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厨房で豪華な賄い夕食を頂いて、集まってくれた料理人達やお世話になったハディルト達にも挨拶が出来て、ようやく一区切りが付いたような気がした。
長いようで短かった帝城での生活が終わりを告げる。
夕方の診察の後で、女帝とは今後のことを話してきた。
条件付きの婚約は、あくまでも表向きだと言ってくれた女帝の言葉に従って、リーハは明日にはオルケイア公爵家の屋敷に戻ることにした。
退職願いを受理した女帝は、しばらくの間薬室長は長期休暇を消化するという扱いにしてくれるそうだ。
その上で、はっきりと結婚が決まれば、本格的に退職の運びにしてくれるそうだ。
具体的には、リーハはやはり明日には帝城を辞して大使館に一晩泊まるハイン達と明後日一緒にリン・ヴェルダ・ヴィーラに行くことになった。
明日1日でオルケイア公爵邸で荷造りをすることになるが、そもそもリーハの私物はそれ程多くない。
ミルレイへ入った時に、オルケイア公爵家の者として見苦しくないくらいの体裁を整える必要はあるが、まだ婚約が正式に整っている訳でもないので嫁入り道具を整える必要もない。
身一つとある程度の着替えで十分だ。
感慨深い気持ちになって、厨房の中を見渡していると、ティンカンにそっと手を握られた。
「ごめん。せっかく仲良くなった人達がいたのに、寂しい気持ちにさせてしまったね。」
いつも気遣ってくれるティンカンの心遣いが嬉しくて堪らなくなる。
リーハは黙って首を振る。
大好きな人達に囲まれて、こうしてティンカンと隣同士で座って幸せを噛み締める日が来るなどとは想像もしていなかった。
何度も切なくなって泣いたことを思い出す。
「ティン。少しだけ厨房の裏の庭園に付いてきて貰えませんか?」
ふと思い付いてそう口にすると、ティンカンに驚いた顔をされた。
「今は、お忍びで私はオルケイア公爵家の姫ではありませんし、ティンもイムダイン家の辺境伯息ではありませんから。」
そうそっと告げると、仕方ないというように眉を下げられた。
「分かった。どうやって抜け出そうか?」
そう小声で返して来るティンカンは、少し悪戯っぽい声だ。
「では、堂々と。」
そうこちらも悪戯っぽい笑みで返すと、立ち上がった。
「リーハ様? どちらに?」
料理人に声を掛けられて、リーハはふっと微笑む。
「灯りを貸して下さい。ちょっとだけ裏の庭園に。」
そう告げると、一緒に立ち上がっていたティンカンに何故か皆の視線が集中した。
「えーと。エディルス殿下が亡命中は、ティンカン様も関わって下さったみたいで、気にして下さっていたので。」
何となく言い訳のようにそう口にすると、漸くティンカンに対する視線が緩んだ。
ホッとして席を離れて裏口に向かうと、厨房の隅に控えていたキーニンが付いて来ようとする。
「キーニン様。2人で大丈夫です。」
付き合わせるのも悪いのでそう口にすると、またキーニンが眉を顰めてティンカンに鋭い目を向けた。
「少しだけで良いですから。今はお忍び中です。」
流石にこのダメ押しは恥ずかしい。
赤い顔を背けていると、ティンカンが横に立ってくれた。
「申し訳ない。少しだけ2人にして欲しい。彼女のことは私が守るから。」
矢面に立ってくれたティンカンには申し訳ない気持ちになる。
でも、崖っぷちのあの場所で帝城での寂しかった想いにも一区切りを付けたかったのだ。
溜息と共に、キーニンが裏口の扉を開けてくれる。
ティンカンが灯りを持って外の庭園に踏み出す。
厨房の裏には、今もエディルスの為に用意してもらった折り畳み式の作業台がある。
「エディルス殿下は、私が知る前から、ここで一日たった一食のお食事をされていたんです。」
そう明かしたリーハに、ティンカンが眉を顰めて壁に取り付けられた作業台を見ている。
「厨房にお入れして敵に知られる訳にもいかず、壁にもたれて地面に座り込んで食べていらっしゃるのを見て、料理長に作業台という名目の折りたたみ出来るテーブルと椅子を取り付けて貰いました。」
「ある程度のことは、ご本人からお聞きしたよ。未だ幼くていらっしゃるのに、そのご苦労には胸が痛んだ。」
眉を下げるティンカンに、リーハも頷き返す。
「お母上様のファネア様が亡くなられた時、もう猶予はないと判断して、帝城から出てお隠しすることに決めたんです。他の誰も救えないのならば、私がどんな手を使ってもお救い申し上げなければと思って。その時、厨房の皆様に手を貸して貰いました。」
「そうか。だから、厨房中の皆が君に信頼を寄せているんだね。」
そう言われると照れくさいような気がした。
