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帝城を出る朝は、スッキリとした目覚めだった。
支度を整えて薬師室に挨拶に行ったリーハは、驚く程皆に別れを惜しまれて、また涙腺が緩くなって困ってしまった。
薬室長のローブは昨夕女帝に返し済みだったが、改めて挨拶をと願ったリーハを、女帝はいつか椅子に座って話しをした私的な謁見室に通してくれた。
別れの言葉を告げられて、女帝にはリーハの気持ちを悟られていることが分かった。
今日この帝城を出て、リン・ヴェルダ・ヴィーラに入ったら、もう二度と帝国に戻るつもりはない。
結婚の許可書は、フォーガルにでも受け取って届けて貰うつもりでいる。
ティンカンの側を離れるつもりはない。
ミルレイに入ったら、もうそこで一生暮らして行くつもりで頑張ると決めている。
女帝は少しだけ寂しそうな顔だったが、引き止めるようなことは一切言わなかった。
少し後ろ髪を引かれるような気がしながら歩き始めたリーハに付いてきてくれるのは、イミールだ。
そのイミールが部屋の扉の前で、さっと横に出てくる。
「姫、皆が姫が居なくなることを心から惜しんでいます。当然、私もです。行かないで欲しいと、あの男と同じくらい、いえそれ以上に大事にしますからと、心から誓えるのに。姫は私のことなど振り返って下さらない。」
切ない声でそう言われて、リーハは目を泳がせる。
「イミール様・・・。済みません。イミール様の向けて下さる真っ直ぐな想いが、本当は怖かったんです。ティンカン様と会えない寂しさを、イミール様が向けて下さる優しさで埋めてしまおうとしないように。そんなことになれば、イミール様に申し訳なくて。そんな失礼なことは絶対に許されないからと。必死でした。」
本音の一部を告げると、イミールの目がまた切なそうになる。
「埋めてくれれば良かった。私は正しくそこへ付け込んで、貴女の心を私で一杯にしてみせるつもりでいた。あの男を忘れさせるつもりでいた。」
熱の籠った言葉には、やはり困ってしまう。
「ごめんなさい。理屈ではないんです。イミール様は素敵な方で、誠実な方だと分かっています。それこそ、私には勿体無いとしか言いようが無い程。でも、私はティンカン様でなければ駄目なんです。」
向き合ってこんな話しをするのは、申し訳ないし気まずいし、おこがましい事だと思うのだが、ずっと側で大変な時も辛い時も見守ってくれていたイミールにはきちんと答えなければ失礼だとも思った。
イミールは少し目を伏せて、ふうと溜息を吐いた。
「本当は、貴女が彼と居るのを見て、話すのを聞いて。私では駄目なのだとはっきりと分かっていました。ですが、私も自分の気持ちに区切りを付ける必要があったのです。きっぱりと振って下さって有り難うございました。・・・どうぞ、お幸せにおなり下さい。」
そのイミールの言葉に目頭が熱くなってきて、リーハは目に力を込めてこくりと頷き返す。
「では。本日の警護はここまでです。短い間でしたが、誰よりも尊い愛しい方を警護出来たことを誇りに思っております。では。」
そう言って頭を下げてから去って行くイミールを、リーハは滲む視界の向こうで見送る。
人の話しを聞いてくれないといつも苦く思い続けて来たイミールだったが、聞かなかったのはリーハも一緒だ。
結果として、この帝城で過ごしていく為にイミール達を利用してしまったのかもしれない。
少しだけ落ち込むような気がしながら部屋に入ると、焼き菓子の匂いが漂って来る。
「あ、姫。やっぱりイミールに泣かされましたね。全く困った奴だ。」
そう言いながら焼き立ての焼き菓子の良い匂いを連れて来るのはユディットだ。
「女の子は泣かせちゃ駄目だって、全く分かってない。」
ユディットは、手に持つ皿に盛られた焼き菓子を一つ摘み上げると、さっとリーハの口元に押し付けて来た。
リーハは手の甲で涙を拭うと、その焼き菓子に手を伸ばした。
と、そこでさっとユディットに手を引かれる。
「駄目ですよ。もう最後なんですから、私の手から食べて頂きます。」
その要求に、リーハはふっと笑ってしまう。
「もう。ユディット様は、ずっとそれだから。」
呆れた風を装うつもりが、声が震えた。
「泣き虫を治す薬ですから、処方した私の手から食べなければいけませんよ。」
そう口角を上げながら言うユディットは、相変わらず楽しそうだ。
「ユディット様は、いつもそうやって強引なのに、私の涙を止めて下さいます。忘れてしまいそうになる人の温もりを思い出させて下さる方です。温かなご飯だったり、少し無理矢理抱き寄せる腕だったり。それにどれ程助けて頂いたか分かりません。有り難うございました。」
言って深々と頭を下げると、ユディットがふっと悪戯っぽく笑った。
「ですから、私は言葉のお礼よりも、貴女が美味しそうに、それは幸せそうに私の作った料理を食べてくれる方が良いって言っているでしょう?」
そして、また口元に運ばれてくる焼き菓子に、リーハは困った顔になる。
「こんなの恥ずかしいし、はしたないです。」
ぐずぐすと口にすると、ユディットににやりと笑われた。
「さあ、姫。私の細やかな夢を叶えて下さいよ。じゃないとこの部屋から出しませんよ?」
結局脅しに入るユディットは相変わらずだ。
リーハはふうと溜息を吐くと、ユディットの持つ焼き菓子の端をさっと少しだけ齧る。
