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「瀬戸内さん、なんで今更飲みに誘ってくれたんですか」
廊下に出てから、湯川は聞いた。
瀬戸内は首を傾げながら笑って、それから横並びになった。
「誘ったらダメ?」
「あ、いや別にそうじゃないけど——なんか理由があるのかなって」
瀬戸内はふたたび休憩所を指差し、先に入った。
湯川も彼に続いて自販機の前に立つ。
「ないよ。なくたって別にいいじゃない。だって俺たち、唯一の同期入社でしょ」
瀬戸内の笑みがいつもよりも柔らかく感じたのは、西日に照らされているからかもしれない。
湯川もつられて、笑みを浮かべた。
「楽しみだなあ。湯川君御用達の、きったない赤ちょうちんの店」
自分はいったい、どんなイメージを抱かれているのだろうか。
油塗れの、ぬらぬらしたどでかい赤ちょうちんが軒先に吊り下がっている店で、水で薄めたようなビールと、ねぎまでもかじっているような——そんな小汚いものなのだろうか。
しかし、この男を小洒落たダイニングバーに連れて行くのも想定内で面白くないので、どうせならうんと汚い店をリサーチしておくことにする。
「……安酒たっぷり飲ませて、泥酔させてやりますよ」
こちらも意地悪い笑みを返すと、嬉しそうにからからと笑う。
「お手柔らかに」
同期入社、か————
温かいような、苦いようなその言葉を反芻しながら、湯川はコーヒーの砂糖・ミルク入りのボタンを押した。
抽出音を聞きながら、湯川はぼんやりと思った。
自分もいつかは、まっしろな誰かの一部に、轍を残すことができるのだろうか。
顔を上げると、瀬戸内と目が合った。
「どうしたの?」
「……別に」
瀬戸内の白いシャツが、西日に染まっている。
そのシワひとつないコットン生地の下にある胸のあたたかさをふと思い出し、湯川は目を逸らした。
まだなにもない、それこそまっしろな、春の午後のことだった。
〈完〉
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