もしも中田秀寿が、男2人と女1人の幼なじみで仲良しだった。そんな過去があったなら、、、

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試合直後の会見場で、記者から敗戦のコメントを投げ掛けられた中田は、目すら合わせずに、無言のまま通りすぎた。 それは2006年6月、29歳で自身3大会連続3度目となるドイツW杯。今大会を最後に、引退を決意して挑んだ初戦のオーストラリア戦を1-3で負けた直後だった。 前半中村のゴールで先制しながら、終盤に失点を重ねて、逆転負けを喫した。 敗戦の原因はジーコの采配にあるとマスコミは騒いだ。中田は、自身が取った選択を悔いていた。 一点リードしていた後半に、投入された小野とのポジションの取り合いを、譲ってしまった。 中田には、取り返せない過去があり、同じ過ちを繰り返してしまった。それは14年前の中学3年の時だった。その時に取り合って、譲ってしまったのは、初恋の人だった。 美幸は背がちっちゃくて、よく笑うけど、緊張するとお腹が痛くなってしまう繊細な娘だった。当時の山梨県の田舎では珍しいシングルマザーの家庭で、一人ぼっちになりがちだった。 中田とは家が隣の同級生で、美幸を挟むように、康昭の家があった。 康昭は、お調子者で、正義感が強くって、24時間テレビで障害を持ちながらも頑張っている人の姿を見て、泣いてしまうほど純粋な奴だった。 田中と美幸、康昭は、赤ん坊の頃からの幼なじみの3人組で、幼稚園も小学校も、クラスも塾も3人一緒だった。 中田と康昭は、出掛けるときは、双子みたいに、同じ服を着せられていた。 何かにつけて一緒にされていたけど、嫌だと思ったことはなかった。それが美幸を好きだって、お互いに意識した瞬間に、同じ空間にいることさえ、耐えきれなくなってしまった。中学3年の4月、その年はまだ桜が未練がましく咲き残っていた。 露骨に態度に出す康昭は、殺伐とした3人一緒の下校中に、抜け駆けするように告白した。 美幸の家の前で、有無を言わせないように、美幸の右手を握った。 慌てて中田も告白した。取られないように、美幸の左手を握った。 「二人とも同じくらい大事だから」 板挟みの美幸は、涙と一緒に苦悩を溢した。追い詰めたと思った中田は、手を離してしまった。身を引くことが思いやりで、誠実さが美幸を手に入れられる選択だと思っていた。康昭は、自分勝手に握ったままだった。 翌日の学校で、5時限目の予礼が鳴った。屋上へ続く階段に、西日が描いた一筋の影が伸びていることに、廊下にいた中田が気づくと、湧き水がこぼれるような、寂しい泣き声が聞こえてきた。 中田は歩みよって、最上段に座って泣いていた美幸を見つけると、足音を殺して階段を上がった。今日は朝から美幸に避けられていた。その理由の検討はついている。 中田が隣に座ると、驚いた美幸は立ち上がって、蝶々が飛ぶように、階段を駆け下りて逃げた。 「康昭に怒られたの?」 中田は追いかけて、美幸の腕を掴んで問いかけた。それでも美幸は黙っている。顔も下を向いている。 「俺と話すなって、言われたの?」 美幸は答えなかった。その場にしゃがみ込んで、お腹を抱えた。 「痛いの?」 美幸は緊張するだけじゃなくて、ストレスを感じた時もお腹が痛くなる。 中田もしゃがみ込んで、美幸の小さな背中を抱きしめた。子供を寝かしつけるように、さすってあげた。そうすると少しは痛みが引いてくれるらしかった。 好きだなんて、息苦しい感情が芽生える以前から、何度も経験してきたはずなのに、中田の心臓は騒々しいほど、高鳴っていた。 美幸と康昭とのケンカは、いつも一方的に康昭がキレている。原因は、美幸に急な用事が入って、一緒に帰れなかったり、男から話し掛けてきて、無下に出来ない美幸が愛想笑いを浮かべてた。美幸には、どうしようもないことで、康昭は怒りだすのだ。 そのあとは、美幸が中田に泣きついて、痛みが引くまで抱きしめた。美幸が落ち着けば、ひとりで拗ねている康昭のところまで手を引いて、連れていってあげていた。 仲を取り持ってあげるのが中田の役目で、今まで3人仲良くやってきた。美幸はそれを期待しているのだろう。 美幸が、すがるように抱きついてきた。だけど中田にそんな気は沸いてこなかった。