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木枯しの吹き始めた秋の夜、神殿の地下遺体安置所には、その日亡くなった貴族の年配女性の亡骸が台の上に横たわり、それを囲むように数人が作業に掛かっていた。
小さな揺れる灯りの下で、死者の死装束への着替えから、死化粧まで、家族から依頼された業者が黙々と作業を熟している。
「大分寒くなってきて助かったよ。」
鼻と口を覆うように布を掛けて頭の後ろで結んでいるが、腐敗の始まった死者は臭うのだ。
「夏場はきついからね。それと、日にちの経ったのも。」
言わずもがなな事実だが、これを愚痴らずに作業は出来ない。
いくら仕事でも、やはり死者に触れるのは気味が悪いし、皆怖いのだ。
リーハも例外ではないが、冷たく固まった死者の手を取りながら必死に仕事をしているので、同意する余裕もない。
「まあ、顔近づけて細かい作業するリーハが一番辛いだろうけどね。」
同僚に労われて、リーハは少しだけ目を上げると苦笑を返した。
酷い時は、吐き気を堪えて作業する時もあるくらいだから、確かに今日のお客さんはまだましな方だろう。
リーハは、手指のマッサージから爪磨きやお手入れから装飾や染色を専門に行う指先の染色師だ。
「どれどれ、今日も綺麗に花が咲いたな。」
もう一人の同僚が手元を覗き込む。
「器用なもんだよ。あんな小さな爪にさ。」
顔に化粧を施していた女性の同僚がそう言って褒めてくれる。
リーハは、それに布で隠れた口元に小さく微笑を浮かべた。
「人生の最後の旅立ちなら、これまで沢山使ってきた指先には、ご苦労様って感謝を込めて綺麗なお花を咲かせてあげたいなって。」
小さな声で呟くように言うと、温かな笑みが返ってきた。
「良い子だよ、あんたは。早いとここんな死者様のお相手じゃなく、華やかな生者様のお客様が沢山付くと良いんだけどね。」
言われてリーハは、小さく首を振る。
死者の死化粧の追加項目に加えて貰っているリーハの爪装飾は、貴族の主に女性達に最近人気が出て、生前の遺言からの依頼や家族からの依頼で、そこそこの稼ぎになる。
だが、あくまでここまで徹底して装飾出来るのは、死者だからだ。
固まる前に胸の前で組まれていた指の爪をそっと磨いて、先の尖った道具で絵を彫ってそこに極細の筆で色を入れる。
その上から絵の消えない透明度のある薄色の付いたクリームで爪全体を覆って、薄めた樹液を塗って艶を出して固める。
これを生きた人の爪に施すことは出来ない。
どんな人でも指先は使う為にあるものだ。
どれ程綺麗に飾っても、洗えば消えてしまい、身体に毒になるかもしれない絵具や樹液を付けることにお金を出す者はいない。
生者相手には、お手入れと爪磨きと、食物由来の色付きのクリームを塗るのが精々だ。
これでは、大した料金は取れない。
「死者の国を彩るという幻の花、幻夜草か。神殿の薄れた壁画やら透かし彫りにあるあれから、リーハがデザインしたんだろ?」
死者の爪に描く幻夜草は、確かにリーハの想像の賜物だが、葬儀の度に多くの弔問者がそれを目にして褒めそやしていくのだそうだ。
「生前どんな人であっても、変わらず死者の国に旅立つのなら、そこでは幻夜草に包まれて、穏やかに過ごせる方が良いでしょう?」
リーハはそう願いながら、描くことにしている。
「さて、それじゃそろそろ終わりにしようかね。今日のお客様も綺麗に仕上がったよ。」
同僚に声を掛けられて、作業もあらかた終わっていたリーハは道具の片付けを始めた。
と、安置所への階段を降りてくる足音が聞こえてきた。
リーハは、どきりとしながら急いで道具を仕舞うと、同僚の女性の側に行く。
それに気付いた同僚の女性は苦笑しながら、リーハの頭を撫でてくれた。
しばらくすると、安置所の中に、若い男が一人駆け込んできた。
「大叔母さん!」
思わず声を上げてしまったというように、男はリーハ達に気まずそうな顔を向けた。
「あー、旅立ちのご用意は終わりましたので、わしらは失礼いたします。」
同僚がそう声を掛けて、皆でそそくさと立ち去ろうとする。
「済まない。綺麗にしてくれたのだな。これは・・・幻夜草?」
男はリーハの描いた爪の花を目にしたのだろう。
「はい。」
リーハは仕方無く、小さな声でそう答える。
「優しい花だな。」
男はぽつりとそう呟いて、死者の前に跪いて祈り始めた。
リーハ達は、そっと安置所から出ると、階段を上って行った。
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