「姫様! 立ったまま人の持った物を齧るなど! はしたないですよ。」
部屋の奥からガラントの叱責が飛んできて、肩を縮める。
それに、ユディットがくくくっと声を立てて笑う。
「もう、ユディット様。ガラントに叱られてしまったではありませんか。」
そう頰を膨らませて抗議すると、ユディットがご機嫌な顔でにこにこと笑う。
「ふふ。ティンカンに自慢してやろう。私の持つ焼き菓子を目を瞑って齧りに来た姫は、物凄く可愛かったって。」
言われて顔が真っ赤になる。
「ちょ、ユディット様! そんなの絶対に駄目です!」
焦って大声になるリーハに、ユディットはにやにやと笑ったままだ。
「姫様、浮気を疑われますよ? 金輪際ティンカン殿以外とそんな事はなさいませんよう。」
ガラントの手厳しい言葉の中に、何か可笑しな言葉が挟まれていて、首を傾げる。
「ええ? そんなの上書きし放題じゃないか。ガラントそういう余計な知恵を与えるなよ。」
ユディットの突っ込みに、リーハはばっと顔が赤くなる。
ティンカンにそんなことをされたら、恥ずかしくて胸が一杯になって、喉に詰まってしまうかもしれない。
「では、ユディット様もつまらぬ悪戯はなさらずに、きちんと姫様とご挨拶なさって下さい。でないと、焼き菓子を包んで持って帰るのを忘れますよ?」
「お前、ガラント。日頃の恩を忘れたのか? 可哀想な姫の為に可能な限り昼食を提供した上に、コチリアに料理の基本を仕込んでやったのに。」
「おや、ユディット様は姫様の為に好きでなさっていたのではございませんでしたか? 今更見返りを要求されるおつもりで?」
いつの間にか、ガラントはユディットとはこれくらいの軽口は叩き合える間柄になっていたようだ。
「ユディット様。お世話になりました。」
まだ何か言い合いをしているユディットとガラントに、リーハは割り込んで挨拶をしてしまうことにする。
途端に、言い合いを止めたユディットがこちらを向く。
「そういうきちんとしたのは要りませんよ。姫、ティンカンは裏のない男ですよ。貴女にも本気で惚れているようだし、一生大事にすると言ったら、本当にそうするだろうと信じられるようなところがある。沢山甘えて大事にして貰えば良い。」
とんとユディットの手が頭の上に乗って優しく撫でられる。
「幸せにして貰うんですよ? でないと、攫いに行きますからね。そうしたら、2人きりの屋敷に閉じ込めて私が食べさせるものしか口にさせません。」
寒気がするような怖い事を言い出すユディットは相変わらずだ。
だが、それなのに寂しいという気持ちが沸き起こって来る。
「はい。そうならないように幸せになりますね。ユディット様にも新しい素敵な出会いがありますように。お祈り申し上げています。ですから、その方を閉じ込めたりしては駄目ですよ?」
そう返すと、少しだけ撫でる手が乱暴になって、クシャッと髪を混ぜられる。
「生意気な口は塞いでしまいますよ? 毎日しっかり食べて、それ以上痩せないこと。」
それだけ言うと、ユディットは焼き菓子の皿をリーハに渡した。
「餌付けし甲斐のありそうな女と見合いでもしますよ。それじゃ。」
言い残すと、ユディットは部屋を出て行った。
やはり何か寂しい気持ちになって、リーハは良い匂いのする焼き菓子の皿に視線を落とした。
「門出に別れは付き物で、新たな出会いも付き物です。ミルレイは大変賑やかな場所のようですから、直ぐに寂しさなど忘れてしまいますよ。」
そう言って慰めてくれるガラントにリーハはこくりと頷き返す。
ここへ来る前は、帝国宮廷は酷い場所だと散々脅されたものだった。
暮らしてみたこの数ヶ月で様々なことがあったが、いつも何処かに味方が居て、手を貸してくれた。
そのお陰で頑張ることが出来たのだとしみじみと思う。
あんなに苦手だった男性と接することも、頑張れば出来るようになっていたのだから不思議だ。
「ガラント、コチリア。今日まで色々とあったけれど、本当に有り難うございます。」
側仕えや侍女にこんな丁寧な口の利き方をすると、ガラントに怒られるかもしれないが、深々と頭を下げてそう感謝を述べる。
と、やはりガラントから溜息が返ってくる。
「姫様。そんな風に深々と頭を下げてはいけません。それから、謝意であったとしても、有り難う、で結構です。」
案の定帰ってきたお小言に、リーハは苦笑するしかない。
「それに、一番頑張られたのは姫様です。そんな姫様をお側でお支え出来た事を、私は誇らしく思っております。」
「コチリアも、ご主人の側にいるのが好きだもの。これからもずっと。」
そう2人に言われて、また目が潤みだす。
「さあ、そろそろ帝城を辞して屋敷に戻りませんと、屋敷でも旅立ちの支度がございますし。今夜は先代様方とランディル様も晩餐を共にされますから、その為の着替えもございます。」
晩餐の件は知らなかったが、リーハの予定ではもうランディルやカルティリア達とも会う事はないかもしれないのだから、最後くらいは母方の親戚とゆっくりと晩餐を共にするのも良いかもしれない。
「そうですね。では、行きましょうか。」
そう気を取り直して告げると、コチリアが焼き菓子を受け取って袋詰めしてくれる。
それが済んでから、ガラントは部屋の外で待っていた様子の荷運びの下男達を呼んで、荷物の運び出しを始めた。
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