快感。でも、空と靴はそうでも、地面はそうではないのだから。さっき以上に、細心の注意でもって歩を進めよう。  ありがとうございました、と最後までからっと気持ちのいい笑みで見送ってくれる店員さんに、あんなふうになりたいもんだな、と晴れ間がうつった陽気で礼を返し、水溜まりを避けて跳ぶ。  次の休みも珍しく、買い物に出掛けよう。同額もう一足は、やっぱり厳しいけれど、靴下を一足二足なら。そう、ちょうど新しいアルバイト先を探していたのだ。あの客足では望み薄かもしれないが、折よく募集でもかけていないものか。  接客なんて私には絶対無理、と思っていたし、なんなら受けるのだって苦手意識があったが、押しつけがましくなく、商品以上のサービス、って本当にあるんだ。上手く言えないが、目に見える配慮以上に、間の取り方が、声音が、雰囲気が心地いい人だった。  じんわりと感動すらしているが、執事喫茶の執事さんより細やかな挙動でも、彼にとっては何ら特別でない、いち接客だろう。すぐに忘れ去られるほどの。 (――でも、お日様なんてそんなもんか)  降り注ぐ場所をいちいち選んだりしない、それがとてつもなく、常日頃湿気た私には難しく、得難いと思うのだ。    来週、雨が降らないといい、と思い、然れども。雨が降ってもあんなふうに、明るく傘を差し出す笑顔を、身に着ける修行と思ってみようか。  雨滴伴う私こそ、降るなら降るで、いっそ清々しく。  恵みの雨だ――それはそれで、悪くない。
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