第56章 お姫様の初ダンスと求婚

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女帝の退席した大広間は、一時騒然としたが、宰相やナイビア公爵の取りなしと楽団の楽しげな演奏に徐々に騒ぎは収まっていった。 「さてさて、せっかく広間のど真ん中の目立つ場所で演出が出来たのに、今のですっかり食われてしまったな。」 ハインが小声でそう呟くのに、ティンは苦笑を返す。 「それでも、なかったことにはなりませんから。」 事実は事実として今後の布石になる筈だ。 「それはそうだが、女帝陛下はただお疲れが出ただけならば良いがな。」 意味ありげに言ったハインにティンも頷きながら、女帝や親衛隊達と一緒に去って行ったリーハの後ろ姿を脳裏に蘇らせた。 「で? お前は今日も踊り通すのか?」 ハインの揶揄うような言葉に、ティンは顔を引きつらせる。 「まさか。今日はリーハだけで十分です。というか、リーハとのダンスでお腹いっぱいなので、謹んでご遠慮します。」 その返しに、ハインは口の端を上げて笑った。 「滞在可能期限は、長くてあと3日だ。ミルレイのことも考えると、お前の方もそこが限界だろう?」 ティンはそれに頷き返す。 「明日、彼女と話しをして気持ちが固まれば、もう一度2人でご許可を頂きにご両親方と女帝陛下をお訪ねしたいと思っています。」 それを忙しい方々を捕まえて3日以内に済ますのは、非常に心苦しいし無謀だとは思うが、もうリーハを置いて国に帰ることはしたくない。 「自力でやってみて難しければ、私が出て繋ぎを取ろう。だが、まずは自分の力で動きましたと見せ付けておけ。」 ハインの計略には淀みがない。 よく頭が回るものだと思うが、それだけ苦労してきたということなのだろう。 「畏まりました。」 そう答えて話しが終わったところで、こちら目掛けて真っ直ぐ近付いてくる人物に気付いた。 優雅に歩いて来る姿とは裏腹に、口元に浮かべた皮肉げな笑みと挑戦的な目、背後には大型の肉食獣か牙を剥いた大蛇でも背負っているのではないかという威圧感を滲ませている。 ベニファルト公爵レスディアスだ。 昼過ぎハインの客間を訪ねてきた時よりも笑みが大きく、威圧感が強い。 はっきりと敵認定されているような目は、やはりティンを真っ直ぐ向いて固定されている。 ここからが始まりと言えるのかもしれなかった。 「大丈夫です。ダンスをしている暇など与えて貰えなくなりそうですから。」 ぼそりと零したティンに、ハインは小さく吹き出しそうな笑いを漏らした。 「これはこれは、ハイン王太子殿下とお供の方々。」 このわざとらしい言い方が、もう宣戦布告なのだろう。 因みに、舌戦などに持ち込まれたら、勝てる自信などまるでない。 「今宵はお楽しみ頂けておりますでしょうか?」 「ええ。女帝陛下のお加減は心配ですが、流石は帝国の宮廷晩餐会とこうして楽しませて頂いておりますよ。」 ハインも卒なく返して、広間を見渡すような仕草をする。 「いやいやそれにしても、我らが皇太子殿下も困った悪戯をなさる。帝国一大事な姫君を、晩餐会の余興に使われるとは。出席者の目は楽しませたかもしれませんが、せっかく滅多に夜会に出席しない姫君が然るべき男性達と親交を深める間もなく退席される事になってしまった。」 返したレスディアスの嫌味が凄い。 あれだけ目立つ求婚を余興だと言い切ったのだ。 「余興かどうかは、姫君がどう感じてどうされるかでしょう。人が大事にしてきた過去を踏みにじる行為は、如何なものでしょうか。」 ハインは挑発に乗らず丁寧にそう返しているが、内心はかなり怒っていることだろう。 そこは、付き合いの長いティンには良く分かる表情だった。 「これは、少々言い過ぎましたか? お気を悪くなさらないで頂きたい。ですが、こちらも大事な姫のこと。軽々しくあのようなお振る舞いは二度と止めて頂きたい。」 レスディアスはこれははっきりとティンの方を向いてそう告げた。 どうやら、帝国宮廷を思いの外怒らせてしまったのかもしれない。 レスディアスは代表してこちらに抗議をしにきたのだろう。 これには少し申し訳ない気持ちが持ち上がるが、リーハとのことを諦められない以上、何を言われても聞き流すしかない。 「これは、老婆心ながら申し上げておきましょうか。