同調するように、扉を蹴る音が轟いた。 康昭が近くで見ていたのだろう。階段を降りていく足音が、怒りの度合いを克明に伝えてくれる。 康昭は、追い詰めるように、美幸の苦しみを無視して、自分の思いだけで縛りつけていた。 「大丈夫。康昭なら、わかってくれるよ」 中田の言葉は、端から見れば、思いやりのこもったように聞こえるけれど、これからは仲を取り持つことはしないと、遠回しに伝えていた。中田なりの決意表明だった。もう仲良し3人組には戻るつもりはない。康昭との関係が壊れたって、美幸を選んだつもりでいた。 美幸は首を絞められたように、うぅっと苦しんだ。額に汗を滲ませて、中田にすがり付いていた腕の力を失った。 この日を境に教室では、康昭がボディーガードみたいに美幸にへばりついて、学校で美幸に話し掛けるチャンスはなくなった。 当時はポケベルの時代で、中田は、「大丈夫か?」ってメッセージを美幸に送った。返事はなかった。 登校は朝練があるから会えないし、下校も部活で、すれ違いになってしまう。唯一の時間はやっぱり教室だけだった。 鉄壁のボディーガードは、日を追うごとに過剰になって、女子すら美幸に近付けない。教室の雰囲気は最悪で、男女が別れる体育の授業になると、美幸は周りの女子から、康昭は辞めた方がいいと説得されていた。それ知った中田は安心して、静観することにした。 放課後、中田は女子に呼び出された。美幸と一番仲良しの千晶だった。 「康昭から、美幸を奪ってよ」 ものすごい剣幕だった。 「落ち着けよ」 なだめるほど、火に油を注ぐだけだった。 「康昭が美幸に、中田と口聞いたら、中田をクラスでハブくって脅してるんだよ」 「そんなの放っておけよ」 「美幸を見捨てるの?」 「今はどうしようもないだろ」 「守ってあげないの?」 「無理に引き離したって、こじれるだけだよ」 「美幸に何かあったら、責任取れるの?」 「康昭は、暴力を振るうような男じゃない」 「ポケベルを康昭に壊されたって美幸が泣いてたよ」 どおりで返事がないわけだ。きっと、中田のメッセージが届いた時に、康昭も一緒にいたのだろう。間が悪いと言うよりは、それだけ、ずっと二人は一緒にいるのだろう。 中田がサッカーに時間を費やす中で、2人は部活に入っていなかった。康昭は、中1まで同じサッカー部だったけれど、中田がレギュラーになって、県の選抜に選ばれた直後に退部した。それから毎試合観に来ていた美幸も姿を現さなくなった。 中田は、康昭に気を使ってのことだとわかっていたから、その件に関して美幸に触れたことはなかった。それに自分の試合を観に来いなんて、恥ずかしくって言えなかった。 2週間後に期末テストが始まる。いつもならテスト勉強を美幸の家に教えに行っていた。一応、勉強道具を持って、美幸の玄関までは行ったけど、インターフォンは押せなかった。康昭が一緒にいたら、美幸が嫌な思いをするからだ。 仕方ないから、テストの要点をまとめたノートをポストに入れるだけにした。少しはみ出したノートを見て、康昭が気づいたら大変だろうと思って、強引に押し込んだ。 何でここまで気を回さなきゃいけないんだって、康昭に苛立った。さっさとケリをつけてしまおう。明日になったら、康昭に話をつけようと心に決めて引き返した。 翌日から美幸が、休み時間の度に教室から消えた。瞼が腫れているのは、康昭と喧嘩したに違いなかった。 昼休みになって、康昭から中田に声を掛けてきた。唐突にノートを突き返された。それは美幸に届けたものだった。 ノートには、無数の折れ目がついている。抵抗する美幸から、康昭が強引に奪った証だった。 中田は、子供染みたくだらなさに、怒りを通り越して呆れた。こんな奴に、美幸が取られてしまうわけがないって確信した。だから、話し合いを先伸ばしに決めた。 アンダー世代の選考を兼ねた代表合宿が来週末に控えている。1週間会えない。それまで美幸を守ってやれない中で、こじらせれば、辛いのは美幸だった。ケリを付けるのは、後回しにすることが、賢明な判断だって思っていた。 1週間の合宿が終った。テストまではあと1週間に迫っている中で、美幸は大丈夫だろうかと心配しながら、登校するために家を出た。すると、道路に康昭が立っていた。 