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目が覚めた時、ひとりの姫が王子の顔を覗き込んでいました。王子が抱いた思いは落胆──あの魚の姫ではありませんでした。
あの姫とは違う唇……違う感触の手指。
様々に沸き起こってくる感情を何とか抑え込もうとしていると、王子の顔を覗き込んでいた姫が何かを捲し立ててきます。
曰く、何か胸騒ぎがしてこの海岸に来たと。来てみたら王子が波打ち際で倒れていたこと。供の者に命じて、陽当たりの良い場所まで運ばせたこと。
良く見ると、姫は海を挟んだ隣の国の姫でした。肖像画で見た、王子の政略結婚の相手です。王族の結婚というのは、戦略の駒の筆頭でした。
それからは、恐ろしいほどの勢いで物事が進みました。王子としてはまだあまり気の乗らなかった縁談も、相手の姫が王子を助けたとあっては蔑ろにすることは出来ません。姫本人も、どうやら王子を好いているようでした。
けれど、王子の心には既にあの魚の姫が棲み着いていました。
見たのは一度。会ったのはたった一度。しかも暗い海の中です。せめて一目……せめてもう一度……と、会いたくて堪らない気持ちがどんどん膨らんでいきます。
王子は身体が回復したあと、海岸近くにある姫の別荘でしばらく過ごすことにしました。王子の自国に連絡したところ、王からもそのようにせよ、との返事でした。縁談相手の姫と交流を深めよと言っているのです。
王子は海岸沿いを散歩するのが日課になりました。最初はついて来たがった姫も、身体の鍛練も兼ねての散歩は嫌気が差したのでしょう、すぐに辞退してきました。
これは王子にとって、何よりの朗報でした。
海岸の岩場の影、険しい岩々が並ぶ隙間に、追い求めた顔を見たからです。
王子は駆け寄りました。危険な岩場を転ばずに駆けれたのは日頃の鍛練の賜物です。身を翻して海に入ろうとする姫の腕を捕らえました。
この手です。
白く美しく、冷たくて小さな手。顔を見ると、あの闇の中で見えた真っ赤な唇。
──逃げないで、怖がらないで。姫。
王子は囁きます。捕らえた手は震えていました。害を与えることはしないと、ただただ会いたかったと、想いを込めて囁きました。
腕に抱き締めた姫の顔を見つめると、魅力的な唇が何か形作ります。発せられた音声は、王子の耳では聴き取れないものでした。それは当たり前のことかもしれません。陸に生きるものと、海に生きるもの。両者は何もかもが違って当然でした。
王子は姫の言葉が聴き取れなかったことに落胆しましたが、それでもこうして再び会えた喜びは大きいものでした。
それからというもの、王子はこの岩場の影で魚の姫と会うようになりました。言葉は通じませんが、王子も姫も互いを想い合っていることは解りました。
姫は美しい歌声を聴かせてくれます。岩場に腰を掛け、海の宝石を冠に戴き、細やかな鱗は複雑な光沢を放つ──魚の姫。総てが違和感なく調和し、人間では放ち得ない魅力をこれでもかと王子に魅せつけてきます。
王子はその奇跡の瞬間を、潮騒と一緒に堪能しました。一瞬といえど、視線を外すことは出来ませんでした。
けれど、王子には判っていました。
決してこの美しい魚の姫と自分は結ばれることはないと──否、結ばれてはいけない……と。
陸のものと、海のもの。相容れるはずがないのです。
しばらく蜜月を過ごしたあと、魚の姫は王子の前から姿を消しました。王子は激しい焦燥に駆られながらも、この現実を受け入れるしかありませんでした。
どんなに恋焦がれても、あの姫は魚の姫。人間の自分とは結ばれることはないのです。王子は姫に、政略結婚の相手が居ること、ここに滞在しているのも限りある日数でしかないこと、を伝えていました。言葉が通じないので意味を成さないことかもしれませんが、それが王子なりの誠意でした。
惹かれ合っていても、愛し合っていても、越えてはならぬ一線があるのです。密かに涙を流す夜を幾晩も過ごしました。脳裏には姫の姿が描かれ、耳には遠い潮騒が姫の歌声を甦らせました。辛く苦しいけれど、出逢わなければ良かったとは思いません。心の奥深くに、大切に大切に暖めておく思い出にするのです。
自分のこの思いはきっと姫にも伝わっている──そう考えていた王子は、自身の言葉は姫に届いていなかったことを思いしらされるのです。
──姫は。美しい魚の身体を持つ姫は。
一体どんな魔法を使ったのか、人間の脚を手に入れて王子の前に現れたのです。
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