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「だから、何も心配せずに言いたいことは、はっきり言って下さい」
悠介が何を言わんとしているかは想像ができた。悠介のために唯一してあげられることがあるとするならば、それは彼の話に耳を傾けることだと啓斗は思っていた。
「逃げも隠れもしないでここにいますから。まあ、早く言わないと行っちゃいますけどね」
啓斗は後ろにある玄関のドアにちらっと目を向けた。
「薄情者……」
「そりゃそうでしょう、時間は待ってはくれませんから」
啓斗が笑う音が聞こえた。声のニュアンスでわかる。今笑われてるなあ、今小馬鹿にされてるなあ、今……慈しまれてるなあ。
悠介は啓斗の顔を見て笑うのが好きだったが、涙が止まらないので下を向いたまま話を続けた。
「お前が出て行かなきゃいけないのは……わかってる」
「はい」
「だけど、これだけは言わせて」
「はい」
しばらく続く悠介の嗚咽を啓斗は黙って聞く。ひっくひっくと子どものように泣きじゃくる。泣いているのは悠介一人なのに、部屋全体が泣いているように反響して啓斗に降りかかった。
ふと悠介に初めて会ったときのことを思い出す。雨の日だった。悠介の泣き声があの日の雨の音に重なる。大きな雨粒。傘に当たると小気味よい音を立てて勢いよく跳ね返る。
「啓斗……」
「はい」
「行か……行かないで……」
啓斗は黙ったまま悠介を見下ろす。
「出て、出て行かないで……置いて行かないで」
悠介が両手で顔面を覆っているせいでどんな表情かはよく見えなかった。だが自分の涙を抑えることもできないで泣き続ける男を見ても、啓斗はびくともしない。山か大地か海のようにどっしりとした態度で悠介を包み込むように見守っていた。
優しくでもなく、突き放すでもない。冷たくでもなく、温かいでもない声を放った。
「こっちで試合あるときは、必ず見に来て下さいね。絶対ですよ」
頭の上から降ってくる声に、悠介は顔を両手で隠したまま、うんうん、と何度も何度も頷く。
「いち、一番高いチケット、買って見るから……」
「あはっ!さすがっすね」
「年間シートとか、あるのかな」
「さあ、どうでしょう……ってどんだけオレに貢ぐ気ですか」
「スポンサーが離れて、潰れそうになるチームたまにあるじゃん?絶対、絶対潰させない」
無表情だった啓斗は、嗚咽しながらも強がる悠介の言葉にようやく頬をゆるませた。
その啓斗の笑みが悠介には見えなかったが、見なくても太陽のような眩しさを放っているのが両手の指の隙間から漏れてくるのがわかった。
温かい光を浴びたおかげで、さらに涙の勢いが増す。下を向いたまま、顔を上げることもできず、涙を一滴も残さず掬い上げるかのごとく水掻きのように手のひらを広げた。
一つもこぼさない。一つも逃さない。一つでも落とせば啓斗とは二度と会えなくなる気がした。
ガサッと何か手荷物を持つ音が聞こえたかと思うと、ガチャリとドアの開く音がして、地面を優しく擦るような足音とともに啓斗は部屋を後にした。
「行ってきます」
バタン、という扉が閉まる音とともに遮断された部屋に、啓斗の声が悪魔のいたずらみたいにこだまする。その声は悠介の嗚咽にかき消され、鼻水を啜る水っぽい音だけがいつまでも鳴り響いた。
啓斗の地面を擦るような足音が頭にこびりついて離れない。
たぶん、一生離れない。
(了)
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