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それは、王子が自国へ帰る前の夜の晩餐会でのことでした。
縁談を急かして進めようとする姫を、大切なことに性急さを求めては良くないとやんわりと釘を差しつつ、まずは無事に自国へ戻ってからこの先のことを……などと宥めている時です。護衛騎士たちがにわかに騒ぎだしました。城に侵入者ありとの一報です。緊急事態に青褪める姫たちと、侵入者排除に向かう騎士たちとで晩餐会は騒然となりました。
王子も騎士たちと一緒に騒ぎの元凶へ向かいました。そこに居たのは……
真っ赤な唇を震わせて、白く冷たいはずの肌をドレスに包み、覚束ない足取りであちこちへと逃げる──魚の姫に似た誰かだったのです。
姫に似た誰かは、王子を見付けると嬉しそうな顔をして近付いてきました。警戒して剣を構える騎士たちを退かせます。混乱する場を、この姫は自分の知人だと押し切って、王子は自分に与えられている部屋に連れて行きました。
王子の頭の中は疑問符で一杯です。どうやって人間の脚になったのか。あの魚の身体の中に脚があったのか。どうして一歩踏み出すごとにそんな痛そうな顔をするのか。あの美しい声が、どうしてそんな老婆みたいな嗄れた声になってしまったのか。
自身の思いは、何も伝わっていなかったのか。
どれだけ尋ねても、姫はにこにこと微笑んでいるだけです。もちろん、王子は姫の覚悟を知りません。人間の王子を愛したがために、海を棄てたこと。千年以上生きていると云われている海の呪術師から、美しい声と美しい魚の身体を引き換えに人間の脚を手に入れたこと。本来の姿ではないのだから、一歩歩くだけで鋭い痛みが全身を貫くこと。
愛しているからこそ、思い出を胸に離れようとした男。
愛しているからこそ、今までの世界を棄てて一緒に居ようとする女。
互いに確かに想い合っているはずなのに、思いは擦れ違ってしまいました。
王子は、魚の姫の泳ぐ姿が好きでした。鱗が太陽に反射して、全身が光り輝くようでした。姫の伸びのある歌声が好きでした。海風の中、髪を靡かせて歌う姿は本当に綺麗だったのです。
この姫は、海に棲んでいるからこその美しさを持っている姫でした。王子が愛した姫は、そういう姫だったのです。いつまでもいつまでも、海で、自分の居るべき場所で、本来の自分で過ごして欲しかったのです。本来の姿を歪ませてまで、自分の傍に居て欲しいとは思っていませんでした。
王子が選んだのは、魚の姫が輝くことだったのです。
姫はにこにこしたまま、王子の手を取りました。変わらない小さな手です。けれど、それはもう王子の知っている手ではありませんでした。
何故か涙が溢れます。何かあった時のためにと、絶えず帯刀していた小さなナイフに手が伸びます。姫は目を見開きました。何かを考えていたわけではありません。一瞬で様々なことが頭を過ります。自国のこと、この国のこと、自身の将来、姫の将来。縁談の行く末。
帝王学を学んだ王子です。物心ついた時から忍耐と努力を強いられてきた王の後継者です。他者の前で涙を流して後先考えず行動するなどと、愚の骨頂です。それなのに──……
愛していました。
人間でない、そのままの魚の姫を愛しました。決して結ばれないと解った上で、自然に生きる姫との想いを胸に生きていこうと思いました。
自身を歪ませてまで、一緒に生きたいとは思っていなかったのです。海に棲んでいる姫を求めていたのです。
────……冷たくなった姫の唇に、王子は唇を寄せました。
冷たくなった姫に、温かい血が降り注ぎました。
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