天蓋の星 3

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天蓋の星 3

天蓋の星 3 音楽を消して、仄かな灯かりのみを残す。 窓を開け、眺めあげていた空に私は包まれたくて、そっと扉を開いた。 水場のある裏庭へ回ると、なだらかな岩山の傾斜から、真上の満天の星空までをゆっくりゆっくり、首を動かして目に焼き付ける。 この、砂粒のような星の一つ一つがはっきりと澄んで瞬いている光景も、私の生活していた魔界では無いものだ。 いや、魔界でも、もっと澄み渡った清い土地では、見えるのかもしれないけど、中屋敷では、月ばかり大きくて、でしゃばっていて、ささやかな星の光など塗り潰されてしまっていた。 それを不思議にも哀れとも思っていなかった私は、本当の夜空の姿を、この高原で知った。 時折尾を引いて、空を駆けていくもの、一晩中、見る者を癒すようにきらめき続けるもの、そのどれもが儚くて、けれどかけがえのない確かな光の全てなのだ。 この空を知ってしまうと、私には様々な想いが胸を去来して悲しくなった。 やっぱり、人間の世界より、魔界は幾倍も汚れているのだということ、人間が好きで、判り合いたいという気持ちは、結局の所叶いそうもないということ、この空より美しい、と思える空を、私はもうこの世のどこにも見付ける事は、この先できないだろうということ。 この永い永い、悪魔としての生のうち、これ以上愛おしいと思える風景や、誰かに、もう出逢える事はないのだ、という確信に、私は途方に暮れた。 醜く、邪悪な気配を纏う悪魔は、人間やヒトガタ、人間界の良い環境で育った者の傍に居ると、きっと良くない影響を及ぼし、きっと無意識に言葉や力で呪縛してしまう。 強い呪いをかけてしまうのだ。 だから一緒には、長く居られない。 私は、星空を冷えるまで眺めると、部屋へ戻って仕事を続けた。 私はこの高原から去るにあたって、いざという時、高原の皆が困らぬよう、薬の調合の方法などを残しておこう、とちょっとした冊子を残そうと考えていた。 夜が更けて、一人屋敷で書き物をするのは、自分を見詰め直す貴重な作業だったし、不安や迷いを落ち着けるための、修練のようにも受け取れて、ちょっとした冊子作りのつもりが、どっしりと分厚い学術書のようになってしまっていた。 既に、この高原にはあまり関係のない、悪魔の生態辞典みたいな内容も収録されている。 私はそこに、別に確証などなかったけれど、さっき私が思った事、悪魔は、その汚れた血のせいで、愛した人間の寿命を奪っていくだろう、と書いてみた。 こんな分厚くなった本、どうせ読まれないだろうし、袋とじにでもしておけば、誰も気にも留めまい。 ……ううん、私は意図的に私の言葉をここに閉じ込めた。 私がここを離れなければならなかった不運を、愛することを諦めなくてはならない絶望を、誰かに知って欲しくて……誰かに伝染させたくて、私はありったけの呪いをこの本に込めた。 「意地が悪いな、私は……」 人間同士だって罵り合い、呪いの言葉を投げ合えば、それによって相手を死に至らしめる事はあるというし、悪魔が人間に執着する感情の中で、最も強いのもまた、人と同様に愛情なのである。 この本をいつか、高原の誰かが読んだら、私が不思議な力を持った神官様ではなく、恐ろしい悪魔であったと判って、皆は裏切られた不愉快な気分になるだろうな。 でも、本当に本当に困った事がこの地に起きたら、たとえ悪魔の私の言葉であっても頼りにして欲しい。そんな浅ましい気持ちも胸にあったし、それが伸であったら、より嬉しいと考えてもいた。 残り少ない頁を、書き進めていくうちに、視界が涙でぼやけていく。せっかく書いたものを、駄目にしてはいけない、と私は慌てて頬を拭った。 いずれ伸も、この本を読むだろうか。 読むと良い。 今、この時の私の憎しみと愛情を知って、失われた物と失わずにいられたはずの物の大切さに、永遠に後悔すれば良い。 彼を愛しているのに、愛しているからこそ、私はそのようなどす黒い感情に突き動かされて、記し続けた。 ずっと彼と居たいから、この本をここに残していこう。 そして先々も、彼の心の傷に私はなりますように。 この本を読んだいつかの誰かが、私のような絶望に囚われますように。 私は、ほろほろと涙を零す。 誰かを想って泣くなんて、まるで人間みたい、と自分に酔いしれながら。 私の指を伝う涙は、きらきら月に映えて輝いたけれど、それはとても冷たい光だった。
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