自意識

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アイ氏はよく、道を歩きながら変顔をする。ゴリラみたいに鼻の下を広げたり、すぼめた口先をぐるぐる回したり、顔のパーツを真ん中に思い切り寄せた後、ぱあっ、と目と口と鼻の穴を限界まで開いたりするのだ。 本人いわく、変顔では無く声優になるためのトレーニングである。それを、すれ違う人達に毎回説明している。 今日も、アイ氏がひょっとこお面のような顔で歩いていると、親子とすれ違った。親子はすれ違いざまに自分の顔をちらと見たような気がしたので、アイ氏は親子を引き止めて言った。 「いやあ、どうもすみません、怖がらせてしまって。声優というものを目指しておりますと、どうしてもこういう変人じみたことをやらねばならないのでして………」 ぽかんと口を開けているだけの親子に対して弁明を言い終えると、アイ氏はよりわざとらしくひょっとこの顔を作って、また歩き出す。 次にアイ氏が出会ったのは、しばらく姿を見ていなかった友人だった。久しぶりだな、と声をかけてきた友人に、アイ氏は鬼の形相で返した。 「おお、久しぶり。こんなところで会うなんてな。実は俺、声優を目指してるんだよ。最初に俺を見た時は驚いたろ。いやあ、声優を目指すとなると、こういう変人じみたことも……」 友人はげらげら笑いながら去って行った。 次の出会いは、曲がり角で起きた。女優だと言われても疑わないほどの美少女だった。運悪く、アイ氏はアホウドリの顔だった。慌てて美少女を引き止める。 「あっ、あっ、あの………」 弁明の前に、このままでいくべきか、一旦普通の顔にもどるべきか悩んでしまった。何度かアホウドリと人間を行き来したのち、最終的にその中間みたいな表情になって話し出した。 「い、いやあ、声優さんっていうのは大変ですねえ。こういう、地味で、他人が見たら笑い出してしまうようなことを、日々やっているんですからね。僕も見習わなきゃって、思いますよ、ハハハ……」 美少女はきょとんとしていたが、弁明を最後まで聞き終えるとくすっと笑って、がんばってください、と言い残して去って行った。 アイ氏はしばらくの間頬をあかく染めたまま硬直していたが、やがてぶんぶんと首を振った。 「だめだ、これじゃラチが開かない。弁明の度に変な発声をしてしまって、声優になる前に喉を壊しそうだ」 途方に暮れるアイ氏の目の前を選挙カーが通りすぎた。熱心に演説する政治家の声を聞きながらアイ氏は、これだ、と思った。 次の日から、アイ氏は拡声機を持って歩くようになった。相変わらず変顔をするのだが、これまでのような苦労はしなくなった。たった一度の演説で、数十メートル内のすべての人への弁明が済むのだから。アイ氏は拡声機の音量を最大にして、陽気に喋り出す。 「えー、わたくし、声優を目指す者でありまして、そうともなれば、路上でさも変人のような挙動をすることも多く………」
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