第一話=最終話 ヒロ子とガメ子

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第一話=最終話 ヒロ子とガメ子

 午後6時45分。  本日の仕事を終えた30才のOL・ヒロ子は、デスクを離れ、ロッカールームへと向かった。  灯りの消えていたロッカールームの電気のスイッチをパチリと入れると、上から降ってきた黄ばんだような蛍光灯の灯りが、ヒロ子に瞬きを余儀なくさせる。  ヒロ子が勤めている会社は、ビルの5階にあった。  ビルとはいっても、いわゆるお洒落な今時のオフィスビルではなく、外観もそしてその内装も、どこかいまだに昭和の香りを漂わせている。  夏は終わりに近づいているが、ロッカールームにはさらに昭和の香りを強める役割を果たしているかのような熱気がこもっていたため、ヒロ子は窓を開けた。  開け放たれた窓の向こうからは、心地の良い風が吹き込んでくるわけでもなく、単にこの部屋とはまた異なるうだるような熱気が漂っているだけであった。  貴重品を含め、女性社員たちの荷物が置いてあるロッカールームの窓を開け放すとはなんと不用心な……とならない。  ここはビルの5階である。  そして、開け放たれた窓の向こうには、隣のビルの無機質で薄汚れた壁が見える。  窓から身を乗り出して、バランスを崩すことを覚悟でグッと手を伸ばせば指先が壁に触れるであろうほどの距離だ。  窓は帰る時に閉めればいいや、とヒロ子は自分のロッカーを開ける。  今時、信じられないことに、このロッカーは鍵付きではなかった。  だが、ヒロ子が3年前に中途入社してからというもの、”ヒロ子が知る限り”盗難事件は一度もなかったはずであるし、なあなあの状態で今日という日まで鍵無しのロッカーを女性社員は皆、使い続けていた。  しかし、やはり、20代前半のいわゆる若い子たちは、セキュリティーすらしっかりしていない会社が不安であるのか、入社してはやめ、入社してはやめの繰り返しで皆2か月と持たなかった。  ヒロ子は取り出したトートバッグを、ロッカールームの中央に配置されている長机の上に置いた。  と、その時―― 「?」  トートバッグの中に、自分のものではない財布が入っていることに気づいた。  茶色のなめし革のかなり使いこまれた長財布が、ファスナーのついていないヒロ子のトートバッグにポンと投げ込まれたような具合で入っていた。 ――誰の財布かしら?  もしかして、昼食等を終え急いで会社まで戻ってきた誰かが、自分のロッカーであるか碌に確認もせずに、間違えてヒロ子のトートバッグへと放り込んでしまったのか?  ヒロ子は、持ち主不明の長財布を手に取った。そう”素手で”手に取った。  彼女はこの長財布の中に、免許証や保険証など、持ち主が分かるものがあればという親切で単純な思いからの行動であった。  しかし――  取り出した長財布の中をヒロ子が確認せんとしたその時――  パシャリ。     突然のスマホの撮影音に、ヒロ子はビクッと飛びあがった。  撮影音は、ロッカールームの入り口から聞こえてきた。  そして、その中途半端に開いたままであったドアより、スマホを持った腕のみを器用に突き出していたのは、2年前に中途入社した同僚の29才OL・ガメ子であったのだ。 「あ、人の財布、盗りましたね。泥棒♪」  ニヤニヤしながら、ガメ子はロッカールームへと足を踏み入れてきた。  この財布は、ガメ子のものであったのか。  いや、しかし、ガメ子のその表情は、財布を盗られた(実際はヒロ子は盗ってなどいないが)被害者というよりも、罠にかかった獲物をさらに追い詰めんがごときものであった。 「ヒロ子さん……ヒロ子さんがこんなことするなんて、私、本当にショックです」 「ガメ子さん……あなた、まさか……」  ヒロ子の脳内で、点と点が線で繋がり始める。  自分はガメ子が張っていた罠にまんまとひっかかってしまったのだ。 