第56章 お姫様の初ダンスと求婚

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女帝の表宮にある執務室に併設の休憩室で横になった女帝を、医師室長とルイド副薬室長が診察している。 それを一歩下がって見守るリーハに、ルイドが振り返った。 「室長、最後の一粒をお飲み頂くしかございません。」 ニンファが幻夜草(アンカーネン)から作った薬も最後の一粒になっていたのだろう。 「陛下のこの病に効くのは、これしかないようなのです。」 医師室長も振り返って溜息混じりにそう告げる。 ルイドからは何かを促すような期待するような目を向けられるが、こちらも最後の一粒だった幻夜草(アンカーネン)の種を判定薬を作る為に使ってしまったところだ。 「もう、作成は不可能なのですよね?」 念を押すように医師室長に訊かれて、リーハは頷き返す。 「良いのです。」 女帝が少し苦しそうにしながらも、医師室長とルイドに取り成すような声を掛ける。 「リーハ。こちらへ。」 続いて呼ばれたリーハは、ルイドと入れ替わるように女帝の側に寄る。 「思ったよりも、時間がありませんでしたが。それでも貴女のお陰で、この国の未来に希望を見出すことが出来ました。次にこうなるのがいつか、その時が本当の最期の時となるでしょう。それまでに、せめて貴女には、約束通り自由をあげなければなりませんね。」 苦しそうにしながらもそう告げる女帝に、リーハは眉を下げる。 幻夜草(アンカーネン)が絡まなければ、薬師としては役に立たないリーハでは、女帝の病を治すもしくは抑える薬を開発することは今すぐには出来ない。 「陛下、お役に立てず申し訳ありません。」 素直に謝ったリーハに、女帝は冷や汗の滲む目元を緩めた。 「幻夜草(アンカーネン)は、先人達が長い時を掛けて研究を重ねてきた集大成です。一朝一夕でそれを超える成果など出ないことは分かっていましたよ。自分を責めてはいけません。」 苦しいだろうに、そう気遣ってくれる女帝に、リーハは泣きたくなる。 この帝国に来てから、女帝自身と関わったことは数える程しかない。 だが、揺るぎなく帝国を支えてきた女帝が居たからこそ、保たれて来た秩序があったのだと思う。 「申し訳ございません。」 もう一度そう口にしたところで、水と薬の用意が整ったようだ。 ルイドとまた場所を入れ替わって、支えられて上体を起こした女帝が薬を服用する。 部屋の中に焼き立てパンの匂いが漂った。 ニンファが記録帳に書いていた記述を思い出す。 世代を追う毎に変質していく幻夜草(アンカーネン)の行き着く先はどこなのだろうか。 リン・ヴェルダ・ヴィーラの王都で、あの小さな温室でニンファは焼き立てパンを再び作り出そうとしていたのではないだろうか。 それとも、第一世代に遡る種を作る研究をしていたのか。 だが、実際にはあの温室には白い綺麗な花を咲かせるが毒素を持つようになった世代の進んだ株しか栽培出来なかったのだとしたら、本当に見込みは無かったのだろうか。 薬を飲み下した女帝は、ほっとしたように深い呼吸に戻っている。 様子を確かめたルイドから、女帝の容態が安定したことを告げられて、一先ず女帝の休憩室を出ることになった。 「陛下が前回服用されたのは半月前です。」 廊下を歩き始めたところで、ルイドが沈鬱な表情でそう言い出した。 「発作が起こるのは、定期的ではないのです。その間隔は短い時もあれば長い時もある。読めませんが、もう時間が残されていないことだけは確かですね。」 医師室長が引き継ぐようにそう言って、重い沈黙が流れる。 「その、ニンファ室長の記録帳には、何か他の手段を模索していたような記載はありませんでしたか?」 ルイドにそう訊かれて、リーハは記録帳の内容を頭の中に呼び起こしてみるが、こちらも苦味のある顔を止められなかった。 「幻夜草(アンカーネン)の次世代株から陛下にお渡しした薬の調薬方法は詳しく記されていました。ですが、代替薬の開発に取り組んでいた様子はありましたが、どれも結果は芳しくなかったようです。」 その答えに、2人の顔に落胆が広がった。 「後ほど、ルイド副室長には記録帳をお見せしましょうか。」 そう申し出たリーハに、ルイドは苦笑を返して来た。 「いえ。実は陛下の命で一度見せて頂いた事があるのですが・・・。その時は幻夜草(アンカーネン)の栽培について調べていた訳ですが。その、独特な表現で私には解読が出来ませんでした。」 言われてリーハも思わず苦笑してしまう。 ニンファは自分が感じた匂いを元に感覚的な表現で記録を付けていたので、匂いが分からない人には全く何のことを言っているか分からないのだ。 逆に、リーハには薬師としての知識や技術が足りないので、匂いを他に置き換えて誰かに伝えることは難しい。 時間を掛けて、ニンファが実際に行った研究を再現してみれば分かるだろうが、それには時間が足りない。 女帝にもリーハ自身にも時間がないのだ。 「八方塞がりですな。」 