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夕方女帝の診察があるからと部屋に帰ることになったティンだが、その後に妙な条件付きで夕食に誘われることになった。
曰く、側近に服を借りて変装をしてきて欲しいということと、粗食でも構わないかということだった。
妙なお誘いだと思いながらも、リーハが望むことならば、そうしたい理由があるのだろうとそれに従うことにした。
「正式な婚約は結べなかったけど、こっそりお祝いの夕食会なんでしょうかね。」
リーハに指定された待ち合わせ場所に向かうところで、エルクがそう声を掛けてきた。
「さあ。何が待っているか逆に楽しみになって来たよ。」
ティンがそう返すと、エルクには肩を竦められた。
「仕方が無い。今日のリーハ様の様子を見る限り、いずれはティンカン様が尻に敷かれることは決定だ。ナイビア公爵とのやり取りをみても、ティンカン様はリーハ様に口では勝てない。」
ガルンに何やら確信を持った口調で言われるのは少々ムッとするが、リーハが相手では尻に敷かれるのも悪くないと思ってしまう。
確かに、リーハは独自の理論に基づいて譲らないところでは絶対に譲らないが、それは理由があってのことだ。
ただ我儘を通している訳ではないのだ。
「俺達も一緒で本当にいいんですか?」
コウレルが酷く困惑した様子になるのも無理はない。
本来なら公爵家のお姫様であるリーハと食事を共にすることなど、騎士身分のコウレルや以前のティンカンでも有り得なかった話しだ。
「だから、私に変装して粗食でも良いかと訊いて来たんだろう。大丈夫だ。」
そう保証するが、やはりコウレルは釈然としない表情だ。
以前のリーハを知らない者には、今のリーハの姿を見て、街で俯きがちに歩く職人の姿は想像も付かないだろう。
待ち合わせ場所では、薬室長ではない薬師のローブを着て、その下も簡素な服装を身に付けているリーハが待っていた。
それでもいつもよりも距離を取って、親衛隊のキーニンが護衛に付いているのには苦笑してしまった。
「ティンカン様、今晩は。」
「今晩は、リーハ。」
そう答えると、リーハがさっとティンの手を取って引くと、廊下を歩き始めた。
その自然な動作に、ティンは驚きながらそれに従った。
しばらく動揺を抑えて歩く内に、コルスアックではこの距離感だったことを思い出した。
「びっくりしないで下さいね。」
にこりと飾らない笑顔を向けて来るリーハがそれでも眩しくて、目を細めてしまう。
もうどんな顔をしているか想像のつく側近達の方は振り返らない。
好きなだけにやにやしてくれと開き直ることにした。
しばらく薄暗い廊下を歩いて、辿り着いた先は厨房のようだ。
入り口からそっと中を覗いたリーハは、ティンの手を引いて中に入って行く。
「あ、リーンさん! じゃなかったリーハ様いらっしゃい!」
厨房に勤めるには幼い子供が、元気よくリーハに声を掛けて駆け寄って来る。
「レッタル! 無事で良かったわ。いつこちらに戻ってきたの?」
リーハはティンと繋いでいた手を離して少年に目線を合わせるように少しだけしゃがむ。
「昨日だよ。ナイビア公爵様に3日くらい前に帝城の厨房に戻りたいかって聞かれたんだ。ナイビア公爵邸の厨房でも凄く皆に良くして貰ってたんだけど、俺はやっぱりメイカム料理長の側で学びながら恩返しもしたいしさ。戻りたいってお願いしたんだ。そしたら、昨日の夕方迎えが来て馬車で通用門まで送ってくれたんだ。」
リーハは少年とのやり取りにほろっと来たのか、目頭を拭っている。
ティンはそのリーハの頭を髪を乱さないようにそっと撫でた。
「あれ、知らない人だね。誰?」
少年は、ティンと後ろから入ってきた側近達に驚いたような目を向ける。
「あの、ね。今日は厨房の皆さんにお礼を言いに来たの。」
そう言葉を選ぶように告げるリーハに、少年はキョトンとした目で首を傾げた。
「リーハ様! あ、やっぱり連れてきたんですね? 何となくそんな気はしてたんですよー。」
と、厨房の奥から声を掛けてきたのは、昨日謁見の間の前廊下で会った年若い薬師だ。
「ハディルト?」
そう問い返すリーハの言葉で名前を思い出した。
「えーと、ティンカン様でしたっけ? リーハ様の婚約者さん。」
そう返してきたハディルトに、奥のテーブルから料理人達が身を乗り出してこちらに視線を向けて来る。
「ハディルト、不躾だろ? そういう言い方は。」
そう取りなしているのは、薬師とは少し違う意匠の白衣を着た医師のようだ。
「わあ、リーハ様の婚約者さん、凄く素敵な方ですね! 日避けの帽子を被ってお手製美容液を開発までして、綺麗になりたい理由が分かる!」
今度は薬師姿の女性に言われて、こちらも照れ臭くなってしまう。
「エリイラ。リーハ様の婚約者様だぞ?」
隣から少々ムッとした声が上がったが、その薬師にも見覚えがある。
確か、廊下でハディルトの発言に何かダメ出しをしていた薬師だ。
「えー、何だ。料理長が今日の賄いに滅茶苦茶気合い入れてたから何事かと思ったら、リーハ様の婚約者さんが来るからだったんだぁ。」
最初の少年が、ティンを頭の先から足の先まで観察するように眺めながら言う。
その少年を後ろに引っ張って、料理人がリーハに頭を下げて来た。
「リーハ様、どうぞ。こんなところへ来て頂いて婚約者殿に失礼ではありませんでしたでしょうか?」