「本当、ヒロ子さんが泥棒だったなんて、私だけじゃなくて他の人たちもショックでしょうねぇ」 「……あなたが私のバッグに入れたんでしょ。このお財布」 「え? 何のことですかあ? 自分のお金が入った大事なお財布を、誰が人のバッグに入れるっていうんですか? あーあ、きっと中のお金もヒロ子さんに盗られちゃってるんだろうなあ」 「ガメ子さん!」  思わず声を荒げてしまったヒロ子に、ガメ子は少しだけ目を丸くしたものの、すぐにニヤニヤとした表情に戻った。 「こっちには証拠があるんですよ。”ちゃんとした”証拠が」  ”決定的瞬間”を撮影したスマホを、ガメ子はちらつかせる。  そして、両唇の端をさらに耳へと近づけ、ガメ子はヒロ子へと近づいてきた。 「ヒロ子さん、”とりあえず”1万で手を打ちます。1万円いただけましたら、私、”今日のこと”は誰にも喋りません。ヒロ子さんが、泥棒だって、みんなに言いふらしたりなんてしませんし、ヒロ子さんの指紋がバッチリついたこのお財布を警察に持って行ったりなんてしませんから♪」  恐喝だ。  自分に1万円を渡せば、”とりあえず”今日のことは黙っていてやると、ガメ子は言っているのだ。 「さ、どうします。1万円でこの場がおさまるなら、安いモンだと思いますよ」  もうすぐ手に入るであろう勝利を確認しているガメ子は、クスッと笑った。  だが、その時であった。 「そこまでよ。ガメ子さん」  37才のOL・セン美だ。  このセン美は、ベテラン社員の風格を漂わせているうえ、この会社の女子社員のリーダー格ともいえる存在である。別の言い方をすれば、「お局様」となるのかもしれない。  そして、彼女の後ろからは…… 「あなた、自分が何をやっているか、分かってるの?」  リーダーの隣には、やはりサブリーダーあり。  サブリーダー格である35才のOL・パイ江も顔を出した。  自分より強い者たちを前にして、明らかにガメ子は狼狽しはじめていた。 「あ……あ、あのセン美さん、パイ江さん……違うんです。ヒロ子さんが私のお財布を盗ったんです。警察に突き出すのは、ヒロ子さんが可哀想なんで……それで……」   「嘘おっしゃい。あなた、今日のことが初めてじゃないでしょう」  腕組みをしたセン美は、射抜くような厳しい目線をガメ子にキッと向けた。 「若い子たちが2か月ももたずに次々にやめていくと思っていたら、”やっぱり”あなたのせいだったのね」  パイ江がセン美に加勢し、同じく射抜くような厳しい目線をガメ子にキッと向けた。  ガメ子は今日、ヒロ子にしたような恐喝行為を恐らく、大学もしくは短大を卒業したてでまだ右も左も分からない新入社員たちにも行っていたのだろう。  ヒロ子とガメ子はともに中途入社組であるも、ヒロ子の方が年は1才年上であり、また社歴もヒロ子の方が1年ほど長い。しかし、自分が罠にかけた新入社員たちが次々と退職してしまったため、ガメ子はついに先輩にあたるヒロ子までをも、罠にかけようとしたのだ。 「もう大丈夫よ。ヒロ子さん」  セン美のその声に、ヒロ子はホッと胸を撫で下ろした。  助かった。助けられた。  反対に、ガメ子は一瞬で血を抜かれたがごとく真っ青になり、全身をガクガクと震わせ、歯の音も合わなくなっていた。 「ガメ子さん、あなた懲戒解雇は免れないわ。それどころか、刑事事件になるわよ。これは立派な恐喝だもの」 「あなたの大勢の被害者たち、私とセン美さんで集めてこようかしら」  ジリジリと追い詰めるセン美とパイ江。  涙目で震えながらも後ずさるガメ子。  両者の距離は徐々に縮まっていく。  今度は、罠にかかったガメ子が、”開け放たれたままの窓の方へ”と追い詰められていく。  ガメ子が、獲物らしく”捌かれ”んがごとき光景に、ヒロ子は思わず、バッグから取り出した自分のスマホをギュウッと握りしめていた。 「さあ早く、そのスマホを私とパイ江さんによこしなさい」 「い、嫌です……っ!!」 