ルイドが苦い口調で結論付けて、医師室長も肩を竦めた。 リーハもやり切れなくなって、床に視線を落とす。 そのまま廊下の外の闇に沈む景色のように暗澹とした気持ちで薬師室までの道を進んだ。 「室長は、もう自室にお戻りになってお休み下さい。まだ夜会は続いているかもしれませんが、あちらには戻られるおつもりがないでしょう?」 ルイドにそう優しく声を掛けられて、晩餐会を中座していたことを思い出した。 そして、ティンカンとのことやヴァンサイスのリーハに向ける異常なまでの執着のことも脳裏に蘇った。 とても良い事と悪い事というのは、いつも隣り合わせにあって、その時それをどう捉えられるかで、先の展望は変わる。 自分の力で女帝を助ける手助けは出来なくて、気持ちは沈む一方だが、何があっても気持ちに振り回されずに最善の道を選びたいなら、自ら動いてでも前向きな思考を取り戻すべきだ。 受け身でいても良い事はない。 「そうですね。少し気持ちの整理を付けてきたいと思います。その上で、本当に自分に出来ることはないのか、何か見落としていることはないのか、わたくしにとっての最善を見つめ直します。」 そう宣言したリーハに、ルイドは呆気に取られた顔になる。 「えっと? 今日はもうお休みになられた方が宜しいかと申し上げましたが?」 「薬室長としての本日の業務は終了致します。ですから、これからの時間は、わたくしの個人的な時間で宜しいですね?」 そう返すと、ルイドはまた目を瞬かせた。 医師室長も何か面白いものでも見付けようとするような顔になった。 「はあ、まあ。ですが、くれぐれも無茶はお控え下さいね。」 忠告するルイドに、リーハはにこりと微笑み返した。 取り敢えず、これからする事を頭の中で整理して行く。 「では、副室長、医師室長、お疲れ様でした。」 廊下の分岐点でそう告げると、2人は曖昧な笑顔で挨拶を返してきた。 それに頷き返してから、リーハは2人と別れて歩き始める。 「姫、どちらへ参られるおつもりです?」 問い掛けて来るのは、少し離れて護衛を続けてくれているイミールだ。 他の2人も近付いて来ながら問うような目を向けて来る。 「今このような状況でも、わたくしには出来ることがありません。不甲斐なくてもどかしくて堪りません。ですから、明日前向きになる自分を作る為に、一番したいことをしようと思います。」 3人は怪訝な顔を向けて来る。 「つまり?」 キーニンが代表して問い掛けて来る。 「会いたい方に、会いに行きます。」 そう宣言してしまうと、少し恥ずかしい気持ちも持ち上がるが、ここは顔が赤いかもしれないことは気にしないことにして、胸を張っていることにする。 「・・・は? こんな時間にですか?」 ユディットが半眼気味に返して来る。 「夜会から引き上げてしまわれたかどうか分かりませんが、まだお休みでなければ会って下さると思うのです。」 「では、彼の部屋をこんな夜更けに訪ねるということですか?」 引きつった顔のキーニンは、明らかにリーハのその行動に引いているのだろう。 だが、今日はここで引き下がるつもりはない。 「はい。リン・ヴェルダ・ヴィーラの王宮で暮らしていた頃は、わたくしが婚約をお受けする前から、毎日日中のどこかの時間で。それでも時間が取れない時にはお仕事の済まれた夜にも訪ねて下さっていたんです。」 これには、3人とも明らかに引きつった顔になる。 「ただ、少しだけお話しするだけなのですけれど、その時間があったから、わたくしは前向きになれました。ですから、今日も少しだけ彼に力を貸して欲しいんです。明日からまた頑張れるように。」 そうにこりと微笑むと、3人には何故かむっとした顔をされた。 「あの、皆様には夜中にそんなことの為にお付き合い頂いて済みません。」 いつまでも付き合わせていることは本当に申し訳ない。 「えー、いえ。我々が付き添うのは当たり前の事ですから全く構いませんが。あの男が姫に不埒なことをしようとしたら、殴ってでも止めて宜しいですよね?」 そう確認して来るユディットの目が何故か暗い。 「えっと、久しぶりにお会いしたばかりですから。皆様の前では控えますね。」 ふいとコルスアックを旅していた頃に、ティンカンと交わしたキスを思い出して、顔が熱くなる。 自分で口にしておいて、流石に恥ずかしくなってしまったリーハは少し俯く。 「姫、やはり明日夜が明けてからということにしませんか? 夜は人の行動が大胆になる傾向があります。万が一があって、もしくは無くてもそれを疑われるような噂が流れるのは宜しくない。」 咳払いから入ったキーニンの言葉に、リーハは小首を傾げる。 「でも、キーニン様達が付いてきて下さるのでしょう?」 そう問い返すと、3人には微妙な溜息を吐かれた。 「今、ほんの一瞬だけ、あの男に同情する気持ちになった。」 ぼそりと他の2人に告げるユディットの言葉に2人が頷き返していて、リーハはまた首を傾げることになった。
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