「もっと早く。指を咥えて見ているのではなくて、何か出来なかったかと後悔もしているんです。ヒューリア様から聞いていたのに、ファネア様をお救い出来なかった。」
切ない気持ちになって俯くと、ティンカンがまた優しく頭を撫でてくれた。
「全てを自分で出来る訳じゃない。気付いたことは周りの相応しい人間に言って任せてしまうことも大事だって、私もリウジン副団長にこの間言われたばかりだ。だから、これからは私達もお互いに沢山気付いたことを話し合おう。それでも手が足りなければ、誰を頼るべきか考えてみるのも良い。」
穏やかにリーハの気持ちを掬い上げてくれるティンカンがやはり大好きだ。
リーハは灯りを持っていない方のティンカンの腕にギュッと両手を絡めて抱き付く。
「リーハ。」
少しだけ困ったような、でも熱の籠った声が返ってきて、リーハは絡めた腕をそっと引く。
ゆっくりと崖っぷちの木の根元まで歩いて行って、月明かりの下に出る。
「こんなところに崖があるんだね。リーハ気を付けて。」
気遣ってくれるティンカンを促して、木の幹に並んでもたれ掛かる。
「帝城に薬師として上がって直ぐの頃、ティンに会いたくて堪らなくて寂しくなってしまったことがあって、その時に厨房から飛び出してここで空を眺めながら泣いてしまったの。」
ティンカンがリーハの手をギュッと握り返して来る。
「私の方からここに来るって言ったくせに、寂しいなんて言う資格はないのに。ティンが私のことを忘れていたらどうしようって。今の私を見て嫌いになってしまったらどうしようって。私に立った噂を本気にされてしまったらどうしようって。」
その時の気持ちが蘇って少し切なくなって来る。
「私も心配だったよ。オルケイア公爵家の姫で外見も心も美しい君はきっと帝国社交界でも直ぐに注目の的になって、君に求婚する者が後を絶たないだろうって。その中に君の心を動かす者が現れたらどうしようかって。」
そう熱の籠った言葉を向けられて恥ずかしくなって来る。
「ティン。もう寂しい想いは沢山です。ずっと側に居ても良いですか?」
恥ずかしくて目を合わせられなくなりながらも、そう口にすると、ティンカンが木の幹から身を離してこちらに向き直る。
「ごめんリーハ。もう離してあげられない。命ある限り君を大事にすると誓うから、ずっと側に居て欲しい。」
言うなりティンカンの腕の中に包まれていた。
腕の中でこくりと頷くと、愛しげに目を細めたティンカンに両頰を包まれて上向かされる。
そっと降ってきたキスは優しく啄むようで、確かめるように見詰められる視線が恥ずかしい。
「リーハ、愛してる。」
差し挟まれた熱の籠った言葉に、頭の中が沸騰しそうになる。
こちらが答える隙もない内に、次々と降って来るキスに頭がぼおっとしてくる。
「リーハ。これ以上は駄目だ。」
目を上げるとあちらも赤い顔のティンカンが、目を背けてそっと身を離す。
「ティン?」
軽く息切れしながら問い返すと、真っ赤な顔のティンカンが漸くこちらに目を向けた。
「リーハの顔が可愛過ぎて、色々我慢出来なくなる。」
そう少しだけ恨めしそうな顔には、首を傾げるしかない。
「きちんと式を上げるまでは、これ以上深いキスは我慢する。だから、お願いだから煽らないで。」
懇願される意味は分からなかったが、ティンカンと交わす口付けは何かを確かめ合うようで、心地が良い。
首を傾げるリーハに、ティンカンは深く息を吐いて、空を見上げたようだった。
「そろそろ戻らないと皆心配するかしら。」
そうそっと声を掛けると、漸く赤みの引いた顔でティンカンがこちらを向いた。
「そうだね。」
何かを確かめるようにこちらを覗き込んで来たティンカンに首を傾げて見せると、ティンカンの指がそっとリーハの唇をなぞった。
「ティン?」
「ん? この唇に触れたのは、私だけだろうかとか、要らないことを考えてしまった。」
そう何か不安げに訊かれて、リーハは少しだけ視線を彷徨わせる。
「えっと。ファヴァイラ・デュオでクラジットにキスされたのは知っているでしょう? その他は、クディアルトにティンを殺したと言われた晩に、私を殺す報酬だって。でも触れられただけのキスだったけど、ティンとする時とは違って不思議と何も感じなかったわ。心が伴っていないからかな?」
そう分析してみると、ティンカンは妙な顔をしていた。
「もう、嫉妬してもこの世にいないのに、あの暗殺者には色々と腹が立つな。でも・・・その、私とのキスは・・・」
そのまま口元を手で覆ってしまったティンカンはまた顔を赤くしている。
リーハはそれに目を瞬かせることになった。
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