「美幸と付き合うことになった。だから美幸とは話すなよ」 康昭はそれだけ言って去っていった。中田は、どうせ嘘だと思って引き留めなかった。学校まで同じ通学路を歩かなければならないのに、いつまでも視界から消えない康昭が目障りだとしか考えていなかった。 教室に入ると、先週と変わらず美幸の隣には康昭がいた。不思議なのは、あれだけ反対していたはずの千晶も一緒になって笑っていた。 千晶は、中田に気づくと視線をそらした。中田が席に座ると、担任が入ってきて、生徒たちが席に戻っていく。中田の隣には千晶が座っり、後ろめたそうに爪を気にしている。中田は美幸と康昭が付き合ったのが、本当なんだって感じ取った。 朝礼が終わると、康昭が、担任と一緒に出ていった。宿題を忘れた罰として、荷物運びを手伝わされているらしかった。 1人になった美幸に、中田は話し掛けるために立ち上がった。すると千晶に袖を掴まれた。 「美幸と話さないで」 千晶はこの1週間で、康昭の味方に変わっていた。 「康昭になんか言われたの?」 「うん」 「なんて?」 「味方になってくれって」 「それで心変わりしたの?」 「ごめん」 「千晶が俺をけし掛けたんじゃん」 「ごめん」 「何で」 「だって、美幸がお腹痛くならなかった」 「俺がいなかったからって、言いたいの?」 この1週間は、康昭が美幸を傷つけることはなかったらしい。もともと康昭がいい奴なのは、みんなが知っている。中田が絡まなければ、こじれることはない。千晶なりに見つけた収まりどころだった。 「傷つけてるのは、康昭だろ? 俺は何もしてない」 中田はここが教室であって、みんなに聞こえていることに気がついた。見渡せば、見てみぬフリを決め込むクラスの光景に、千晶の言葉がみんなの総意なんだって感じ取った。肝心の美幸も隠れるように、俯いていた。 翌日、朗報が届いた。中田はサッカー部の顧問に職員室へ呼ばれ、日本代表に選ばれたと伝えられた。 中田は誰よりも先に、美幸に伝えたくて、ノートの切れ端に、話があるって書いて手渡した。待ち合わせは、監視されている教室ではなくて、屋上へ続く階段を指定した。 中田は一足先にたどり着いた。美幸は必ず来てくれる確信を持って待っていた。美幸は頼まれごとを断れない性格だから、嫌なことでも受けてしまう。それがお腹を痛くする原因なんだろう。康昭と付き合うのだって、そういうことだと思っていた。 美幸が来た。下を向いて、目を合わせてくれない。中田は、そんな距離を取るような態度にムカついて、日本代表に選ばれたって報告するはずが、問い詰めてしまった。 「康昭と付き合ってるの?」 美幸は、頷いた。 「美幸の意志なの?」 美幸は、頷いた。 「そう言えって、言われたんじゃないの?」 美幸は、首を振った。声を出してくれない。康昭に話すなって言われているからだろう。それでも中田を完全に無視出来るほど割り切れていない。 板挟みになった美幸がしゃがみ込んで、お腹を抱えた。絞り出すようなか細い声で、 「ごめんね」 「なにが?」 「ヒデは大切だけど、気持ちには答えられない」 美幸は、告白を受けるのだと勘違いしていた。中田は、美幸がお腹を痛めるほど、勇気を振り絞った姿を見て、否定することは出来なかった。日本代表に選ばれたってことも言えず、いつものように、痛みに苦しむ美幸を抱きしめられるはずもなかった。 美幸のお腹は、病院で検査をしても治す手だてが見つからない。昔は中田が抱きしめてやることが、唯一のお薬だった。 今となっては、痛みの根源に成り下がって、病原体のように悪化させてしまう。中田は身を引いた。美幸を傷つけたくはなかった。 その後、美幸と康昭は、別れることなく付き合い続けて、高校卒業と同時に結婚した。現在は5人もの子供を授かっていた。 本当に欲しいと望むものを目の前にして、誠実さなんて、傷をつけるほどの愛情の前ではかすんでしまう。 思ったことは伝えるべきだし、反感をかったところで、揺るぎない意志を持った行動は、結果さえ示してしまえば、簡単に覆ってしまうのだ。 中田はこの失恋をきっかけに、二度と引き下がらないと誓ったつもりだった。それからの14年間、実践してきたつもりだった。 なのに、引退を決意して挑んだW杯で、ポジションを譲ってしまった。 