帝国一大事だという姫君は、色々な分野で大変能力の高い方だ。だが、自分のご意志ははっきりされている。それを曲げてまで何かを強要しようとすれば、全てを投げてしまわれるか、殻に閉じこもってしまわれるのではないでしょうか?」 だから、リーハは暗殺者に自分の殺害依頼をした訳だが、彼はそれを知らないのだろうか。 「期待をする程のものを抱える人には、それに相応しい受け皿が要る。欲しいものだけ引き出そうとすれば、周りを壊すか自分を壊すか。人というのはそういうものだと私は心得ておりますよ。」 ハインはそう語ってレスディアスに目を向ける。 と、レスディアスは険の取れた顔で苦笑している。 「成る程、ハイン王太子殿下はお年の割にご苦労されていらっしゃるのでしたね。」 レスディアスはそうハインに向かって述べてから、ティンにまた目を向けた。 「今回は多めに見よう。だが、君にはうちの姫は勿体ない。我が国が今非常に微妙な状況だということは分かっているだろう? 今、君や姫が迂闊な行動を取ると、帝国貴族全体から反発を食らって、それがこれからこの国を背負って立つ両公爵家への批判に置き換わり兼ねない。しばらく大人しくしておくことだ。」 これには、ティンもはっと目を見開いた。 レスディアスは、これから帝国を担っていく皇太子エディルスへの帝国貴族達からの反発を案じているのだ。 「済みませんでした。少々軽率な行動だったかもしれません。ですが、私達にとって待てる問題でもないことはお分かり頂けると存じます。」 この婚約に次も待ったも出来ないのだ。 それは申し込む機会としても、2人の年齢としてもだ。 「時期が悪い。どうしても姫と結婚したいなら、帝国貴族の上流の家柄に養子にでも入ればまだ見込みがあるかもしれないな。」 レスディアスはそう何処か冷たい口調で言うと、やっと視線を外した。 「それではハイン王太子殿下、ここからもどうぞごゆっくりお楽しみ下さい。」 そう淡々と告げると、レスディアスは踵を返して去って行った。 その後ろ姿は堂々としていて微塵も揺るぐことがない。 「これは手厳しい。帝国貴族を代表して抗議のようですね。」 そう声を掛けてきたのは、別行動を取っていたキルティス大使だ。 「ベニファルト公爵は、オルケイア公爵と同年代。ですがあの若さで財務局の副局長を務めるやり手だそうです。恐らく帝国で今一番発言力のある公爵閣下ですよ。」 キルティスの苦味のある言葉に、ハインも肩を竦めている。 「エディルス殿下のことを持ち出していますが、オルケイア・ナイビア両公爵家の威信はちょっとやそっとでは失われませんよ。その二家が擁護するエディルス殿下のことも、他の候補だった皇子達が排除された時点で、その地位は不動のものとなったも同然です。」 そう言うキルティスの言葉を信じるとしたら、ベニファルト公爵の忠告の意味が分からない。 「ベニファルト公爵は、リーハ姫が惜しいと思っておいでなのでしょう。元々帝国にその存在が知られていた訳でもないリーハ姫ですから、居なくなっても本当に困るという程ではないのでしょうが。確保しておけばいざと言う時に潰しが効くといったところでしょう。」 その解説には、ますます訳が分からなくなる。 「ですから、ベニファルト公爵が個人的にリーハ姫に思い入れがあるという事かもしれません。」 「いやいや、だからと言って姫を帝国に留めたとしても公爵は既婚者でしょう?」 バルが黙っていられなかったのか、口を挟んで来る。 「薬師達の口振りでは、リーハは宮廷でも有能と有名だった。ベニファルト公爵が欲しいのは、私やサータが望んだように、その能力なのかもしれないな。」 ハインの言葉には、皆が成る程という顔になる。 「でも、帝国で結婚して家庭に入るなら、貴族の奥方様が外で能力を振るうことなどなくなるのでは?」 難しい顔で小首を傾げるバルに、ハインは苦笑を返す。 「社交界でその能力を発揮することを期待されているのか、公爵家側の人間として実質的な宮廷参画を期待されているのか。いずれにしろ、その気になれば、何でも熟すだろうな。だがあくまでも、リーハ自身がその気になればだ。」 纏めたハインの言葉に、今度こそ皆が何となく納得した顔になった。
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