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Episode2-A 最悪のラストへ向けて
女子大生・法子(のりこ)は、足の骨折により約2週間の入院を余儀なくされていた。
病室では、通話等で音さえ出さなければスマホの使用もOKとはいえ、この不自由さには息が詰まりそうだ。
第一、自分の不注意で負った怪我ならまだしも、他人に怪我を負わされたのだから……
事故、いや”事件”当日のことは、はっきりと思い出せる。
その日、法子は1人で大学のキャンパスを歩いていた。
と、突然、後ろから肩をグッと掴まれたのだ。
右目の周りに青あざを作り唇を腫らした”見知らぬ”女子学生が、振り返った法子を凄まじい形相で睨みつけてきた。
彼女が自分と同じ大学の学生ではあるらしい空気が感じ取れるも、法子は彼女の名前も知らず、もちろん言葉を交わしたことすらなかった。
「……どちら様ですか?」と問うた法子に、ギッと目を吊り上げた女は自身のスマホを、法子の眼前にグッと突きつけた。
「どうしてくれんのよ! あんたが”ンな写真”、SNSにアップしやがったせいで、私は彼氏にボコられたのよ!」
スマホ画面に映し出されていたのは、法子の自撮り写真――しかも全体公開しているSNS内での自撮り写真であった。
大学のカフェにて、少し前に流行った虫歯ポーズでキュッと可愛く自撮りを決めた法子。
しかし、よくよく見るとそんな法子の背景に、今、目の前にいる彼女と法子の知らぬ男子学生が、チュッと口づけを交わしている瞬間までもが映されていたのだ。
要するに、法子がSNSにアップした、この自撮り写真が原因で彼女の浮気が本命の彼氏にバレてしまったということだろう。
バレて問い詰められたうえに、彼氏に殴られもしたと……
暴力を振るわれたこと自体は気の毒に思うし、腫れて変色した彼女の顔はとても痛々しかった。
けれども、法子は思った。そして、思ったことをそのまま、オブラートに包むこともせず、怒れる彼女へと伝えてしまった。
「私は単に自分の自撮りをネットにあげただけです。それのどこが悪いんですか? そもそも、大学はラブホテルじゃないんだし、大学構内で堂々と浮気相手とキスしていた方がどうかと思いますよ。それに……女を殴るような男と付き合ってしまった――事前に見抜けなかった自分の脇の甘さまで、私に責任転嫁するつもりなんですか?」と。
法子の言葉を聞いた彼女は、狂ったように泣き喚きながら法子に掴みかかってきた。
法子は逃げた。逃げるしかなかった。
階段前へと差し掛かった時、後ろからガッと腕を掴まれた。
それを振り払おうとした法子はバランスを崩し、階段を転げ落ちていった。
目撃者は多数いて、一部の者には彼女が法子を突き落したようにも見えていたらしい。
そのことを、法子は肯定はしなかったが否定もしなかった。
その後、親同士の話し合いが行われ、大学の学生課もそれに加わり、彼女には退学処分が下された。
もちろん、入院費含む治療費も慰謝料も、彼女の両親からしっかりといただいている。
怪我を負わされ、短期間とはいえ自由を奪われたことは憎いも、大学を追放されるという制裁を受けた彼女を、法子はこれ以上、追い詰めよう(自分のSNSで彼女の悪口を書きまくるなどして追い詰めよう)とは思わなかった。
それに――
法子は今回の事件(事故)で学んだことがある。
自分は経験から学べないおバカさんなどではない、と法子は自負している。
今後、自撮りは少しだけ控えよう。それに、自撮りをアップする時にはその背景にまで気を配るべきだよね、という学びであった。
ベッドに横になったまま、ポチポチポチポチと友人たちにLINEを返したり、友人たちのSNSをチェックしていた法子。
途端に、病室の空気がサアッと変わった。
美人――しかも”並の美人”ではなく超絶美人は、空気までをも変えてしまう。
コツ、という静かな足音とともに姿を見せたのは、法子の担当看護師の”無常(むじょう)さん”だ。
法子だけでなく、同じ病室内の他の女性患者までもが、かなり珍しい姓のこの超絶美人看護師に見惚れ、もはや幾度目にもなる溜息をつかずにはいられなかった。
