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そっと、口吻けを。 5
*
『家出ですか?』
珀英の低い声が耳元にあてたスマホから流れてくる。
基本LINEのやり取りか直接会って話していたけれど、美波がウチにいるので会うこともできず、LINEよりは電話したほうが早いので久しぶりに珀英に電話をしている。
今日はレコディーングを早く終わらせてもらい、夕方には帰宅して美波と夕飯を食べに外に出て。
よく行くお店でゆっくりご飯を食べながら、美波から事情を聞いた。帰宅後、美波がお風呂に入っている間に、オレは珀英に電話していた。
「・・・母親・・・元嫁だけど、仕事の拠点をイタリアにするみたいで、移住するつもりらしい」
『なるほど。それが嫌で家出ですか?』
「うん・・・日本にいた方がいいのか、移住した方がいいのか、ちゃんと考えて話し合おうと思う」
『そうですね。ちゃんと一緒に考えてあげて下さい』
飲みに出るわけにもいかないので、オレはリビングで缶ビールをゆっくり飲みながら、耳元で感じる珀英に想いを馳(は)せる。
思いがけず一緒にいる娘よりも、少し離れた所にいる男のことばかり考えてしまう。
本当・・・ダメな父親だな。
『緋音さん、ちゃんとご飯食べました?』
「あ・・・ああ美波と一緒に食べたよ」
『明日起きれます?モーニングコールしましょうか?』
珀英の低い心地よい声。オレのことばかり気にしてくれる。
いっつも自分のことは後回しで。オレを優先してくれる。
「ごめん・・・」
『なんで謝るんですか?』
ずっと聞いていたい。もっと聞きたい。
「うん・・・会いたい・・・」
普段絶対に言わない言葉が出てきた。自分で少しびっくりする。
と同時に恥ずかしさが一気に出てきてしまって、顔が熱くなっているのがわかる。
「いやその違くて!いや違くなくて・・・そのっ!」
『・・・オレも会いたい・・・実は今外にいます』
「は?!」
思いもしなかった言葉にびっくりして、閉めていたカーテンを開けた。
12階の部屋から外の道路を見下ろす。車も人も少ない道路には、ポツンポツンと街灯がある。その街灯の下に、背の高い人影が見えた。今朝別れた時と同じ、黒いスプリングコートを着てこちらを見上げている。
オレは珀英の姿を認めると、体を翻(ひるがえ)してリビングを出ると、バスルームへ駆け込んだ。まだ中にいる美波に扉越しに、
「美波ごめん、ちょっとコンビニ行ってくる!外出ないでね!」
「はーい」
嘘をついて、美波の返事を確認して、外に飛び出した。玄関に鍵をかけて、走り出す。
娘よりも、男に会いたいって、最低だな。
娘に嘘ついて、男に逢いに行くって、最低だな。
ごめん・・・美波ごめんね。
少しだけ、少しだけ。
5分でいいから、一緒にいたい。
エレベーターに乗って、下まで降りる。一階に降りると、オレは珀英がいるはずの街灯まで走る。
珀英はオレが走って出てきたのを見つけると、逆に走り寄ってきた。
抱きつきたい衝動に駆られて、泣きそうになっているオレの腕を珀英は掴むと、ビルとビルの隙間の細い道に入って行く。そこは人が通るような道路ではないから、たしかに他人を気にしなくて良い。
その細い道を奥のほうまで行って、外からは暗くてあまり見えない場所まで行く。
そして。
珀英がオレを引き寄せて。腰を肩を強く抱きしめて、珀英の胸の中に、ギューーーーッと強く閉じ込めてくれた。
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