取り合った小野伸二は、共に攻撃を得意とするプレイヤーで、主戦場も同じトップ下で被っていた。 想定外のシチュエーションの交代投入で、ジーコからの明確なポジションの指示は伝えられなかった。どちらが高い位置でプレーをするかの判断は、小野と中田に委ねられた。 時間が動き続けるなかで、話し合う時間は与えられない。小野がスルスルと前線へ掛け上がった。小野は、守備力が優る中田が下がることが勝利に繋がると考えていた。 中田は、炎天下の中で体力を消耗していた。守備に回る時間が多い中で、フレッシュな小野が下がるべきだと思っていた。 お互いに勝利を目指していることは変わらないけれど、それぞれの思案は、ちぐはぐだった。 中田には、小野が前線へ上がったことが、ジーコからの指示なのか、状況がたまたまそうさせただけで、一次的な偶然なのかがわからない。 まだその時点で、日本が一点リードしている状況だった。グループリーグを突破する上で、オーストラリアが最弱で、負けることは許されない。 中田は混乱を招くことを避けることが最善だと判断して、様子を見ることにした。その5分後に失点すると、わずか8分あまりの間に3点を奪われ、屈辱的な逆転負けを喫した。 静観しているべきではなかった。小野のユニフォームを引っ張ってでも、ポジションを入れ換えて、自分が前線に上がるべきだった。 終了のホイッスルを聞いて、中田の脳裏に失恋の過ちが甦ってきた。その直後に記者から敗戦のコメントを投げ掛けられたって、カッコ悪過ぎて、答えられるはずもなかった。 14年前のあの時、美幸を傷つけたって構わず、気持ちを押し通していたなら、美幸はどちらを選んでいたのだろうか。中田はそんなことを考えていた。 いつまでも成長しない自分自身を呆れて、気持ちを律して立ち止まった。大人として、日本代表選手として、記者の質問には答えた。 帰りの日本代表のバスは、まだ初戦が終わっただけなのに、グループリーグ敗退が決まったように重苦しい雰囲気に沈んでいた。 中田はこれ以上悔いを残さないために、今何をすべきかを考えていた。 日本代表の現状は、中田としては、リスクを犯して攻撃的に行くべきだと思っていた。 DF陣は、世界との実力差を体感した結果、リスクを犯さずに勝利を手繰り寄せるべきだと考えていた。 どちらが正しいかなんて結果でしか示せない。14年前の経験を踏まえれば、我を押し通すことが正解になるだろうが、中田は監督ではないから、戦術を決められるわけじゃない。一人だけ攻撃的にプレーしたところで、味方の10人が連動してくれなければ、チームが崩壊してしまう。 中田に出来ることは、自分の意志を伝え続けるだけしかない。どんなに仲間に煙たがられようとも退かなかった。それをマスコミは、中田の孤立だと書き下ろしていた。 中田はホテルに着くと、部屋にこもり、気持ちを整理するためにPCを立ち上げて、放置していたメールのチェックをした。 その中で、12日前に届いていたメールに、目を留めた。その日はW杯に現地入りしてから3日後の、ドイツとの親善試合を行った日付だった。3度の優勝経験があるドイツに2-2の引き分けは、本大会への期待を掻き立てていた。 宛名に美幸の名前が記されていた。携帯を持ち始めた当初から、お互いのアドレスは知っていた。プロになっても、日本代表に選ばれても、メールが送られてくることは一度もなかったけれど、携帯を代える度に、アドレス変更は知らせ合っていた。 また携帯を代えたのだろうと思って、メールを開いてみた。日本代表のユニホームを着て応援している子どもたちの画像と一緒に、康昭と離婚したってメッセージが添えられていた。 美幸の意図はハッキリと読み取れた。諦めていた決定権が、こぼれ球のように中田へもたらされた。誠実であろうとした選択が、14年越しに実を結んだのだ。 中田はなんと返事をしようかと、キーボードに手を添えたけど、一文字も打ち込むことなく、PCを閉じた。それが誠実な返答になると思った。 美幸が頻繁にお腹を痛めた原因が、優しくする自身の態度にあったんじゃないかと、今にしてみれば思ったからであった。                 おわり
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