息も止まらんばかりの美人。
切れ長の瞳、スッと通った鼻筋、引き締まった唇。
顔の造作が綺麗なばかりか、顔自体がキュッと小さいうえに背もスラリと高く、推定170cm以上のモデル体型だ。
スレンダーなため、胸元はいささか寂しい気がするも、その顔立ちに合った、ほのかな膨らみが真っ白な制服の上から見て取れた。
それに、顔立ちが整ってはいても口を開くと残念――歯が残念な人は多少いるも、無常さんは歯並びも、その歯の白さまでも完璧であった。
骨格だけでなく、何もかもがパーフェクトな美人。
無常さんの年齢は、おそらく20代後半ぐらいだろう。
”若さは武器”という言葉を聞いたことはあるけど、うちの大学のミスに選ばれた子だって無常さんの前では霞んでしまうというか、足元にだって及びはしない、と法子は思った。
いいや、この無常さんならきっと、テレビの中の女優と比べても見劣りしないどころか、それ以上かもしれない。
世に出ている美人だけが美人ではないのだ。
これほどの美人に、偶然、入院した先の病院で出会えるとは……
しかし、当の無常さんは極めて愛想のないタイプらしく、患者と必要以上の会話はしなかった。
誰もが羨む美貌なのに、いつもどこか疲れた感じでその表情すらも硬かった。ほっそりとした背中も、糸のように張りつめているのが感じ取れる。
法子は思う。
看護師という職業は激務だろうし、それに女性の比率が圧倒的だから人間関係もややこしいのかもしれない。それに、これだけの美人なら、理不尽なやっかみだって受けているかもしれないわよね、と。
しかし、無常さんが背負っているであろう苦労を推し量りつつも、法子は彼女に”あるお願い”をしてしまっていた。
「一緒に写真を撮ってもらえませんか? 私、無常さんみたいに綺麗な人に初めて会ったんです……あ、もちろん、私のSNSに勝手にアップしたりとか、そういったことは絶対にしませんから」と。
音の出ないカメラアプリで、無常さんを隠し撮りしようと思えばできたが、そんな非常識な肖像権の侵害をするつもりは法子には毛頭なかった。
真正面から、正式に無常さんの撮影を頼んだのだ。
だが、案の定、無常さんに断られてしまった。
「申し訳ありませんが、患者さんとの写真撮影は規則で禁じられていますので……」と。
このうえなく美しい顔でそう言われると、法子はそれを素直に受け入れるしかなかった。
”入院期間”という限られた時間の中、ただ「眼福、眼福」と無常さんの超絶美貌を堪能することにしたのであった。
退院後。
骨折も完治し、自由に歩けるようになった法子は、自宅近くのスーパーマーケット内にいた。
最近、ネタ切れを起こしている自分のSNSに”新たな彩り”を加えようと、得意料理&お洒落な雰囲気の料理である”ラタトゥイユ”を作ることにしたのであった。
買い物かごを提げた法子の前を、大きなマスクで顔を覆い隠したスラリとした長身女性がスッと横切って行く。
法子はその女性の佇まいに見覚えがあった。場の空気までをも変えてしまう、あの美しさを忘れられるはずなどなかった。
「あ! 無常さん!」
法子は考えるよりも先に、彼女の名前を呼んでいた。
突然、名前を呼ばれた無常さんは、ビクッとその背中を震わせた。
恐る恐る振り返った無常さんの頬が、マスクの下で引き攣っているであろうことが法子にも分かった。
え? ……なんか、無常さんって”変わった人”なのかも? 美人なんだから、もっと堂々としてたらいいのに。なんで、こんなにビクビクしてるんだろう? それに……無常さんの私服って、生活に疲れたおばさんみたいなセンス。マスクも取って、お洒落して歩いていたなら、後ろから男の人がゾロゾロついてきそうなのに。普通の顔の女よりも人生を遥かに楽しめそうな”下地”の持ち主なのに本当、もったいない人だよね。
と、法子は思わずにはいられなかった。
当の無常さんは、法子のことをすぐには思い出せないらしく、首を傾げていた。
だが、どうやら思い出してくれたらしい。
「あ……確か、骨折で入院されていた学生さんでしたよね? その後の経過はいかがですか?」
