天蓋の星 2

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天蓋の星 2

天蓋の星2 強情だった雨がやっとあがって、空が明るくなった。 分厚く垂れこめていた雲が、山を這い上って向こうへ退散してしまうと、高原にはすぐに洗いたての光が射してきた。 人の多い、もっと下の街が晴れるにはもう少しかかるだろうけど、この高原は、雨が止めばすぐに軽やかな風が吹き渡り、雲や水気を払ってくれる。 「中屋敷」、人間の言う「魔界」の住人である私は、こんなように天気や季節が日ごとにめまぐるしく変化するというのにはじめすごく驚いた。 それまでは、日々安定した気候である事が良い事であると思っていた私であったけど、ここでいくらかの季節を過ごすうちに、時の流れと共に暑さ寒さが訪れて、一日のうちにも天気の変化が激しい、この高原は素敵だ、と思うようになった。 波打つように、少しの要素で良くも悪くも変化していく高原の姿は、人間そのもののようで、その事も私にはとても新鮮だった。 人間は、私達悪魔にはない柔らかさや、素直さに溢れ、いつでも私達の興味を惹き付けてやまない。だから、その弱さや単純さにつけ入る仲間もいて、我々悪魔は、人間を食い物にもするのだけど、私や、議長の大悪魔ナルは、そんな人間達に純粋な愛情を注ぐのである。 そう思ってきた。 つやつやした、湿り気の残った岩肌を降りてくる影が見えて、私は唇を綻ばせた。 でも、何食わぬ顔を作って、私は席を立ち、出迎えの支度を始める。 「よう」 「こんにちは。本当に伸(のぶ)は、雨のうちはやって来ないね」 「ああ、そうなあ」 扉を開け、のそりと伸が入って来た。 やや頭を下げないと入って来れず、彼はこの診療所へ入ると、ずっとどことなく窮屈そうに身体をちぢこめている印象だった。実際は、そんなに狭い建物では勿論ないのだけど。 せっかく雨もあがったし、伸はそんな状態で狭苦しそうであるので、私は周りの窓を開けていく。 閉め切った空間に二人きりで居るというのに戸惑うためでもあったけど、冴えた空気が部屋に流れ入ってくると、私達は少しお互いに正気を保っていることができた。 「毛並みが濡れる気がして、嫌なんだよなあ。もう、ヒトガタになって久しいのに、いまだにそう考えっちまう」 「そう。もう、時間があまりないのだから、天気を選り好みせずに、毎日勉強に来てくれると嬉しいんだけどね」 お茶を淹れてやり、私は今日の支度を続ける。 今は私の診療所だけど、ここは近い将来、伸の診療所になるだろう。元々は、ただの私の仮住まいであったのが、私の魔術を神通力や不思議な力と間違えた高原の皆が、私を神官のように扱い出して、段々と、ここを訪れるようになったのだ。 次第に、私の屋敷は診療所のようになり、私も良い気になって、人々の相手をするようになってしまったのを、私はそれを、この伸という男に任せる事にして、彼に色々なものを引き継ごうとしていた。 この部屋の、棚という棚にぎっしりと詰まった薬草や調合の道具、この屋敷ごと全部。 私の言葉に、伸はへらっと笑いつつ、 「ううん、じゃあ、勉強の間はここに泊り込んでも良い事にしようや」 そんな事を呟いた。 「おや、もう私を追い出すの?」 「そうじゃなくて、一緒に住んだら良いってこと」 「駄目」 なるたけ固い声で牽制すると、 「いやいやだから、お前さんなら屋敷の中に結界くらい張れるじゃないか」 伸は慌てて手を振ってとりなす。 彼は、私が悪魔なのを知っていた。 「第一、こんなおっちゃんがお前みたいな美人とどうこうできる訳ないじゃないか。皆だって怪しんだりしないよ……おりょうは生真面目だからなあ」 「……無駄口叩いていないで、さあ、お勉強しよう。早く始めたら早く帰れるよ」 「はいはい。全く、人あしらいがうまいよ」 私が急かすように薬草瓶の蓋を開け始めると、茶を飲んでいた伸は、重い腰を上げて寄って来た。 白髪混じりの短髪に、笑い皺の刻まれた柔和な目元を見詰めていると、伸は目をしょぼしょぼとさせ、携えてきた小さな眼鏡をかけた。 「まさか、老眼?」 「まさかって言うない。ヒトガタを維持するというのは、年寄りには段々と大変になるんだよ。最近めっきり視力が落ちた」 少し意地悪で訊いた事に真剣に返されて、私は口を噤んだ。伸は、熱心に草を選り分けている。 年齢のせいかもしれないし、元々こんなくたびれた風体だったようにも思う。 でも多分、それだけじゃない。 私のせいで、私が傍に居過ぎたせいで、彼は弱ってきている。 私が彼を愛すると、彼はヒトガタとしての永い命を失ってしまうのだ。
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