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天蓋の星 4
天蓋の星 4
伸によると、ここ高原は避暑地であるので、これでも他の地域に比べれば幾分も涼しく、夏は過ごし易いという。
けれど、季節の変化が激しく、様々な気候が巡ってくるなんて場所に暮らしたことのなかった私は、この高原に夏がやって来ると、すぐ参ったものだ。
悪魔だから、物を食べなくても死ぬことはなかったけど、何をするにもすぐに身体がいう事をきかなくなり、気力が失せてしまうので、私は診療所ではこっそり魔術を使い、いつでも室内を快適な温度に保っていた。
「先生の所には、冷房がどこかについているの。大都会では、天井から冷気が霧になって降りてくるような機械があるって、父ちゃんが言っていたけど」
「ああ、うん。まあそんなものだよ」
今日は、伸と一緒に小さなお客様が来ていた。
代々続く、老舗旅館の一人娘で、彼女はいずれそこの女将として、大屋敷を切り盛りするようになるだろう。
彼女は幼い、私と伸の友人で、私がもうすぐこの地を離れて、ふるさとに戻ると言うと、とても残念がってくれた。
伸は今、彼女のために氷菓子を作ってやっている所だった。
高原の深い山から豊富に湧き出る水を凍らせて、さらさら薄く削り、器にふんわり盛り付けると、色んな味の砂糖蜜をかけて食べるのだ。
この氷菓子も、私はここへ来て初めて知った。なんという事のない、ただの氷と蜜だけなのだけど、綺麗に澄んだ水は、とても柔らかくて甘い氷となるので、私は時々、自分でも凍らせて、氷だけを舐めた。
後にも先にも、味のない氷だけをおいしい、と思ったのは高原に居る間だけだった。
暑さを凌ぐための様々な工夫も、魔界に居たままでは決して知る事のなかった私は、この土地へ来て、本当に多くの事を自分の内に吸収し、糧にすることができたものだ。
「今度は、先生はどこへ行くの?また、お医者様の居ないような所へ行って、皆を助けるんでしょ?」
「ああ、そうだね……涼しい、北の方の島にでも行こうかな」
「そしたら、今度は寒過ぎて、やっぱりここの方が良かったってなるさ」
「そうね」
高原の皆はどうしてか、私がここを離れるのは次にどこかへ行く所があって、そこでも不思議な力で人々を助けて暮らすのだと思い込んでいたので、淋しいけれど、盛大に送ってくれた。
彼女と私の会話に、氷を削っていた伸が時々、口を挟んだ。彼女はおしゃまで、
「伸先生、口を動かす前に、手を動かしてちょうだい」
「はいよ」
などと、健気な伸を急かしたけど、私は、今の言葉はもしかして、私にここに居て欲しいっていう、秘密の暗号かしら、なんて甘い夢を見たりした。
「嬢ちゃんは、甘いの、なにが良いんだい」
「めろん」
「おりょうは?」
「私は、赤いの」
三人で氷菓子を裏庭で食べた。
これを食べ終えたら、彼女を旅館へ送り届け、伸にこの診療所を引き渡す。荷物はあらかた中央へ戻してしまい、私の元へはトランク一つが残った。
私はここで良く着ていた、藤色の着物をこっそり、白衣の仕舞ってある戸棚の奥へ押し込んだ。
持って帰る勇気は、この時の私にはなかった。
徐々に日が陰り、弱まった光が地平の向こうへ渡っていくと、賑わいのある街が、少しづつ静まっていこうとしていた。
私達は言葉少なに、形を無くそうとする氷のかけらを一口づつ口に運んで、その仄かな甘みと冷たさこそが、今ある確かなものであるのだと身体に染み渡らせた。
今日という日が、永遠に続けば良いのに。
私達はどこへも進むことなく、この想いもこれ以上溢れることなく、ずっと大切に抱き続けていければ良いのに。
そうしたら、あなたを弱らせていくこともなく、私達はまだ一緒に居られるかもしれないのに。
ずっとこうしていたいのに。
今この時が、終わらなければ良いのにな。
++++++++++
天蓋の星空の下、裏庭に魔方陣を描く。
細い枝で地面をひっかき、別れの扉を呼びだしていく。
私がゆっくりと庭を移動するのを、水場のベンチに腰掛けつつ、伸は目で追っている様子だった。
彼は時折、私が渡した厚い本をぱらぱらと見る素振りをしていたけど、内容にはあまり興味がないみたいだ。それで良かった。
お嬢さんを旅館へ送り届け、皆に挨拶を済ませると、私と伸は黙って診療所への坂を上った。
零れ落ちてきそうな星々に包まれて、夕暮れに感じたみたいに、今この時が終わらなければ良いのに、と繰り返した。
ゆっくりゆっくり、いつもの倍はかけて坂を上り、いくつもの細かい手順を踏んで魔方陣を完成させる。
私というものが、この高原にほんの少しの間だけでも暮らしていたのだと、胸に刻むように、私のぞうさくを目に焼き付けるかのように、伸は私を見詰めていてくれた。それだけでも私はとても嬉しかった。
じりじりと、線を描きながらも、心ではずっと、魔方陣を失敗してしまおうか、心残りを果たそうか、そう思っていた。しかし、私の印は有能で、私が戸惑っているうちに、神々しい光を放ち始めた。
夜の庭が照らされだすと、やっと伸は腰を上げた。
時間が無い。
私は、弾かれるように彼に駆け寄った。
近付くと、互いの顔が良く見えた。
私は、何か言いたいことでもあるのだろうか?
それともしたいことが?
反対に何か聞きたい言葉があったかな。
して欲しかったことが。
「おりょう」
「なに」
伸が私を呼んだ。早口の私に対して、伸はいつもの通りの優しさと柔らかさで、
「ありがとうな」
そう別れの言葉を口にした。ああ、間違いなく別れの言葉だな、と感じた。
一瞬のうち逡巡して、私は彼にひとつ口付けた。
ありったけの想いと言葉を込めて、唇を押し付けた。
伸が、私を抱き締めて応えてくれる前に、身を翻すと、私は魔方陣に駆け戻る。
そのまま振り返らずに、光の中に飛び込んだ。
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