「この通り、普通に歩けるようになりました(笑) それより、こんな所で無常さんに会えるなんて、ビックリしちゃいました。ここら辺に住んでいるんですか? お一人暮らしなんですか?」
「え、ええ……」
ぎこちない無常さんの返事。
これ以上、プライベートに突っ込んでくるな、という無言の意思表示であるだろう。
看護師と患者、いや看護師と元患者の壁を崩す気はないということだ。
それが感じ取れないほど法子は鈍くはない。
けれども……
「あの、無常さん……やっぱり私と一緒に写真を撮ってもらえませんか? 私は元患者だし、今は勤務時間外だし大丈夫ですよね? マスクは外してもらえるとありがたいです。前にも話した通り、絶対に私のSNSには載せませんから」と、法子は再度、頼んでいた。
マスカラもつけず、まつ毛エクステもせず、眉毛を軽く描いただけであるのに――ほぼスッピンのマスク姿なのに隠せぬ美貌が溢れ出ている彼女を、自分の脳内だけじゃなくて物理的にの残しておきたいという法子の身勝手にも程があるうえ、非常識な”再度のお願い”であった。
「申し訳ありません。元患者さんとの写真撮影も規則で禁じられていますから、それに私は写真が苦手でして……それでは……」と、無常さんは法子へと頭を下げ、レジへと向かった。
無常さんはまだ買い物途中であったろうに、早々に買い物を切り上げ……いや、法子との遭遇によって切り上げざるを得なかったのは明白であった。
一人暮らしの自宅へと戻った法子は、予定通りにラタトゥイユを作り、予定通りにスマホでパシャリと撮影し、予定通りに自身のSNSへとアップした。
あの骨折事件の後、法子がSNSにアップする写真はお店の料理や、購入したメイク用品や小物ばかりであった。
トラブルを避けるためには、これでいい。
自撮りも友達との写真も、しばらくはお休み。
私は経験から学ぶことのできない、おバカさんじゃないんだから。
だが、法子がラタトゥイユとともにSNSにアップした文章は、以下の通りであった。
※※※
今夜は、ラタトゥイユです。
とっても美味しそうでしょ♪ 皆も食べたいでしょ♪
私の得意料理なんです( ´艸`)
未来の旦那様にも作ってあげたい一品です。
今はまだ学生だし、彼氏すらいないけどwww
あ、そういえば、買い物に行った時、市立○○〇病院の外科病棟で、とってもお世話になった無常さんって看護師さんに偶然、再会しちゃいました!
この無常さん(すごく珍しい姓ですよね)は、ほんと息も止まらんばかりの超~~~~~美人さんです。
スタイルもモデル並みで、何もかもがパーフェクト!
リアルで見た中では、ぶっちぎり一番の美女かも。
私が彼女なら、絶対に芸能界に向かって一直線だったでしょう。
規則と言うことで写真撮影は断られちゃったけど、OKもらえていたなら、ここにアップしたかったぐらいです。
なんて、ウソウソwww
痛い目に遭って(怪我をさせられて)入院することになったから、今後、写真をアップする時は細心の注意をはらっていきまーす♪
他人のこともきちんと考えて、ネットという海を賢く渡っていかなきゃね(∩´∀`)∩
※※※
法子のSNSに届いたコメントは、「ラタトゥイユ美味しそう」とか「その美人ナースを一目見てみたい」とか、おおむね好意的な意見ばかりであった。
これは、一般人大学生の法子がネット上でつながっている大半の者が、同じ大学に通う友人たちor中学校や高校が同じだった友人たちであるということが理由の1つであったろう。
それに加え、やはり”類は友を呼ぶ”というのか、法子の非常識なうえに”危険な書き込み”を窘める者はいなかった。
だが、法子がラタトゥイユを食べ終わった時、明らかに毛色が違うコメントが届いたのだ。
※※※
突然ですが、失礼いたします。
世の中には目立ちたくない美人だっているんです。
その看護師さんだって、美人であることでいい思いばかりしてきたわけではなかったと思いますよ。
例えば、ストーカーに狙われたりしたことがあったかもしれません。
そもそも、あなたはなぜ、いくら美人とはいえ単に入院していた先の病院の看護師さんと写真撮影をしようとしたんですか?
いったい、何のために?
