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天蓋の星 10
天蓋の星10
一日、一日と今日を過ごしていくうち、静かに静かに時は流れた。
その間、いくらか私の意に反したことが世界では起こっていた。
私が呪いを込めて記したあの本は、『魔術書』と名前を付けられて、自分の想像より幾分も早く、そして広くあまねく世界へ流布していった。
人間達の全てに必ず起こりうる、という確かな根拠も確約もないのに、私が怒りと悲しみに任せて織り上げた綾織を、世の皆は何故かすっかり信じ切ってしまい、まるで私の事を祖のように、私の本と共に崇めるようになってしまった。
何故、一介の悪魔ごときが手すさびでものした駄文を、ちょっともっともらしく書いたからといって、誰もかれもが鵜呑みに信じてしまうのか、不思議でならない。
怖くもあり、滑稽でもある。
さて、どうするかと思ったが、その気になれば、私には自分の本一冊をこの世から消し去るくらい、瞬時にできる事であったので、あまり真剣に考えずにいた。
いっときにして『魔術書』に炎を放ち、燃やしてしまったり、望むなら、内容を生き物のように塗り替えていったって構わない。
ただ、あのように感情的に行動した結果としてあの本はあるので、それは見悶えするほど恥ずかしい産物であったけれど、そんな自分への戒めとして、そのまま置いておきたい気持ちもあったし、これほどまでに人々に受け入れられ、流通していくのを見ると、この中に書いた事の全てが、あながち価値のない、無駄なものでもないのかもしれない、という気もしてきた。
この本のために、愛を諦める人がいるのと同じに、愛を踏み止まれる人もでるだろう。
勿論、どちらが良い選択かは、私が決める事ではない。
++++++++++
極東様が中央を出て、私が二座へ昇格した。
私が三座でいた時に、塔の庭へ植えた薔薇が、ふと気になって三座の塔へ出向いた。
三座の塔は今は、祥が管理をしていたけれど、あの子は始終ふらふらとしていて通常塔に居る事は少ない。
枯れている事はないだろうけど、美しい薔薇なので、しんなりしていては可哀想、と私は三座の塔の庭を眺め回した。
庭は思ってたより、整然とした風景を保っていた。
すると、奥の方から、誰かが楽しそうに笑い交わしながらやってくるのが聞こえて、私はびっくりした。
おや、珍しく祥が居るのかしら。
誰か、気に入った男の人でも連れて。
私が思わず門の影に隠れると、
「ああ、ああ、気をつけてくださーい」
聞き慣れた声が私の耳に届いた。
ああ、ナギと何か変な遊びでもしているのか。そう思った所、裏手から大きなじょうろを抱えた、小さな女の子がよちよちと歩いてくるではないか。
見ると、幼女といった背格好の幼い子は、黒い髪をさらさら肩まで伸ばし、ワンピース姿に歩くと音の鳴るサンダルで、ぴこぴこ庭へと入っていく。
「雅(みやび)ちん、そっちの薔薇はへたれてますよー。あっちのかぼちゃにお水をあげた方が、食べられます」
彼女の後から姿を見せたのは、案の定、「月刊人間界」の記者である、青年悪魔のナギだった。
彼は常に面白く、斬新な記事を求める凄腕記者で、色々な人と仲の良い好青年であるけれど、中でも祥とどういう訳かうまが合った。
性的でなく、祥と仲良く居られるのは、ある意味稀有な存在だったけれど、今はここにはナギとあの女の子しかいないのか、
「ねっ、大きいから一緒に持ってあげます」
彼は女の子の世話を懸命にしていた。あんなに小さな子にまで敬語を使うなんて、ナギってば面白い。
可愛いお顔に反して、女の子は頑固で、危なっかしくじょうろを再び抱え込み、しおれていた薔薇の根元に水を傾けた。
「いやん。わたし、祥さんに、ばらにお水あげたのって、言うの。じぶんでやるの」
「えええ……はいはいー」
一生懸命、女の子が持ち上げたじょうろを、慌ててナギが支えてやる。
二人の様子を見届けたくて、私が門の影から離れると、二人がぱっとこちらを振り向いた。
「祥さん!」
女の子は、ぱあっと晴れやかな顔になって、私に飛びついてきた。ちっちゃくて熱い身体に、私は反射的に彼女を抱きかかえる。
「あ、おりょうさん」
ナギもすたすたやって来て、
「雅ちん、この人は祥さんじゃなくって、おりょうさんですよ。香水塔の匂いじゃないでしょう?」
と彼女の背中を優しく撫でた。
「え?」
雅はきょとんとして、私に顔を近付けると、私の顔をまじまじと見詰めた。
「祥さんじゃ、ないの?」
……その、宝石みたいに大きくて曇りのない瞳の色は、祥と同じ鮮やかな漆黒で、髪も肌もそのまま祥を縮こめたような、良く似た姿で、
「この子は……祥の子なの?」
ナギに尋ねてみた。ナギは、のほほんとした様で、なんとも答えなかったけど、女の子の方は、私が祥でないと判ったのか、私の腕から降りたがり始めた。
そっと足が着くよう地面に降ろしてやると、女の子はワンピースの端をつまんで、ちょこんと挨拶をした。
「雅ともうしまあす」
「雅ちゃん」
「わたし、祥さんの身の回りのお世話をしてますの」
女の子はそう言ってお辞儀をして、ちょっとぼんやりした。
「こんなちっちゃな子が、祥のお世話?」
どういう事?
まさか、娘じゃなくて召し使いなの?
それとも、娘に召し使いをさせているの?
きっとナギを睨み上げた私に、
「ええっと、祥さんはいま、いないんですの。お茶でもいかが?」
女の子は、劇の台詞をはっと思い出したかのように、声をかけてきた。きっと彼女は祥に、自分の居ない間に誰かここへ来て、もし自分が話をしたいと思ったら、そういう応対をしなさい、と常々言われていたのかもしれない。
私は、彼女にお茶に呼ばれることにした。
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