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旅をしようと思ったのは、単なる気まぐれだった。
就職してから、真面目に勤め上げること数十年。働くことに疑問を感じたことはなかった。もちろん大変なことはたくさんあるけれど、「誰でもそんなものだ」と思いながら生きてきた。
しかし、ある時、不意に思ったのだ。僕の人生はずっとこのままなんだろうかと。
そこで一念発起して、何か始めようと行動でもできればよかったのだけれど、僕の場合は、それが怠けに繋がってしまった。
働き始めてから、休んだことは二度くらいしかなかった。どちらも風邪だったのだが、その日は仮病をつかい会社を休んだ。
「そう。お大事に」
電話の向こうでそう発せられた上司の言葉が、やけに冷たく聞こえた気がした。
一日のんびりすごせば、このなんとも言えない怠さも消えるだろうと思い、二度寝した。
目が覚めると、もう夕方で、部屋は薄暗くなっていた。
ベッドから身を起こし、部屋の明かりをつけようと立ち上がった時、僕は床に突っ伏して泣いた。理由はよくわからない。ただ、たまらなくなったのだ。
一日なんてものは、とてもあっけなく過ぎていく。
それに気付かず、僕はただ、日々を消費して生きていたのだ。
そんな風に感じたのかもしれない。
二日、三日と仮病で会社を休み、上司の反応に苛立ちのような感情が見え隠れし始めたころ、僕は会社をやめることを決めた。
会社をやめても、別にすっきりはしなかった。
ただ、怠さだけが、体の中に残り続けていて、それが日毎に重くなっていた。
体を動かすのが億劫で、何もする気がおきなかった。
そんな日々が続いていたころ、たまたま見た雑誌に、ある場所が紹介されていた。
行ってみようか。
そう思った。何故だかはわからない。怠さがわいてきた時と同じく、不意にそう思っただけにすぎない。
単なるきまぐれ。
その日、僕はすぐに旅の支度をした。
次の日、僕は鉄道に揺られていた。
平日の朝一だったが、それなりに人も多かった。
旅路は長いものになった。
目的地の駅についたのは、もうあたりが暗くなったころで、そこからさらに移動するのだが、もう向かう足がなかった。
一晩駅前のネットカフェで過ごし、明くる日、また朝一でローカル線で目的地へ向かった。
昼過ぎに目的地の最寄り駅に到着し、ここらへんで唯一らしい宿(と言っても、町営の保養センターだが)に荷物を置き、最低限のものだけを持ち、僕は目的の場所へ向かった。昨日過ごした町とは比べ物にならいほどの田舎町だった。のどかと言えば聞こえはいいが、あまりにも静かすぎて、逆に落ち着かなかった。
宿から三十分ほど歩いた場所に、それはあった。
道と並ぶようにして続く、鉄道線路。
どうしてそんなものを見るためにこんなところまできたのか。
こうして、目的地へたどり着いた後も、その理由はつかめなかった。
僕は、道の脇に腰をおろし、じっと、使われることのない線路を見つめていた。
どれくらいそうしていただろう。
しばらくすると、急激に眠気がやってきて、陽気の心地よさもあり、僕はそのまま眠ってしまった。
「もしもし。もしもーし」
頭上から向けられた声に目を覚ます。
「あ、よかった。死体じゃなかった」
周囲はもう真っ暗だった。温度も日中にくらべだいぶさがっているのか、僕は軽く身震いした。
「だめですよ、こんなところで眠っちゃ。なにかあっても、人なんかめったにこないんですから」
寝起きのぼんやりする頭をかるく振り、無理やり意識をはっきりさせる。
「目はさめましたか?」
そこでようやく、声の主が、夏服のセーラー服を着た少女であることに気付いた。
「幽霊じゃないですよ」
「え?」
「じーっとこちらを見ているので、疑われているのかと思いまして。人気のない場所、しかも夜。そこに謎の少女といえば、怪談を連想するのも致し方ない気がしませんか?」
「いや、しませんかって訊かれても……」
僕は腰をあげ、伸びをし、あらためて周りを見渡す。
不気味なほどに静かで、明かりもなく、ひたすらに暗い。
