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一章 翠雨
雨。
雨が降っている。
それだけで俺の心は少し腐る。
つまり今の梅雨時期は、俺はほぼ腐りっぱなしということになる。
これだという決定的な理由があるわけではないけど、全く無いわけでもない。
強いて上げるとするなら――。
「やあやあ、翠」
――これだ。
「だからその名前で呼ぶなって言ってるだろ……」
俺は声が放たれた方向に、これでもかというほど不機嫌な顔を向けた。
だけどそこにいたのは声の主では無かった。
「あっ……こ、こんにちは。山岸くん」
「え、あ……うん。こんにちは、片山、さん」
片山美来。
おとなしいというよりは物静かな感じの、小柄で可愛い女子だ。俺とは数えるくらいの面識しかない。なのに何故知っているかと言えば、さっき確かに俺を呼んだやつの彼女だからだ。
「ひっどいんだぁ翠くん。急に女の子を睨むなんてさぁ」
足下の方からの声に視線を向けると、片山のすぐ背後に隠れるように尾上真司がしゃがみ込んでいた。
「酷いのはどっちだ。自分の彼女を隠れ蓑にしといて」
「失敬な、俺が美来ちゃんを盾にしたんじゃない。彼女が俺を守ってくれたんだ」
「都合よく言葉遊びするなよ。とにかく、俺を下の名前で呼ぶんじゃない」
「え〜、相変わらずお固いなぁ。翠のケチィ」
ダメだ、拉致があかない。こんな堂々巡りがしたいわけじゃないのに、コイツと話すといつもこういう感じでペースを掴まれる。
昔からこうなんだ尾上は。俺が名前にコンプレックスがあるのを知ってるのに、その名でしか呼ばない。理由を尋ねても『良い名前だから』としか返さない。
「もういいよ……。で、何か用か?」
「はは、そんなの雨降ってるからに決まってるじゃない。翠が落ち込んでるだろうなぁって」
「あ、そう。ならお察しの通りだよ。ついでに変なのにも絡まれたしな……」
「そりゃ大変だねぇ」
精一杯の皮肉のつもりだったのに、当の尾上はあっけらかんとした表情でこっちを見ている。全く……どうにも掴めないやつだ。
「じゃ、またな」
俺はそう言って持っていた傘をさした。
「あんまりサボると単位落とすよ。先輩になるのは勘弁だからね」
「そこらへんは上手くやってるよ。それにお前を先輩って呼ぶくらいなら大学なんて辞めてやる。じゃあ片山さんも、またね」
「あ、うん。――またね、山岸くん」
「また明日ね、翠」
そんな挨拶を交わして、俺は大学の構内を出ていった。
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