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「今日の湯川君、ずいぶん積極的だな」
湯川の下で瀬戸内は規則正しい腹式呼吸をただ繰り返していたが、たっぷりと間を設けると、からかうように発した。
それを受けて、湯川はゆっくりと瞳を動かし、瀬戸内の顔に合わせた。
いつも通りの隙のない笑みにどこか安堵し、つられて同じ表情を繕おうとしたが、口角は重量に抗うことなく、すぐに下がってしまった。
「瀬戸内さん、なに聞かれたんすか」
「なにって?」
「オト君に」
瀬戸内は一瞬目を見開いて惚けようとしたが、こちらが真っ直ぐに見つめたせいで逃れられないと思ったらしい。
ふたたび定型の笑みを浮かべると、静かに言った。
「それは守秘義務があるので教えられません」
湯川は軽く笑ったあと、微かに首を横に振った。
——聞いてどうするんだ。
「まあ、別に俺には関係ないですもんね……」
先に立ち上がり、瀬戸内の手を引いて起こしてやった。
彼の、こういうところが好きだ。
情緒を覆っている分厚い笑顔と声のトーンは常に一定で、変な詮索や哀れみが介入することはない。
どうせ——全部知っているくせに。
「湯川君、金曜日どこに連れてってくれるの」
「連れてってって……そっちが誘ったのに、俺がエスコートするんすか?」
「だって俺、お酒飲むお店詳しくないもーん」
「もーんじゃないよ、まったく……」
背丈のある男ふたり、いつまでも薄暗い給湯室にいる必要もない。
頭をかきながら踵を返すと、腕を掴まれた。
「湯川君」
ふたたび向き合う形になり、気づくと彼の腕の中にいた。
首筋からなのか、シャツからなのかはわからないが、いいにおいがする。
人工的なものではなく、自然な、彼由来のなにかとしかいえない香りだった。
「よしよし」
瀬戸内は背中に手を回してくると、子どもをあやすようにポンポンと、数回叩いた。
湯川よりも若干低いが、彼の背丈も170後半はある。
そんな相手に抱き寄せられるのは初めてで、なんだか落ち着かなかった。
瀬戸内はそのままゆったりした呼吸を3回ほど繰り返し、最後に勢いよく一回叩くと、体を離した。
「……なんすか」
「なんとなく」
湯川は首を傾げながらふたたび踵を返した。
唐突な誘いといい、突然の抱擁といい、どうも調子が狂う。
しかし、嫌ではなかった。
彼からのいたずらも、半ば嫌がらせともとれる呼び出しも、億劫に思ったことは一度もない。
つまり、一応「仲がいい」ということなのだろうか。しっくりこない表現だけれども———
湯川はふたたび、頭をかいた。
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