「懐中電灯くらいは持ってきた方がいいですよ」
少女はそう言って、手にしている懐中電灯を見せる。
「そんなに長居する気はなかったんだよ。というか、君のほうこそ平気なの?」
「あそこの角を曲がったところに、車が待ってるんですよ」
「車?」
「はい。知人に、ここまで乗せてきてもらったんです」
「線路を見にきたの?」
「いえ。星を見に。綺麗に見えるんですよ、ここ。静かで人気もないですし」
少女はそう言って、空を見上げた。僕もつられるようにして、空を見上げる。
そこには、満天の星空が広がっていた。
空を埋め尽くさんばかりの星々。美しく、圧倒的で、どこか恐ろしくもあった。
「すごいな」
「でしょう」
「ああ。意図せず、いいものが見られたよ」
「あなたは、何を目的にここへ?」
「線路だよ」
「鉄道関連のものがお好きなんですか?」
「いや、全然。ただ、雑誌で小さく紹介されてたんだよ。忘れ去られた幻の線路みたいな感じで。なんだか、それを見たら、無性に見たくなってしまって」
振り返ってみると、バカみたいな理由だった。
「いいじゃないですか。思ったことを行動に移せるのは、素敵なことですよ」
「そうかな。自分でもよくわからないんだ」
「何がですか?」
「人生、というか。少し前まで、当たり前に生活してたんだ。けど、突然、本当に突然、いろんなことが面倒で、怠くなってしまって」
年下の、しかも学生だろう少女に、何を話しているのか。
「人間、生きてればそういう時もありますよ」
少女は、達観したようなことを言う。けれど、妙にその声には重みを感じられた。
「人生色々なんて言いますけど、本当にそうだと思います。どんな人生にも、色々ある。良い色。悪い色。それが混ざり合って、色々って具合に」
少女は空をなぞり見るようにして、顔を動かし、ぴたりと動きを止める。その視線の先には、月があった。
「すべてのことに意味があるなんて言うじゃないですか。そんな風には思えませんよね。だって、意味があるにしても、嫌なことは嫌なことじゃないですか。そこに意味を見出せといっても、不快なことを振り返ること自体がマイナスですよ。仮にひとつのプラスがあるにしても、マイナスがふたつあるんですから、結局はマイナスです」
少女が息を吸いこむ。
「わたし、星を見るようになってから、色々と考えることが増えたんです。死とか、永遠ってなんだろうとか。答えは出てないんですけどね」
壮大なところへと、話が広がっていく。活舌よく、よどみない口調で言葉を紡いでいるため、どこか物語の朗読を思わせた。
「本当に意味があることって、不意に湧いてくるものなのかもですよ。ちょっとしたきっかけと言うか。それは誰かがくれた言葉かもしれませんし、自分で至った答えなのかもしれませんし、使われてない線路がくれるものかもしれません」
「意味……」
「すぐにはわからなくてもいいじゃないですか。きっと、意味は行動のあとからついてきますよ」
風が吹いた。涼し気な夜気が、体を撫でる。
少女の髪が、その風に少し揺らされると、その体を包む月光や星明りも揺らめいたように思えた。
「疲れたのかもしれない」
「なら、休まないとですよ」
「そうだね」
「はい」
暗がりの向こうの線路を見る。
どこにも続いていない線路。
草に覆われ、いつしか朽ち果て忘れ去られるもの。
それに、自分を重ねていたのかもしれない。
「さて。じゃあ、わたしはそろそろ帰ります」
「なんだか、申し訳ないことをしたね。せっかく静かに星を見に来たのに」
「いえいえ。お話しできて楽しかったです。よければ、知人に頼んで、お宿まで送っていってもらいましょうか?」
「いや、もう少しだけここにいるよ」
「そうですか。わかりました。では、これで」
「うん。ありがとう」
少女は軽く頭を下げ、背を向け歩き出した。
懐中電灯の光が、遠ざかり、角へと消える。
もう少ししたら、歩き出そう。
色々な意味で、また、歩き出そう。そう決めた。
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