私には、あなたのその神経が分かりません。
看護師さんについて書いている箇所は、一刻も早く削除した方がいいと思います。
※※※
せっかく、いい気分だったのに台無しだ。
法子は返信することなく、そのコメントを削除した。
こういった輩は相手をしないに限る。
こちらが反応すればするだけ、面白がるに違いないから。
しかし、数分後、同じ人からだと思われるコメントが届いた。
※※※
私のコメントは消してしまったんですね。
あなたはまだ大学生で、世間を良く知らないのでしょうが、自分に都合の悪い意見には耳を貸さずに、何もなかったことにするのはいかがかと思います。
それに、あなたはネットを”海”に例えていますが、海というのは公共の場所です。
あなたは自身のSNSという船に乗って、1人で波間を進んでいるつもりかもしれませんが、船に乗ったあなたの姿を行き交う多数の人々が見ているのです。
その中で、コメントをくれる人は一握りでしょう。
けれども、実際はその倍以上の人があなたのSNSを見ていると考えた方がいいですよ。
どんな思惑を持った人が見ているのか分からないのが、ネットの怖さであるのですから。
それに、あなたは自分が船から投げた情報という餌に責任を持たなければなりません。
特定の個人が特定されてしまうような書き込みは、早く削除しましょう。
※※※
怖い。それにキモい。
顔も知らぬ者からの説教ぶった攻撃。
法子は、2回目に届いたコメントも即座に削除した。
だが、また数分後、同じ人からコメントが届いたのだ。
※※※
あなたが削除すべきなのは、私のコメントではないというのがまだ分からないんですか?
あなた自身は、フルネームも大学名も全てSNS上に公開しているから、個人情報をネットに乗せることはきっと平気なんでしょうね。
でも『私が平気なら他の人も平気』と考えるのは、大きな間違いです。
他人の立場に立って考えるべきです。
あなたが特定されて危険な目にあってしまうならまだしも、他人が特定されて危険な目にあう可能性だってあるんですから。
看護師さんについて書いている箇所にしたって、珍しい姓をそのまま載せるのではなく、せめてイニシャルに訂正するぐらいの気遣いをしましょうよ。
これは、看護師さんが珍しい姓じゃなくて、佐藤や山田みたいにありふれた姓だったら、そのまま載せてもいいって言ってるわけじゃないですよ。
そこらへんを間違えて理解しないように。
※※※
法子は、3回目のコメントにも返事することなく削除した。
4回目のコメントは、法子の元には届かなかった。
コメント主も、法子にはもういくら言っても無駄だと悟ったのだろう。
モヤモヤとした気持ち悪さと怒りが、法子の心中に影を落としていた。
気持ち悪いうえに、神経質な人に絡まれちゃったな。ネットって、たまにこういうことがあるから、怖いんだよね。私は確かに無常さんの姓をそのままSNSに載せたけど、フルネームで載せているわけじゃないのに。そもそも、無常さんの下の名前は知らないし。それに、私は無常さんのことを、ブスだって誹謗中傷したわけじゃないもの。美人、それも”超~~~~~美人”だって褒めているし。”私が無常さんだったら”、うれしいもん。第一、無常さんの写真を載せたわけじゃないのに……
まさか、と法子は考える。
あれらは無常さん本人からのコメントだったのでは……と。
担当看護師であった彼女は、法子のフルネームもしっかり知っているし、大学名だって病院の患者情報を調べたら分かるだろう。それらを元に検索したなら、すぐにこのSNSに突き当たるはずだ。
スーパーマーケットで再会した彼女の妙に怯えていた様子を、法子は思い出す。
無常さんは何かに怯えている、いや何かから身を隠して生きている人なのかもしれないわ。例えば、借金? それとも過去に何か、犯罪の片棒を担いだとか? ”私を骨折させて大学を追われた”あの子にも、浮気というやましいことがあった。となると、無常さんにも”何か”があるのかもしれない。”脛に疵持てば笹原走る”というように、やましいことが何もないなら堂々とできるはずなのに。ネットの片隅に、名前――それも”姓だけ”を書かれたって、何も支障はないはずなのに……
翌日の夕方。
法子は、自分が骨折し入院まですることになったあの事件から、真の意味で何一つ学べていなかった、何も分かっていなかったと知ることとなる。
それ以上に、自分は”取り返しのつかないこと”をしてしまったのだとも……
あの3回にもわたる忠告コメントは、無常さん本人などではなく、単なる通りすがりの良識ある人からのものであった。
