天蓋の星 14

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天蓋の星 14

天蓋の星 14 「丹皓(にこ)やい」 「なあに?」 今日の半島は雨ふりである。 肌寒い私は、おちび達の部屋で薄掛けにくるまってごろごろしつつ、読書に熱心な息子の名前を呼んだ。 二人のうち、割と大人しめの丹皓は、伸ばした足に重そうな本を乗っけた姿で私を見たけど、 「母ちゃん!」 「なんだい?」 「皐羽(さわ)も、『皐羽やい』って、呼んで!」 離れた所で寝そべって魚の絵を描いていた皐羽が聞きつけて叫んだので、 「皐羽やい」 「なあに?」 皐羽にも呼び掛けてやった。 「あんたは、その本が好きなのかい?そんなにむつかしいの、読めないだろう」 「丹皓は読めるんだよ。ねっ」 大きな画用紙を引きずりながら、こちらへ近付いて来る皐羽の言葉に、丹皓はかっくん、と大きな頭で頷く。 「丹皓、まえ、読んだことあるの」 「前?」 私は、その本好きじゃないなあ。 常々そう思っているので、私はこの本にはほとんど手をつけないまま、ずっと中屋敷の塔にほったらかしていた。 この本は、魔界の大議長さま、おりょうが若い頃ものした、「魔術書」という本で、いまや古典ともいうべき魔術の指南書、忌わしき書物である。主に人間界で、魔界について知りたい物好き達に重宝されており、様々な土地で様々な言語で訳されていたりする。 私にとっては、どうでもいい本であったので、私は長い事その本の存在を意識していなかった。だが、私が今暮らす片田舎の半島というのは、半ば時が止まった鎖国状態から、このところ文明開化を始めたばかりであるので、夫の黄河(こうが)が今更、こんな古臭い本で勉学に勤しんでいたりする。 その本と、先日中央の塔から同じ物を丹皓は抱えて、見比べている事が多いので、 「丹皓には、父ちゃんのをあげるから、片っぽは母ちゃんに返して頂戴」 「うん」 と促した。 正直、おりょうの本を読んで、変にかぶれて欲しくないのだ。 「ねえ、そういえばさ、こないだ母ちゃんがお庭で寝てる時に変なこと言ったね」 「お庭?」 「お庭?」 私は、自分の話題であったので、当時の恥ずかしさを思い出しつつ、二人に尋ねた。その時、丹皓が零した奇妙な言葉に、私はずっと引っかかりを覚えていたからだ。 「あー……、あのさ、母ちゃんが淫魔なのに、父ちゃんにばっかりどうのこうの、ってやつう……」 「んー?」 「んー?」 その日、丹皓は本を眺めつつ、書かれている淫魔の生態と、私が違うと言って悩んでいた。そして「どちらが言ってる事とも違う」と零したのだ。 二人は、私をたじろがせた日の事を、既に忘れてしまった様子だったけど、 「私に両方見せてご覧。書いてある事が違うのかい?」 私はベッドの上からひょいひょい、と丹皓の「魔術書」を取り上げて見比べてみた。 版によって、おりょうは改訂でもしてるのかしら。まめな事だ。 「丹皓が、まえ読んだのと、違うんだなあ」 「ふうーん……」 丹皓は子供特有のすっとぼけた事を言ったけど、私は、ある仮説を立てて、壮大に想像してみた。 この本は、おりょうの本であるので、様々に語訳され、あまねく世界に流通していっても、そのたびにおりょうが内容を変化させていってるんじゃないか。 人の記憶というのはあやふやだから、毎日、あるいは定期的に目を通してでもいない限り、いつの間にか内容が変わっていても、こんなに厚い本の全てを把握しているのは難しいし、気付かないまま、その新しい内容の方を覚え直してしまうのではないか。 おりょうのそんな魔力の届かない場所があるとすれば、ナルや私のような互角、またはそれ以上の力を持つ者の屋敷や塔くらいのもので、だから今、ここにある二冊の本の内容は違うのだ。 ……あとは、人の記憶の中。 ごく少数だけど、自分の記憶力に絶対の自信を持つ者もいて、 「丹皓は、一体前いつ見たんだい?あんた、こないだ生まれてきたばっかじゃないか」 「うーん、だって、まえだもん。ねっ、皐羽」 「皐羽は、知んない」 「えー」 丹皓は、首を傾げて悩ましい顔をした。
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