事故

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事故

 小雨の降り続く交差点で、その事故は起こった。  ちょうど小学校の登校時間で、数人の小学生が信号待ちをしているところへ一台の車が突っ込み、小学生の男女合わせて七人に重軽傷を負わせた。  一人が意識不明の重体。四人が足や腕の骨を折るなど重傷。  警察は、この車を運転していた塗装工の坂下(さかした)(りゅう)()、三十七歳を現行犯で逮捕した。  その弁護のお鉢が亮平に回ってきたのは、事件から一カ月が経ってからだった。 「どう考えても有罪だろ。しかも被害者が子供って時点で印象が悪い」  なかなか不利だ。  ただし、心療内科に通院中とあるから、そこを押して行くしかない。  やれやれ、と溜息を吐いて接見に向かった。    透明な板を挟んで向かい合った坂下隆治は、これと言って特徴のない男だった。  強面なわけでもなく、優男というわけでもない。  中肉中背で、目が少し小さい以外は、特筆すべき要素のない外見。  ただ、その小さな目は、忙しなくあちこちを見ていて落ち着かない。 「―――― 初めまして。あなたの弁護をすることになりました、数寄屋橋と言います」  俯き気味に「はぁ」と小刻みに頷き、相変わらず視線は定まらない。  用心深く坂下の様子を観察しながら、亮平はゆっくりと話した。 「心療内科に通っている、とありますが、薬は処方されていますか」  坂下は目をうろうろさせながら、はい、と頷いた。 「何種類?」 「三、三種類、です」 「病院にはいつ頃から通っていますか」  淡々と質問を重ねる亮平に、ゆらゆらと身体を揺すりながら考え、つっかえながら答える。 「じゅ、十三年とか、それくらい前からです。途中、一年くらいは、行って、な、ないです」 「改善していた、ということですか」 「はい」  時間いっぱい主に病状について訊ね、坂下を観察した。一時間程度の接見中、終始落ち着きが無く、眼球運動が止むことはなかった。対人恐怖症のきらいがあるのか、一切目を合わせず、声も小さくて、時折吃音が認められる。  担当の警官に確認すると、確かに薬を処方され、現在も服用しているらしい。  演技だとすると、相当なものだが、あの挙動が常のものであれば、法廷でも疑う余地はないだろう。心神耗弱で推すか、と、拘置所を出たところでネクタイを緩めた。  事件に関連して赴いた警察署内で、偶然香坂と会った。 「あれ、お久し振りです」  笑顔を向けると、香坂は一緒にいた同僚を先に行かせ、亮平と向き合う。 「坂下隆治の弁護を引き受けたそうですね」  開口一番に言われ、亮平は目を瞠った。 「ええ。あれ、検事側は香坂さんですか」 「いえ。―――― 俺は外されてます」  少し低くなった声に違和感を覚えて、亮平が首を傾げると、香坂は視線を落としてひそりと言った。 「私怨が絡むだろうと」 「私怨……? 」  どくり、と心臓が一つ跳ねた。  嫌な予感がする。 「坂下隆治は、十年前に妻と子供を轢いた犯人です」  指先から血の気が引いてゆく気がした。 「まさか、十年経って同じような事件を起こすとは思いませんでしたよ」  口の端に皮肉げな笑みを浮かべて言う香坂の口調には、いつになく感情が籠っているように聞こえた。  それは、負の感情と呼ばれるものではあったけれど。 「あ、の。俺知らなくて……」  前歴を調べるのは鉄則だ。  なのに、それを怠った自分の落ち度は否めない。  けれど、香坂は静かな目で見返して言った。 「あなたは、あなたの正義を貫いてください」  亮平は、大きく目を瞠って香坂を見返した。  しっかりとした声。  そこには迷いも何も無く、法廷でそうであるように、凛と響いた。  香坂は会釈をして、亮平の脇を擦り抜けていく。 『あなたの正義を貫いてください』  坂下の過去に、香坂が絡んでいるとか、そんなことは関係なく。  自分が正しいと思うことを貫く。  当然だ。  公平な目で見なければならない。  自分の信じる正義を示し、最終的にそれを判ずるのは裁判長の仕事。  亮平は「よし」と呟いて、まっすぐ前を見て歩き出した。
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