仮に無常さん本人が、法子がSNSにアップしたあれらの文章をネットで発見していたなら、彼女は即座に荷物をまとめ、朝一で病院に退職届を提出し、逃げ出していただろう。
何も知らなかったから、彼女は逃げられなかった――”逃げ切れなかった”のだ。
『市立○○〇病院の外科病棟に刃物男が乱入。女性看護師1名を殺害』
『殺害された女性看護師(26才)は、逮捕された容疑者の元妻か?』
法子はあれほど手に入れたかった美しい無常さんの顔写真――直近の証明写真だけでなく、学生時代の写真やプライベート写真の幾枚かをネットニュースで見ることとなった。
美人過ぎる看護師であっただけでなく、美人過ぎる殺人被害者ともなってしまった無常さんはネット民たちの間で、ちょっとした話題にもなった。
故・無常さんの美貌もさることながら、世間の注目を浴びたのは元夫の異常性だった。
本人に落ち度はなくても、巡り合わせが悪くて暴力男を引き当ててしまうことはある。
交際期間中はどれだけ優しくても、結婚した途端に豹変する男もいる。
無常さんと、ついに殺人加害者にまでなってしまった元夫は、ともに20代前半で結婚していた。
けれども、結婚直後より元夫はその本性を曝け出し、酒とパチンコに狂うばかりでなく、新妻である無常さんに暴力までも日常的に振るっていた。
夫婦であった彼らの近隣に住んでいた人は、元夫の怒鳴り声と無常さんの悲鳴を幾度も聞いたことがあったと、マスコミのインタビューに答えていた。
普段は手足や胴体など服に隠れる見えないところを殴っていたみたいだが、時折、無常さんはあの美しい顔に痣を作ってもいたとも……
だが、そんな無常さんもやっとの思いで離婚を成立させることができた。
離婚成立とともに、無常さんは元夫の前から姿を消した。
”紙切れ1枚の決別”などでは、真の意味で暴力夫から逃れることができないと彼女は理解していたのだ。
必死の逃亡。
まさに、これからの人生を、いや、命をかけた逃亡であった。
どこにいても元夫の影に怯え、心から笑うことも、人生を楽しむこともできなかったであろう彼女。
マスコミが掴んだ情報によると、無常さんは「看護師は給料いいし、お金貯めて1日でも早く外国に行くつもり。あの人も、さすがに外国にまでは私を追ってこれないはずよ」とも、同僚にこぼしていたらしい。
テレビ局のクルーたちは、殺人現場を目撃した患者たちにもマイクを向けていた。
「ええ、本当に怖かったです。キャーッって悲鳴が聞こえてきたかと思うと『助けてぇ!』という叫び声も……そして『俺から逃げられると思うな!』という怒鳴り声までもが……私はチラッと見ただけですが、廊下はもう血の海でしたよ。壁にまで血が飛び散って、うつ伏せに倒れていた看護師さんの制服も真っ赤に染まっていて、まるで赤い服を着ているみたいでした』
事件現場は病院内だけあって、救命救急医たちが駆けつけるのも速かったが、無常さんはもはや手の施しようがない状態であったらしい。
元妻への歪んだ独占欲と嗜虐欲をその腹にブスブスとくすぶらせ、犯行時までの時を重ねてきた元夫。
俺から逃げたお前がどこかで幸せになっているなんて許せない。どこにいようが俺は必ずお前を探し出してやる。”俺から逃げられると思うな”、と。
ネットという海にて、この手で仕留める”獲物”の情報を毎日のように検索していた元夫は偶然見つけた。
”ついに”見つけた。
見知らぬ女子大生のSNS。
頭からっぽでいかにもバカそうでユルそうな女子大生のSNS。
案の定、ネットリテラシーの低いそいつのSNSには、看護師の資格を持っている元妻の珍しい旧姓だけでなく、身体的特徴や”勤務先までも”がご丁寧に書かれていた。
願い続けていれば叶うのだ!
俺が求めて続けていた”あいつの居場所”が、ついにもたらされたのだ!
これは元夫の執念が引き起こしたシンクロニシティだったのであろうか?
なお、”陰惨な殺人事件のきっかけを作った”法子のSNSは瞬く間に炎上した。炎上しないはずなどなかった。
法子は急いでSNSアカウントそのものを削除したも、すでに魚拓をとられた後だった。
今度は法子が大学を追放される番かもしれない。
いや、ここまでの事態になったら大学どころか、実家までもが危険にさらされるだろう。
幾つかあった分岐点で、法子が違う選択をしていたなら、何より”他人のことを考えて”行動をしていたなら、無常さんは元夫の影に怯えながらも、”今というこの時も”きっと生きていたに違いない。
けれども彼女の運命は、”彼女の知らぬところで”悲劇的な最悪のラストへと向かって紡がれていってしまっていたのだ。
――完――
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