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天蓋の星 1
天蓋の星 1
集中して、耳を澄ますと、扉からかさかさと、引っ掻く音がする。
扉の向こう、床のはじっこの方に居るであろう、音の主をすぐに思い描いて、私は席を立った。
「見廻りご苦労様。こんなに遅くまで、お勤めをしていなくても良いよ」
小さく扉を開けると、その隙間から可愛い影がさささ、と入ってきた。ふっくらして、つやつやした甲羅の私の騎士は、私の周りをひと回りして、「異常なし!」という風に身体をそっくり返らせた。
「もう今日は、お仕事は終わりにしよう。帰ろうか、かにさん」
彼が足早に、私の執務机へ向かうのに、ゆったりと付いていく。私が座り、書類を片していると、かにさんはさかさかと机の上へ上がってきて、私の指をつん、とつついた。
その瞬間、私の目の前でなにかが瞬いて、私は、遠い遠い昔の事を少しだけ胸に蘇らせた。
切なくなるほど美しく、懐かしい想い出に、意識が遠のきそうになったけど、かにさんが、机に付いた私の手にあがってきた感覚で、私は今の自分を保ち続けることができた。
掌をゆっくり上にすると、かにさんは器用に私の手を伝い、掌に納まってくれたので、私は部屋の灯かりを消し廊下へ出た。
少し先の事務室では、まだゴウ達が働いていて、煌々と明るかったが、私は自分の屋敷へ戻る事にした。
「おりょう」
「えっ……ああ、壽(ひさし)。送っていってくれるかい?」
「ああ」
暗い廊下の奥に壽が居て、私は驚いた風を装った。
窓辺に大きく映る月に背を照らされて、彼の表情は私には読み取れないけれど、
「その蟹も乗せていくのか」
あからさまな不機嫌な声音は、彼の精一杯の主張にもとれた。
「ええ、だって、置いていくなんてできないよ。ご飯をあげなくちゃだからね」
「ふん……」
壽は、あの投獄される百年前と、私との関係は変わっていないと思っている風だったけど、悪魔にとっても、百年という時は、結構長い。
その百年もの間に、多くの事柄が変わり果て、私は今や、魔界の議長となってしまった。そもそも、私と彼が以前から、人間で言うところの「恋人同士」であった事など一度もないのだけど。
壽は、私の拳の中に潜んでいるかにさんを、どうにかして叩き落とし、踏み潰してしまいたいとこちらをしばらく見詰めた後、踵を返し先を歩きだす。
「ああー、お疲れ様ですー」
「お疲れ様です」
「おやナギ、珍しいね。今日はこっちの仕事をしているの?」
「はいー、仕事量二倍ですよ!」
事務室を覗くと、ゴウを始めとした議員達の中に、ナギの姿があった。
彼は議員達の中で最も新入りでお調子者であるが、中央に染まり過ぎていないというか、物怖じしない青年であるので、
「おりょうさん、もうお帰りですか?羨ましいですよー」
と堂々と上司である私にぼやき、周囲をどよめかせたりする。そういう素直な所が私は好きだ。
「ははは、そうだよ。悪いね」
「ナギっ、お前という奴はっ」
「痛てっ、ゴウさん暴力反対っ」
「ナギ、今度半島へ行ったら、かにさんちゃんと育ててるよって、おちびちゃん達に伝えておくれ。私にも家族ができて、嬉しがってるって」
「はいはーい。了解しましたよー」
呑気に手を振るナギと、一礼してくれるゴウ達に見送られ、私は光眩しい事務室を後にする。
明るい所は、壽が居心地が悪そうだったし、とても気難しい顔をしていたので、彼がちょっと気の毒に思ったからだ。
彼は光の場所が本当に似合わない。
それは本当は、私も同じである。
++++++++++
中屋敷を出ると、夜空にやたら大きな月が待っていた。
中央は風土のせいか、汚れているせいか、月はいつでも大きいけれど、満天の星というものを見た事がない。
もしかしたら、星など見た事もない、という悪魔がいるかもしれないと思う。
壽もそうなのかもしれない、私がじっと空を見上げていると、月に見惚れていると思ったのか、ぼそっと、
「……綺麗な月だな」
と呟いた。
私が視線を彼へ移すと、そんな情緒的な言葉を口走った自分にうろたえて、
「も、もう行こう」
焦りながら足早に運転席へ向かってしまった。
私は壽に特別な感情はないけど、年若い彼のちょっと突っ張った所は、可愛く感じる。
後部座席に腰掛けると、私は拳を開いてかにさんを自分の膝の上に放してやった。かにさんは動き回らず、私の膝の上で鋏を振りかざし、伸びをしてみせる。
……このかにさんは、魔界の瀧ノ上、「半島」から私の所へやって来た。半島に暮らしている龍の黄河(こうが)さんと、私の片割れであった祥(よし)との間にできた双子のおちびちゃん達が、中央へ遊びに来た時に、お土産として私にくれたのだ。
二人はひょっとして、食用や、魔術の道具として、このかにさんをくれたのかしらん、と思ったけど、私はとても嬉しくて、彼を私の騎士として、始終傍に置いている。
車が走り始めると、私はさりげなく外に目をやった。
流れる景色を眺めるか、瞳を閉じるかしていると、壽は従順に、合図と捉えて、それ以上私には話し掛けず黙っていてくれる。
その間、私は今の議長としてでなく、一介の悪魔として、個人的な事を考えたり、思い描いたりする時間が作れた。
このかにさんと同じくらい、半島のおちびちゃん達も可愛くって生き生きとしていて、とても愛らしい。はじめはどうなる事かと危惧していた祥と黄河さんも、可愛い子供達に囲まれて、一層うまくいっているみたいで、私は安心した。
あんなに悪魔然として、人の暮らしをコケにしていた祥は、今では食事を摂ったり、ちゃんと夜に眠ったりしているみたい。驚きだ。
祥が半島に居ついてくれて本当に良かった。
あの素敵で愛情溢れる黄河さんともっともっと仲良くなって、家族を増やして、いついつまでも半島で暮らして欲しい。
……そうすれば、私が半島へ足を踏み入れないのは、祥を気遣っているから、と思って貰えるし。
私は、壽に気取られぬよう、そっと息を吐いた。
時折半島へ遊びに行くナギによれば、手つかずの自然が豊富で空気の澄んだ半島は、夜になると、空いっぱいにきらきらと、零れ落ちそうに星が輝くという。
大小様々なきらめきが、天を覆い尽くして、中央ほど月が大きくなくとも、とても美しい眺めで、人間界で見たどの星空より豪勢である、と彼はうっとりと話してくれた。
その話に、私は輪をかけて半島へ行くのをためらう。
それほどまばゆくて、心が震えるような光景を、私は昔見たことがあった。
遥か遠い遠い昔、私が、我が身が魔界の生き物であるのが歯がゆく、思うように生きられぬ心苦しさを感じていた若かった頃、私は、深い緑と澄み渡った空に囲まれた、高原でいっとき暮らした。
天蓋の星を見上げて、添い遂げられないことを悲しんだ。
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