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ひぐらしはもう聞こえない。あれだけ騒がしく鳴いていた、あの他の蝉たちも、すっかり黙り込んでいる。
日が完全に落ち込んで、夜虫が鳴き出すまでの、僅かな夏の静寂だ。一陣、風が突き抜ける。昼間、アスファルトを焦がした風は、今衰えすら見えている。塩素の匂いが、つん、とした。それを合図に飛び込んで、無我夢中で泳ぎだす。
全てを置き去りにするように、私はただ、前へと進む。
端まで泳ぎ、水中で回る。勢いよく、プールサイドを蹴り出して、私は再び泳ぎだす。何も考えることはない。
ただ、前へ。身も心も、それだけに使う。やがて、息も、体も苦しくなって、自然と前へ進めなくなる。それでも、私は体を使う。手を前へと押し出して、足を水面へ潜らせる。
やがて、限界が私の肩へと手を乗せる。
それすら置き去りにするように、私は必死に手を伸ばす。
けれども疲れは着実に、私の泳ぎを遅くする。そのうち、限界に少しずつ追いつかれ、足の先から重くなる。
足先から様々なものが私の胸へと這い上がる。それは水泳のことや、祖父のこと。鯨幕と、線香の香り。誰もいなくなった家の中。
歯を食いしばって、手をのばす。藻掻くように、足を振る。けれども足が、つきそうになる。
瞬間、思いっきり息を継ぐ。そのまま、プールに沈んでいった。疲れた身体を胎児のように縮こめて、私は水底へ落ちてゆく。
こつりと、底に足先が触れる。私は身体をほぐすように、ゆっくりと身体を広げていった。そして、仰向けになって目を開ける。
私が割った水面の波紋、それは何事もなかったのように、静かに何処かへ消えてゆく。遠く、水面が月と星を映し出す。まるで自分が夜空の中に、放り込まれたようだった。その光景は、私にひっそりと寄り添うようで、私を包み込んでくれてるようで。私の胸が、泣きたいくらいに暖かい。
やがて、息が苦しくなって、鼓動の音が聞こえても、私はまだ、水底に沈んだままでいる。けれども、全てに終わりはやってくる。やがて私は、力を抜いた。
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