その料理人に言われてリーハは首を振ってからこちらを振り返る。
「ティンカン様。メイカム料理長です。今日は、こちらで一緒に賄い夕食を頂いて、皆にティンカン様を紹介したくて。」
そう告げるリーハは途中で恥ずかしくなったのか、顔を赤くしている。
「リーハがお世話になった人達?」
そうそっと声を掛けると、リーハはこくこくと頷く。
「とんでもない。リーハ様は、私の命の恩人です。」
メイカム料理長がすかさずそう口を挟んできて、ティンは微笑む。
やはりリーハには、この帝城にも直ぐに味方が出来たのだろう。
「リーハの婚約者のティンカンです。こちらの皆様には、リーハがお世話になったそうで、お礼を言わせて頂きます。」
きちんと頭を下げてそう告げると、厨房内に響めきのような声が起こった。
「そうか。リーハ様が寂しくて泣くほど大好きな婚約者さんが貴方ですか。」
言ったのは、医師の格好をした男だが、こちらに向けて来る視線は少し厳しい。
親衛隊の3人程ではないが、リーハに淡い恋心でも抱いていたのかもしれない。
リーハはティンを振り返ってから、テーブルに近付いて行く。
料理人達と医師と薬師が3名、リーハやティンと側近達が囲むとテーブルは手狭だったが、料理は賄いとは思えない程豪華だった。
「メイカム料理長、済みません。無理をお願いしてしまったみたいで。これは、もう賄いの域を超えていますね。」
申し訳なさそうに言うリーハに、メイカムがにこりと優しく微笑む。
「いえ。細やかにお祝いです。」
そう告げるメイカムに、リーハは何やら複雑そうな顔になった。
「以前、レッタルに無理を言って手を貸して貰った件なのですが。本当の事をお話ししますね。」
真剣な顔で前置きをしたリーハに、料理人達が居住まいを正した。
「あの方は、昨日立太子されたエディルス王太子殿下です。あの時は、どうしてもこっそりとお逃ししなくてはならなくて、ですから皆さまとレッタルの手を借りました。」
話すリーハに、皆が息を飲む。
「あれから、リーハ様は薬室長になってお忙しくてこちらにはいらっしゃらなくなりましたよね?」
料理人の1人がそう言い出して、リーハはそれにもまた複雑そうな顔で頷く。
「忙しかったのも事実ですが、エディルス様の囮になってくれたレッタルやこの厨房から敵の目を逸らす為でもありました。レッタルや料理長、皆様には本当に感謝しています。」
心から告げたリーハに、料理人達から温かな視線が返ってくる。
「いやいや、リーハ様が晩御飯を食べに来てくれなくなったから、俺達はちょいと寂しくなりましたけどね。頑張ってるリーハ様の噂を聞いて、またいつか食べに来て下さる時の為に賄いの腕を上げる努力をしてたんですよ。」
そこから料理人達の今日の賄い自慢のような料理の紹介が始まった。
早速食べるように促されたリーハが食事を始めると、美味しそうに幸せそうな顔で食べるリーハに料理人達が嬉しそうな顔になる。
その気持ちが分かって、ティンも隣でそんなリーハを眺めながら食事をした。
「実は、お部屋に運んで貰うご飯にはずっと毒が盛られていて。だから、夕食はこちらで頂いていたんですよ?」
そう小声で教えてくれたリーハは、とんでもない事実を告げた割には嬉しそうで、ティンもあれこれ聞くのは止めることにした。
食事が終わり掛けになった頃、リーハが少し緊張したような顔で俯いているのに気付いた。
「リーハ?」
そっと呼び掛けると、少しだけ不安そうな顔のリーハがこちらを向いた。
それから、何も言わずにリーハが立ち上がった。
「あの。今日は皆様にお別れを言いに来ました。」
そう言い出したリーハに、厨房内の全員が動きを止めた。
「私の薬室長としてのお役目は終わりで、宮廷薬師としても職を返上することにしました。今日、夕方女帝陛下にもお話しして、退職願いを受理して頂きました。」
皆がばっと顔を上げてリーハを見つめる。
「元々、私は条件付きで帝城に上がっていて、その役目が終わったので、辞めることになりました。」
「そんな。陛下にお願いしてもう少し続けることは出来なかったんですか?」
料理人の1人が言い出すと、他の皆も一斉に頷く。
「いいえ。私がお願いしたんです。私はこちらに来る前からずっとティンカン様と結婚したくて、でもお役目が済むまではと止められていました。冷やかしのように宮廷薬師になってしまったことが申し訳なくて。だから、せめて私に出来ることは妥協なく熟そうと頑張ってきました。」
少し沈みがちなリーハの言葉を皆がはらはらと見守っている。
「分かってますよ。でも、リーハ様は冷やかしなんかじゃなくて、立派な薬室長でしたよ。薬師室の皆がそれを認めてます。本当は皆辞めて欲しくないんですよ? でも、今日の夕方、副室長から招集があって、室長が退職を願い出られたって。寿退職だから、笑って送り出すようにって。室長は泣き虫だから。」
そう悪戯っぽく告げたハディルトに、リーハの涙腺が一気に緩んだようだ。
「皆さんが優し過ぎて困ります。」
涙声で言うリーハが愛おしくて、ティンはまたそっとその頭を撫でた。
この可愛らしくて愛おしいリーハを、任せて貰える下地が整いつつあることには、堪らなく満たされた気分になる。
お互いに我慢した時間は長くて辛いものだったが、これからは、しっかりと2人手を取り合って先に進んで行きたいと心から思った。
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