「あなた、人を散々、恐喝しておいて、それはないでしょう。ねえ、セン美さん」  そのパイ江の声に無言で頷いたセン美が、ガメ子に向かって、バッと手を伸ばした。 「あっ!!」  ガメ子の手をはたいたセン美の一撃は、見事であり、ガメ子のスマホは彼女の手を離れ、床へと転がった。  床に転がった証拠品満載のスマホを自分の手に取り戻そうとし、慌てて身をかがめたガメ子の両肩を、セン美とパイ江は阿吽の呼吸とも言える連携で、素早く押さえつけようとした。  セン美とパイ江は、単にガメ子の両肩を押さえつけるつもりであった。  ガメ子は彼女たち2人に、押さえつけられてしまうはずであった。    そう、ガメ子の背後が壁であったなら。  そして、ガメ子の背中に面する、後ろの窓が開け放たれたままでなかったなら――!!! 「あああああっっ!!!」  ガメ子、セン美、パイ江の声が重なりあった。  両肩に力を受けたガメ子はバランスを崩した。見事なまでに。  その見事なまでにバランスを崩したガメ子の両脚は、薄汚れたロッカールームの床を離れ、彼女の全身もろともビルとビルの隙間へと吸い込まれていった。  下から聞こえてきたドン! という嫌な音を、このロッカールームにいる誰もが聞いた。  ”自分のスマホを手にしていたヒロ子も”、そしてセン美もパイ江も。 「う、嘘……」 「ま、まさか、死んだの?」  歯の音が合わなくなり、腰を抜かす寸前となっているセン美とパイ江が、恐る恐る下を――ガメ子がいるであろう下をのぞき込む。 「く、く、暗くて、ま、ま、全く見えないわよ」 「い、いえ、いえ、ぜ、絶対に死んでるわ。この高さから落ちて……」  ”生きているはずがない”とパイ江は続けたかったのだろう。  ビルとビルの隙間に間違いなく転がっているのは、おかしな形に折れ曲がり、内容物をぶちまけているにガメ子の死体だ。  ガメ子は死んだ。  恐喝者は死んでしまった。  いいや、死んだんじゃない。  これは殺人に近い事故だ。事故に近い殺人だ。 「セン美さん、パイ江さん……」  その場にペタンとへたり込んでしまった彼女たちに、ヒロ子が声をかけた。 「あ、あの、私、ちゃんと証言しますから。ガメ子さんは、”自分でバランスを崩して”落ちてしまったって……これは事故だって」  救いのごとき、ヒロ子のその言葉に、セン美もパイ江もホッとしたらしかった。  助かった。今度は、自分たちがヒロ子に助けられた。  しかし―― 「ですから、”とりあえず”10万で手を打ちます。10万円いただけましたら、私、”今日の真実”は誰にも喋りません。あ、2人で10万じゃないですよ。お1人、10万です」 「!!!」  恐喝者はここにもいた。  しかも、つい先ほどこの世の者ではなくなった恐喝者が提示していた金額より、1ケタ増えている。  ヒロ子は、先ほどの”決定的シーン”を動画撮影したスマホを、へたり込んだセン美とパイ江にスマホをちらつかせ始めた。 「先ほどの一部始終ですが、ついさっき、私の自宅のパソコンにも送ったところです。ですから、私のことまで”ガメ子さんと同じようにしようとするなら”、すこぶる危険なことになりますよ」 「わ、私たちはあなたを助けようとしたんじゃないの……っ!」  セン美が震える声を絞り出した。 「あ、確かに助けてはいただきました。でも、もうガメ子さんは死んじゃったワケだし、私とガメ子さんの件はもうこれ以上進展しようがないじゃないですか。それに、よぉく考えてみてください。”人殺し”の口止め料なら、私から提示する金額にしたって、もっと吊り上げることができたと思いませんか? たった10万って、相当な破格ですよ。本当にガメ子さんは”真性の屑”だったんで、私はこのお値段設定にしたというわけなんです」  そういったヒロ子は、両唇の端をさらに耳へとニイッと近づけた。 ――― fin ―――
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